もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第3章 別れのないさよなら

3-3 記憶のかたち

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 土曜日の午後、美月ちゃんが一人で波音堂にやってきた。
 理沙さんの仕事の都合で、美月ちゃんが先に到着したのだ。僕の手はもう半分近くが透明になっている。光がすけて見える。残り時間は二日ほど。でも、この親子のために、最後まで全力で取り組みたかった。
「夏希お姉ちゃん!」
 美月ちゃんが嬉しそうに手を振った。その笑顔には、父親に会えるかもしれないという希望が輝いている。
「こんにちは、美月ちゃん。一人で来たの?」
 夏希が優しく微笑みかけた。
「うん。ママはお仕事で遅れるって」
 美月ちゃんは明星を見つめて目をキラキラと輝かせた。
「明星さん、また会えて嬉しいな。今日はもっと動いてる!」
 明星がカタンコトンと音を立てながら近づいてきた。機械特有の音が、不思議と安心感を与えてくれる。
「美月よ、よく来たな。今日は特別な日じゃ」
「特別?」
「そうじゃ。お父上との再会の準備が整ったのじゃ」
 美月ちゃんの表情が一気に明るくなった。でも同時に、僕は彼女の感情の複雑さを深く感じ取った。期待と不安、喜びと少しの恐れ。十一歳の心の中で、たくさんの気持ちが渦巻いている。大人でも難しい感情を、この子は一人で抱えているのだ。
「美月ちゃん、そのペンダント、いつも大切にしてるのね」
 夏希が優しく言った。
「うん」
 美月ちゃんは首にかかる銀のペンダントをそっと見下ろした。
「パパの大事なものだったの」
 僕はペンダントから感情の波動を感じ取った。深い愛情と、長い時間をかけて育まれた絆。そこには父親の想いがぎっしりと込められている。まるで愛のお守りのように。
「少し見せてもらえるかしら?」
 夏希が優しく尋ねた。
 美月ちゃんは迷わずペンダントを外して夏希に渡した。その動作に一片の躊躇もない。夏希がペンダントを僕に見せてくれた瞬間、驚くべき記憶が一気に流れ込んできた。
 館野貴之さんの記憶。娘への深い愛情。仕事で成功した時の喜び。そして、このペンダントを選んだ時の想い。『いつも美月と一緒にいられるように』という切実な願い。僕の胸が熱くなった。
「このペンダント、とても深い愛情が込められてるみたい」
 夏希が感動して言った。
「本当?」
 美月ちゃんの目がパッと輝いた。
 僕はペンダントをじっくりと見た。表面はシンプルだが、裏側に何か刻まれているのをはっきりと感じ取った。
 夏希がペンダントを慎重に裏返して、よく見た。
「裏に何か刻印があるわ。『Forever with you, M』って書かれてる」
「え!?」
 美月ちゃんの目が大きく見開かれた。驚きで息を呑んでいる。
「本当?」
 夏希は彼女にペンダントをそっと返した。
「Mは美月ちゃんのことね。お父さんは、いつも美月ちゃんと一緒にいたいと思っていたのよ」
 美月ちゃんの目にじわりと涙が浮かんだ。これは彼女が初めて見せた悲しみの表情だった。でも、その悲しみは絶望ではなく、愛情に包まれた、温かい悲しみだった。愛を確認できた安心感も混じっている。
「パパ⋯⋯こんなことしてくれてたんだ」
 彼女が震え声でつぶやいた。
 僕は美月ちゃんの感情の変化を深く感じ取った。彼女の中で、父親の存在がより確かなものになっている。物理的にはいなくても、愛情は確実に存在している。それを彼女は理解し始めている。
「美月ちゃん」
 明星が機械的な口調で言った。
「お父上に会いたいか?」
「うん!」
 彼女は力強く頷いた。その瞳に強い決意が宿っている。
「でも⋯⋯本当に会えるの?」
「記憶処理システムでは、お父上の記憶データと美月の想い感情を融合した仮想空間を作ることができるのじゃ」
