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推しと推しのジレンマ

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 先日、小説家仲間と食事をする機会があったのですが、そのうちの一人が今日誕生日のO型だそうなんですよね。それを既婚者の友人に教えたら、「私と結婚する人だ!」と言われたそうで。なんのこっちゃと思ったら、その方の旦那さんも今日が誕生日のO型だそうで。『私と結婚する人』イコール『相性のいい人』という意味なんでしょう。その友人は私と共通の友人でもあって、たしかにふたりは私から見ても気が合うように思います。
 この一部始終を違う友人に「面白いよね」と話したら、その友人は「離婚した旦那の誕生日と同じだ……」と複雑そうに笑っておりました。
 自分には直接関係のないことや、共通点が見出せなさそうなことでも、身近にあるものと同じだったりすると不思議と共感してしまうものです。それがプラスの気持ちでもマイナスの気持ちでも、思い入れが強いものって案外忘れられなかったりするんですよね。
 皆さんも「芸能人のあの人と同じ誕生日だから、今度ドラマを観てみよう」とか、「推しと同じ誕生日、嬉しい」とかこれまでの人生で一度くらいは感じたことがあると思います。
 ところで、以前もお話した通り、私は小説以外にもゲームやアニメ、映画にドラマなど、『フィクション』と呼ばれるものは大概好きなのですが、所謂オタクというやつで、たまに友達同士で語り合うことがあります。
 その子は推しの誕生日が自分と近いから、免許の更新日をその日にして、自分の誕生日と推しの誕生日を免許証に載せるんだ!と張り切る筋金入りの女の子なのですが。
 その二次元大好きな友達から、つい最近悩みを打ち明けられました。「推しの声が変わってしまった」と。大人の事情で詳細は伏せますが、自分が推しとして好きになった声と、続編となった今現在の声は違うそうなんですよね。でも、今現在の声はそれはそれでまた別の好きな人の声なんだそうです。
 『推しの声は推しじゃなくなったけど、推しになった』という複雑極まりない状態なわけですが、彼女はこう言います。「願わくは好きになった頃に戻って欲しい」んだと。「でも、そうすると今度は今の推しの声の推しが見られなくなる」、どっちも観たいのにどっちかしか観られないというジレンマがふとした瞬間頭をよぎるんだと。
 代役に限らず、何でもそうですが、シリーズものの作品は総じて『初代』、あるいは『無印』などと呼ばれる一番最初に公開された作品が最も人気が高く、また完成度も高い印象です。
 たまに続編などとは形ばかりでは?という作品も見かけますが、続編は当然『つづき』なのですから、初代あっての続編です。そもそも続編だけでは作品として成り立たないわけですから、前作の人気を超えられないのはまぁ当たり前と言えば当たり前なのかもしれません。
 それに、初代に関して言うなら、市場に出るまでに改良に改良を重ねて満を持して登場しているはず。人気を出そうと思ったら、完成度の高い作品でないと見向きもされないからです。続編を作れるかどうかは、市場に出してみないとわかりませんから、初代──というよりこの段階では、ある程度ワンシリーズだけで完結できるように作られているはずなのです。ひとたび人気が出れば、大人の事情と言われればそうかもしれませんが、今度は人気のあるうち、忘れ去られないうちに、早めに出そう!という意気込みの表れか、鉄は熱いうちに打ての精神で次の作品が作られていく。
 もちろんそれが悪いことではありませんし、それこそファンの心を離さない為の戦略でもあります。
 『初代こそ正義』と思いがち感じがちですが、シリーズものの作品において、『初代だけ』ではそのキャラクターの魅力を全て理解することはできません。どうしてこういう性格になったのか、どうしてこういう信念を持つに至ったのか。それは続編──正しくは初代より後に市場に出る作品全てを通して、はじめてわかるもの。
 解釈違いなどとよく言いますが、自分が想像していた展開と違ったり、あるいは大衆に合わせて過激な方向転換をしたりすると、主人公以上に自分や制作側の信念が曲がって見えて嫌になることも少なくありません。
 それはともかく、初代には初めて作品と出会った、もっと言えばその世界を知った衝撃と感動がつきものですから、そのフィルターを通して見れば、その後のどんな作品も同等以上の衝撃や感動をもたらすことはほとんどないでしょう。全く無の状態から受けるのと、初代という前提があって受けるのとでは衝撃も感動も大きさが桁違いです。
 当然、続編ですから、ストーリー自体は違うでしょう。新しい登場人物だっているかもしれない。初代は初代、続編は続編、という切り離した形なら「これはこれで面白い!」と思えるのですが、いかんせん比較対象があったら比べてしまうのが人の性。いいではないですか、『これはこれ』、『それはそれ』で。
