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『見るな』を見たい心理
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さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
最近、乾燥のせいで紙が捲れなくて困っている私ですが、年上の友人に「20代までは手汗がすごくて、紙捲れないなんてことなかったのに」と話したら絶妙な間で「……歳とったんじゃない?」と言われました。
当時は「そんなに捲れないもの?」と上司が苦戦している姿をぼんやり眺めていたものですが、寄る年波には勝てないとはまさにこのこと。
皆さんも経験があるのではないでしょうか。
味の好みが変わったり、甘いものや脂っこいものがあまり食べられなくなったり。あんなに美味しかったのにと思うのですが、あの頃と同じようには食べられなくなった今、あまり寂しいとも感じなくなるものです。「もういいや……」という気持ちのほうが勝ってしまうんですよね。
よく更地になった場所に「あれ、ここ何があったっけ?」と思い出せなくなることがありますが、あれと少し似ていますね。何があったかわからないから、特に感慨もないというような。
でも、きっとそこには私たちと同様に、日常を送る人々の姿があったはずで。他人から見れば、私たちだって、私たちが過ごす場所だって、「ふうん」くらいの感覚でしかないのでしょう。
時に皆さん、こういった世間話をする際に、知ったかぶりをしたことがありますか? かくいう私はわりとしょっちゅうなのですが。負けず嫌いな性格と、それでいて人に自然と合わせてしまう習慣、さらに相槌としてとりあえず頷いてしまう癖が、おそらく大きく起因していることと自覚しています。別に「知らない」と答えたところで何も起きるわけではないのですが、否定の言葉ってどことなく冷たく、強い響きになりがちですよね。だから、できるだけ言葉を選んで合わせてしまうのです。世間話程度ならそれでも特に困らないのでついついやってしまうんですね。
でも、知ったかぶりをすると後々面倒なことになりそうだなと思うことはできるだけ「知らない」「わからない」と答えるようにしています。
知らないのに知ってるふりをして仕事を任されて、そこに責任が発生したらとんでもないことになるからです。
ですから「何でもします」なんて簡単に言っちゃいけないんですよね、本当は。意気込みは感じられるし、やる気も見えるけれど、実際「何でも」はできませんから。
皆さんも新人さんに仕事を教える時、何度も教えたことを「わからない」と言われるのは困るけど、わからないことを「わからない」と答えてくれないとそれはそれで困る、という経験があるのではないでしょうか。
「わからないはわからないでいいから、ちゃんと言って!」と怒鳴りたくなることもあるでしょう。
社内のことならともかく、お客さんに関係することなら、「わからない」では済みませんからね。
言葉や会話って難しいもので、特に記録に残らないやり取りなんかは得てして「言った言わない問題」に発生することもあります。知ったかぶりして答えたことが、後に大問題に発展することもあるでしょう。
この『ふり』というのは思いの外厄介なもので、女性の泣いたふりに泣かされたという男性も結構多いかもしれません。
それは冗談として、バラエティなどでは、「それ『フリ』でしょ!」と思わず突っ込みたくなるようなシーンも多いですね。芸人さんの熱湯風呂然り、「するな!」と言われると「したくなる」という人間の心理をうまく利用した捻りの効いた会話術です。
最近では、観ている側にもある程度展開の読めるやり取りに関して使うことが多いですね。「いやもうそれはフリなのよ」と。
逆に「勉強しろ!」と言われると急激にしたくなくなるのもまた人間の面白いところですよね。
なぜか命令されると反対のことをしたくなる。
それだけ『命令』という形が、多くの人にとって潜在的に受け入れ難いものなのでしょう。
それでも私たちは日々誰かに何かを『命令』され、内心では彼らに反発しながらそれでも『命令』をこなしているものですが、『命令』を『命令』とお互いが思っているからそうなるのであって、もっと誠実にお願いして、もっと素直に受け止められたらこんな気持ちにならないのになと思うことがあります。
ここで少し話は変わりますが、皆さんはフィクション作品で警察ものや探偵ものを観ることはありますか? 一切観たことがないという方のほうが珍しいとは思いますが、凄惨な事件が起きて、それを解決するというお話はあまり好きになれないという方ももちろんいるでしょう。
ドラマでも映画でもアニメでもゲームでもいいですが、フィクション作品だから非日常を楽しめるというのもまた事実です。
さて、それらの作品の中でこれも一度くらいは目にしたことがあるのではないでしょうか。男性の探偵が、ヒロインの女の子と事件に遭遇する。そんな時、男性が「見るな!」と叫ぶのです。実際に見えないように自分の体で女性の視界を遮っていたらもう百点満点──あぁすみません。私の好きなシチュエーションなので、つい興奮してしまいました。
