月夜の理科部

嶌田あき

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3.下弦

第21夜 表と裏(下)

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 急に誰かに声をかけられ、私は慌てて振り返った。ローバーは異常な入力を検知し、カメラ位置を変えなかった。軽くめまいがした。

「あっ、そうか」

 気付いた私は、VRゴーグルを外した。

「量子データなんでしょう? 直接読み込んではだめです!」

 声を荒げていたのは顧問の得居先生だった。

「竹戸瀬先生の大事なデータ、元に戻せなくなってしまいますよ?」
「え? 先生、なんでご存知なんですか?」
「野今さんから伺いました」
「カサネ……」

 外したVRゴーグルを実験台に置くと、彼女は数学教師らしく前提条件からゆっくり話し始めた。これから定理の証明に取り掛かるかのように、少し興奮気味に。

「まず、普通のデータは、コインの表裏だと思ってください」

 彼女の解説によると、こうだ。
 通常、私たちが〈データ〉と呼ぶものは全て、0と1の数字の列だ。そしてこの大量の0と1は、コインの裏表や、磁石のN極S極のように保存されている。もちろん、スマホの中に極微のコインが並んでいるわけじゃない。0と1という抽象的な情報も、必ず物理的な実体に保存されている、という意味だ。

「〈量子データ〉はクルクルと回転するコインに記録されているようなものなんです。0か1か、はっきりせず……」
「わぁ、面白いですね。優柔不断?」
「ふふふ。そうかも知れませんね」

 得居先生は、あちちと言ってジャージのポケットからおしるこ缶を取り出した。

「さて、重要なのはここからです」
「はい」

 私は笑顔でおしるこ缶を受け取った。

「実は、量子データは回転そのものに書き込まれています。でも、普通の方法で読み込むと、回転が止まり、データは壊れてしまうんですよ。分かりますか?」
「うん、と……?」
「数学では射影しゃえいというんですが。ちょっと、難しすぎましたね……」

 得居先生は申し訳無さそうにうしろ頭をポリポリとかいた。私の頭の中ではデータを読む話と回転するコインを見る話が、どうしてもつながらない。すると得居先生は、思いついた顔でスマホのライトに缶をかざし、机を指差した。

「影を見てください。どんな形をしてますか?」
「丸、ですね」
「そうですよね。では、こちらはどうですか?」

 彼女は何かごそごそとやってから、再度尋ねた。

「――これも、丸ですね」
「はい」

 私は不思議に思い彼女の手元に目を移す。したり顔の彼女が手にしていたのは缶ではなく、似たような大きさのボールだった。

「……あ!」
「そういうことです。影だけでは、もとの立体は分かりません。情報が落ちてしまっているからです。丸い影を落とす立体は、円柱、球、円錐などいくらでもあります」

 量子データの読み込みは、いわば影を見る操作なのだそうだ。元の立体の全情報を得ることができない。しかも、厄介なことに、この操作をすると立体は潰れ、元の量子データの姿は永久に失われるという。

「立体の復元には立面図と平面図が必要です。中学で習いましたよね? でも〈量子データ〉では許されません。影を見るのは1回きり」
「え……」
「證大寺さん。それでもデータ、読みますか?」
 証明、終わり。
 答えはノーに決まってるのに、あえて疑問形で終わる。こうして私の〈松プラン〉は、根本からポッキリと折られてしまった。
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