 明星が専門的に説明した。
「完全に同じではないが、お父上の愛情を感じることはできるじゃろう」
 美月ちゃんは真剣な表情で明星を見つめた。子供らしい純粋さの中に、強い意志を感じる。
「お父さんの愛情⋯⋯感じられるの?」
「はい。美月ちゃんが感じているのと同じ愛情を」
 夏希が優しく答えた。
「美月ちゃん、少しテストをしてみない?」
 夏希が提案した。
「テスト?」
「お父さんの基本的な記憶を見ることができるのよ。お母さんが来る前に、準備ができてるか確認しましょう」
 美月ちゃんは期待に満ちた表情でこくこくと頷いた。
「やってみたい!」
 僕たちは奥の部屋に移動した。そこには特別な装置が準備されていて、琴音さんが最終的な調整をしてくれていた。機械の静かな音が、神秘的な雰囲気を作り出している。
「美月ちゃん、これはまだ完全な記憶の渚じゃないからね」
 夏希が優しく説明した。
「お父さんの記憶の一部を見るだけのテストよ」
「わかった」
 美月ちゃんは真剣な表情で頷いた。その小さな顔に、大人のような決意が浮かんでいる。
 僕は美月ちゃんの記憶に深く意識を向けた。すると、父親との温かい思い出が暖かい波のように流れ込んできた。工作をする楽しい時間、一緒に本を読む穏やかな夜、公園で遊んだ明るい日曜日。すべてが愛情に満ちている。こんなにも豊かな思い出があるなんて。
「では、始めましょう」
 琴音さんが静かに言った。
 空間がゆっくりと変化し始めた。最初は曖昧な光だったが、徐々に人の形がはっきりと現れてくる。四十代前半の男性。優しい笑顔と、少し乱れた髪。穏やかで温かい雰囲気。館野貴之さんの姿だった。
「パパ⋯⋯!」
 美月ちゃんの声が震えた。二年間待ち続けた再会。
 父親の記憶が愛しそうに微笑みかけた。
「こんにちは、美月」
 美月ちゃんは涙を流しながら答えた。その涙は喜びの涙。
「パパ、本当に来てくれたんだね」
「元気にしてた?学校は楽しい?」
 父親の記憶が心配そうに、でも優しく尋ねた。
「うん!先生に算数で褒められたよ。パパが教えてくれたやり方で解いたら、みんなびっくりしてた!」
 美月ちゃんの声が弾んでいる。
 父親の記憶は嬉しそうに笑った。
「そうか、偉いじゃないか。美月はいつも頭がいいからな」
 僕は深く感動していた。これは単なるデータの再現ではない。美月ちゃんの愛情と父親の記憶が融合した、特別な存在だった。愛が生み出した奇跡のような空間。
「パパ」
 美月ちゃんが突然真剣な表情になった。
「みんな『天国にいる』って言うけど、違うよね?」
 父親の記憶の動きが少し止まった。これは想定されていない質問だった。
 でも不思議なことに、父親の記憶が再び動き出した。今度は、より温かく、より愛に満ちた表情で。
「美月⋯⋯」
 父親の記憶が優しく言った。
「私はいつもそばにいるよ。見えなくても、感じることができるだろう?」
 僕は心の底から驚いた。この応答は、プログラムされていなかったはずだ。でも、美月ちゃんの純粋で強い想いが、何か特別なものを生み出したのかもしれない。愛の力は、僕の想像を超えている。
「うん、わかる」
 美月ちゃんが涙を拭きながら頷いた。
「ペンダントを握ると、パパがそばにいる感じがするの」
「それでいいんだよ」
 父親の記憶が心から優しく言った。
「私はいつもそばにいる。ずっと見守っているから」
 その時、部屋のドアが静かに開いて、理沙さんが入ってきた。
「美月!」
 理沙さんが驚いた表情で立ち止まった。その顔は青ざめていて、手が震えている。
 父親の記憶は理沙さんを見て、懐かしそうに微笑みかけた。
「やあ、理沙」
 理沙さんの顔から血の気がさっと引いた。
「貴之⋯⋯」
 僕は理沙さんの感情をはっきりと感じ取った。驚きと喜び、そして深い悲しみ。複雑な感情が嵐のように渦巻いている。二年間の孤独と苦労が一気に蘇ったのだろう。