でも、皆さん。これは紛れもなく男性の心遣いだと思いませんか。フィクション作品とはいえ、事件現場というものはそれから先も長く頭から離れなくなるものです。「女性だから」というわけではないけれど、できるなら見ないほうがいいに決まっています。だから、女性もあえて見ようとはしないでしょう。男性から守られているんだというあたたかな気持ちで、見なくていいものから目を背けるほうが相手にも自分にも最善だとわかるからです。
さて、このように探偵とヒロインは偶然死体を発見するわけですが、この『死体』と『遺体』の違いも実は結構重要だったりします。
私はどこかでこの違いを「身元がわかるか否か」だと聞いたことがあります。身元がわからない場合は『死体』、身元がわかると『ご遺体』になるのだと。ごという言葉がついているので一目瞭然ですが、『ご遺体』とは名前のある『その人』本人だと認めることです。つまり、『死体』に心が通うということ。この人が生きていた証を遺す為に、『ご遺体』と呼ぶのだと私は思っています。
『遺す』と言えば『遺書』などもそうですね。生前の思いを、心を、『遺していく』ということです。
そう考えると、『気を遣う』の『遣う』も似た漢字を書きますよね。まさに『気を遣う』とは『思いやり』のことですから、心を表している。
私たち人間には、みんな血が通って、心が通っています。
私は、この相手を思う気持ちがわからないはずはない、伝わらないはずはないと思うのです。お互いに「あなたを想っている」ことがわかっているから、私たちは誰かを愛おしいと思える、愛することができるのです。
そろそろお別れの時間です。
言葉だけで伝わらないことも、言葉がなければ伝わらないことも、世の中には多くあります。
けれど、どちらもなければ、絶対に相手には届かないでしょう。
日々、私たちの言葉と行動が私たちの運命を決定づけている。
そう考えると、ただの世間話でさえも途端に恐ろしくなることがあります。
でも、逆に考えてみましょう。私たちはそうやって何気ない会話を交わしながら、それを何とも思わず生きているのですから、人間って私たちが思っているより実はすごいんじゃないかと。
皆さんの身近にいる推しで例えるとわかりやすいかもしれません。『推しと私は同じ世界にいる』──相手が二次元だろうが三次元だろうが、今ここに私たちがいなければ、そもそも彼らと出会ってはいないのです。
そういう壮大な考え方の前では、どんなに小さなことも、大きな意味を持ってくる気がしますよね。
日常を普通だ退屈だと過ごせる私たちは、きっと幸せ者なのでしょう。それだけ運命を運命と意識せずに生きられるのですから。まぁ運命を運命と最初からわかっていたら、運命を運命とはきっと呼ばないのでしょうね。あぁ、これが私の『運命を知る壮大なフリ』になればいいのに──。
また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。
最近、乾燥のせいで紙が捲れなくて困っている私ですが、年上の友人に「20代までは手汗がすごくて、紙捲れないなんてことなかったのに」と話したら絶妙な間で「……歳とったんじゃない?」と言われました。
当時は「そんなに捲れないもの?」と上司が苦戦している姿をぼんやり眺めていたものですが、寄る年波には勝てないとはまさにこのこと。
皆さんも経験があるのではないでしょうか。
味の好みが変わったり、甘いものや脂っこいものがあまり食べられなくなったり。あんなに美味しかったのにと思うのですが、あの頃と同じようには食べられなくなった今、あまり寂しいとも感じなくなるものです。「もういいや……」という気持ちのほうが勝ってしまうんですよね。
よく更地になった場所に「あれ、ここ何があったっけ?」と思い出せなくなることがありますが、あれと少し似ていますね。何があったかわからないから、特に感慨もないというような。
でも、きっとそこには私たちと同様に、日常を送る人々の姿があったはずで。他人から見れば、私たちだって、私たちが過ごす場所だって、「ふうん」くらいの感覚でしかないのでしょう。
時に皆さん、こういった世間話をする際に、知ったかぶりをしたことがありますか? かくいう私はわりとしょっちゅうなのですが。負けず嫌いな性格と、それでいて人に自然と合わせてしまう習慣、さらに相槌としてとりあえず頷いてしまう癖が、おそらく大きく起因していることと自覚しています。別に「知らない」と答えたところで何も起きるわけではないのですが、否定の言葉ってどことなく冷たく、強い響きになりがちですよね。だから、できるだけ言葉を選んで合わせてしまうのです。世間話程度ならそれでも特に困らないのでついついやってしまうんですね。
でも、知ったかぶりをすると後々面倒なことになりそうだなと思うことはできるだけ「知らない」「わからない」と答えるようにしています。
知らないのに知ってるふりをして仕事を任されて、そこに責任が発生したらとんでもないことになるからです。
ですから「何でもします」なんて簡単に言っちゃいけないんですよね、本当は。意気込みは感じられるし、やる気も見えるけれど、実際「何でも」はできませんから。
皆さんも新人さんに仕事を教える時、何度も教えたことを「わからない」と言われるのは困るけど、わからないことを「わからない」と答えてくれないとそれはそれで困る、という経験があるのではないでしょうか。
「わからないはわからないでいいから、ちゃんと言って!」と怒鳴りたくなることもあるでしょう。