 さて、ここまでは私たちの世界でのお話でしたが、ここで作品の世界のお話もしましょう。
 作品世界では続編ですから、初代より未来の出来事、または過去の出来事が描かれたりもしますが、総じて一続きの人生の話です。主人公の過去現実未来が描かれている。あれから3年後とか十年前とか、私たちの知らない空白の年月ももちろんありますが、その間も彼らには同じ時間が流れていて、同じだけ歳を重ねて来たのです。
 考え方や行動が変われば違和感が生まれますが、現実の世界で考えれば特に珍しいことでもないかもしれませんよね。その空白の時間に、まだ進展していなくても、実は将来愛し合う人と出会っているかもしれない。あるいは、本人も気づいていない体の不調が現れているかもしれない。
 ラブストーリーにしても悲劇にしても、物語の中でそういう細かな彼らの日常が描かれ、後にそれが重要なことだったとわかると、衝撃という名の震えが走るものです。
 良い作品は良いメリハリと以前持論を申し上げたことがありますが、良い作品とはそういった伏線が上手に、実際に目にしたその時は本当に気づかないほどの小ささで、綺麗に張り巡らされているものです。「あれも伏線だったのか!」と思わず叫んでしまいたくなるくらいに。
 ゲーム実況動画が人気を博して結構経ちますが、皆さんも自分はしないけど動画は観たことがあるという方は少なくないはず。実際にプレイする方は言わずもがな、解説動画などを視聴することもあるでしょう。
 特にストーリー仕立ての作品はそうなりがちですが、そのほとんどが初見の一周目を動画化しますよね。ストーリー全てをクリアしたその後に何周もするという強者の存在も言うほど珍しくはないと思いますが、2周目以降にも新たな発見があること、とんでもなく小さかったから思い出すこともなかったけど実はこれも伏線だったと気がつくこと、一つや二つではないはずです。
 ストーリーを全く知らないプレイと、ストーリーや進め方を知った上でのプレイはまた違う感覚があると思います。何が言いたいのかと言うと、「2周目以降のプレイも動画化してみない?」という無茶苦茶な提案です。
 初見動画を観ている前提ですからネタばらしもOKですし、こうなることがわかっていて観る主人公の行動には、初見とはまた別の意味で納得がいくこともあるでしょう。
 とはいえゲーム実況というのは編集作業なども含めると、たった数十分に思える動画にもきっと倍以上の時間がかかっているのでしょう。生放送だって自分の反応や言葉遣い、そういったものに気を遣ってゲーム以外のことにも集中しているはずで、きっと視聴者が思う以上に神経を使っているのかもしれませんね。
 私は同じ動画を何度も観られるタイプですが、やっぱり時間は有限ですから、同じものより新しいものが観たい、新しいゲームをプレイしたいと思うのもまた人の性というもの。
 そろそろお別れの時間です。ゲームにしろ動画にしろ、SNSにデートも、何でもそうなのでしょうが、自分が楽しいと思っている時間というのは本当にあっけなく過ぎるものです。
 嫌なことより好きなことに、より多くの時間を費やしたいと思うのは、きっと誰しもが考えること。
 一日中、いえ、できたら一生遊んで暮らしたいとは世界中の人間が共通して感じることなのではないでしょうか。
 仕事がなければ生きていけない私ももちろん、そんなことは夢のまた夢です。が、世界には環境的にそれすら許されない人たちも多くいますよね。
 アニメやゲームの主人公のように、自分が後悔しない生き方を貫けたらどんなにいいでしょう。でも、どんなにかっこいい主人公も、過ちを犯さないことはないのです。
 何度も言うように、主人公の正義が誰かにとっては間違っているかもしれない。たとえフィクションの中でも、私たちが生きる現実世界と全く切り離して考えることはできません。
 だって私たちが生きる世界がなければ、物語も主人公も、生まれはしないのですから。
 あなたも同じ、この世界が、あなたの周りの人が、この世に存在しなかったら、今のあなたはいない。一年また一年と私たちは歳を重ねます。でも、そうやってあなたの人生も私の人生も続いてきたからこそ、この世界が続いていくということでもあります。
 まもなく私も誕生日を迎えますが、『生きる』ということは『尊いこと』だと時が流れるほどに思います。皆さんもどうか、素敵な日々を過ごしてください。
 そして願わくは、幸せな人生を満喫してください。
 では、また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。


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