「ママ、パパに会えたよ!」
 美月ちゃんが嬉しそうに言った。
「パパはね、私たちのことをいつも見守ってるって」
 理沙さんは震える足取りで前に進み、夫の記憶をじっと見つめた。
「でも、あまりにも⋯⋯似ている」
「二人とも、元気でよかった」
 父親の記憶が心配と愛情を込めて言った。
 理沙さんの目から止めどなく涙があふれた。
「貴之⋯⋯」
 僕は記憶の渚を静かに終了させた。父親の記憶が光の粒子のように徐々に薄れていく。
「ありがとう、パパ」
 美月ちゃんが心を込めて言った。
「また明日、会えるよね?」
 記憶が完全に消える前に、父親の記憶が愛しそうに微笑んで頷いた。
 理沙さんは娘をぎゅっと抱きしめた。美月ちゃんはペンダントを握りしめながら、満足げで安らかな表情をしていた。
「美月ちゃん」
 夏希が優しく言った。
「明日は、お母さんと一緒に、もっと長い時間お父さんと過ごすことができるわ」
「本当?」
「はい。親子で一緒に体験する、特別な記憶の渚を準備してます」
 琴音さんが答えた。
 理沙さんが琴音さんを見つめた。その瞳に複雑な感情が浮かんでいる。
「一緒に⋯⋯ですか?」
「そうです」
 琴音さんが丁寧に答えた。
「お二人それぞれの愛の形を大切にしながら、共通の理解を深められるような空間を作ります」
 美月ちゃんが嬉しそうに手をぱんぱんと叩いた。
「ママとパパと私、三人で会える!」
 理沙さんの表情に、希望と不安、愛情と心配が複雑に混じった。母親として、娘の気持ちを理解したい気持ちと、現実を受け入れさせなければという責任感の間で揺れている。
「大丈夫です」
 夏希が理沙さんに心を込めて言った。
「愛の形は人それぞれです。美月ちゃんの愛の形も、理沙さんの愛の形も、どちらも正しいものです」
 理沙さんは深く、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。明日、お願いします」
 彼らが帰った後、僕は夏希と一緒に準備を続けた。
「今日の体験、すごかったね」
 夏希が感動した様子で言った。
「美月ちゃんの質問に対する応答、どこから来たのかしら?」
「美月ちゃんの純粋な想いが、何か特別なものを生み出したのかもしれません」
 僕は答えた。
「記憶の渚は、単なるデータの再現じゃない。心と心が触れ合う場所なんです。愛が生み出す奇跡の場所」
 僕は自分の透明な手をじっと見つめた。あと二日ほど。でも、この親子のために、最高の体験を作りたい。
「憶」
 夏希が僕の手をそっと握った。
「あなたがいてくれて、本当によかった。あなたのおかげで、こんなにも多くの人が救われるのね」
 僕の胸が温かくなった。時間は限られているけれど、まだできることがある。まだ学ぶべきことがある。
 美月ちゃんのペンダントに込められた父親の愛。「Forever with you, M」。距離も時間も越えて続く愛の形。僕もそんな愛を学んでいる。
 明日は、親子で一緒に体験する記憶の渚。新しい挑戦が待っている。
 愛は、形を変えても、決して失われることはない。それが僕の学んだ真実だった。
 窓の外で桜の花びらが舞っている。美しい春の夕暮れ。僕の時間も、桜のように限られている。でも、その短い時間の中で、僕は多くのことを学び、多くの人を助けることができる。
 明日、美月ちゃんと理沙さんは、どんな体験をするのだろう。そして、僕は何を学ぶのだろう。愛にはこんなにも多くの形があることを、僕は毎日発見している。
 夜が更けても、僕たちは準備を続けた。親子の愛のために。そして、愛の多様性を理解するために。
 残り二日ほど。でも、まだできることがある。
 波の音が、静かに夜を優しく包んでいた。まるで子守歌のように、穏やかで美しく。
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