社内のことならともかく、お客さんに関係することなら、「わからない」では済みませんからね。
言葉や会話って難しいもので、特に記録に残らないやり取りなんかは得てして「言った言わない問題」に発生することもあります。知ったかぶりして答えたことが、後に大問題に発展することもあるでしょう。
この『ふり』というのは思いの外厄介なもので、女性の泣いたふりに泣かされたという男性も結構多いかもしれません。
それは冗談として、バラエティなどでは、「それ『フリ』でしょ!」と思わず突っ込みたくなるようなシーンも多いですね。芸人さんの熱湯風呂然り、「するな!」と言われると「したくなる」という人間の心理をうまく利用した捻りの効いた会話術です。
最近では、観ている側にもある程度展開の読めるやり取りに関して使うことが多いですね。「いやもうそれはフリなのよ」と。
逆に「勉強しろ!」と言われると急激にしたくなくなるのもまた人間の面白いところですよね。
なぜか命令されると反対のことをしたくなる。
それだけ『命令』という形が、多くの人にとって潜在的に受け入れ難いものなのでしょう。
それでも私たちは日々誰かに何かを『命令』され、内心では彼らに反発しながらそれでも『命令』をこなしているものですが、『命令』を『命令』とお互いが思っているからそうなるのであって、もっと誠実にお願いして、もっと素直に受け止められたらこんな気持ちにならないのになと思うことがあります。
ここで少し話は変わりますが、皆さんはフィクション作品で警察ものや探偵ものを観ることはありますか? 一切観たことがないという方のほうが珍しいとは思いますが、凄惨な事件が起きて、それを解決するというお話はあまり好きになれないという方ももちろんいるでしょう。
ドラマでも映画でもアニメでもゲームでもいいですが、フィクション作品だから非日常を楽しめるというのもまた事実です。
さて、それらの作品の中でこれも一度くらいは目にしたことがあるのではないでしょうか。男性の探偵が、ヒロインの女の子と事件に遭遇する。そんな時、男性が「見るな!」と叫ぶのです。実際に見えないように自分の体で女性の視界を遮っていたらもう百点満点──あぁすみません。私の好きなシチュエーションなので、つい興奮してしまいました。
でも、皆さん。これは紛れもなく男性の心遣いだと思いませんか。フィクション作品とはいえ、事件現場というものはそれから先も長く頭から離れなくなるものです。「女性だから」というわけではないけれど、できるなら見ないほうがいいに決まっています。だから、女性もあえて見ようとはしないでしょう。男性から守られているんだというあたたかな気持ちで、見なくていいものから目を背けるほうが相手にも自分にも最善だとわかるからです。
さて、このように探偵とヒロインは偶然死体を発見するわけですが、この『死体』と『遺体』の違いも実は結構重要だったりします。
私はどこかでこの違いを「身元がわかるか否か」だと聞いたことがあります。身元がわからない場合は『死体』、身元がわかると『ご遺体』になるのだと。ごという言葉がついているので一目瞭然ですが、『ご遺体』とは名前のある『その人』本人だと認めることです。つまり、『死体』に心が通うということ。この人が生きていた証を遺す為に、『ご遺体』と呼ぶのだと私は思っています。
『遺す』と言えば『遺書』などもそうですね。生前の思いを、心を、『遺していく』ということです。
そう考えると、『気を遣う』の『遣う』も似た漢字を書きますよね。まさに『気を遣う』とは『思いやり』のことですから、心を表している。
私たち人間には、みんな血が通って、心が通っています。
私は、この相手を思う気持ちがわからないはずはない、伝わらないはずはないと思うのです。お互いに「あなたを想っている」ことがわかっているから、私たちは誰かを愛おしいと思える、愛することができるのです。
そろそろお別れの時間です。
言葉だけで伝わらないことも、言葉がなければ伝わらないことも、世の中には多くあります。
けれど、どちらもなければ、絶対に相手には届かないでしょう。
日々、私たちの言葉と行動が私たちの運命を決定づけている。
そう考えると、ただの世間話でさえも途端に恐ろしくなることがあります。
でも、逆に考えてみましょう。私たちはそうやって何気ない会話を交わしながら、それを何とも思わず生きているのですから、人間って私たちが思っているより実はすごいんじゃないかと。
皆さんの身近にいる推しで例えるとわかりやすいかもしれません。『推しと私は同じ世界にいる』──相手が二次元だろうが三次元だろうが、今ここに私たちがいなければ、そもそも彼らと出会ってはいないのです。
そういう壮大な考え方の前では、どんなに小さなことも、大きな意味を持ってくる気がしますよね。
日常を普通だ退屈だと過ごせる私たちは、きっと幸せ者なのでしょう。それだけ運命を運命と意識せずに生きられるのですから。まぁ運命を運命と最初からわかっていたら、運命を運命とはきっと呼ばないのでしょうね。あぁ、これが私の『運命を知る壮大なフリ』になればいいのに──。
また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。
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