深見小夜子のいかがお過ごしですか?2

花柳 都子

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プロレスのプロセス

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 突然ですが、最近モキュメンタリーというジャンルが確立されてきましたが、皆さんはご存知ですか?
 大まかにざっくり言うと、ドキュメンタリー風の映像で、限りなくノンフィクションっぽく描かれたフィクション──つまり本物っぽい創作のことですね。
 たとえば、映画やドラマだとカメラマンを使って役者を客観的に映す手法が多いですが、モキュメンタリーでは一人称──役者自らがスマートフォンやカメラなどを持って撮影した映像を、そのままスクリーンやテレビの画面に映すというような手法があります。
 従来の映像作品では砂利を踏み締める音があれば、効果音として洗練されている印象がありますが、モキュメンタリーでは編集を介さない生の音として聞こえてきます。
 実際に自分もその場にいるような感覚や臨場感を味わうことができて、話の内容もさることながら、映像のつくりとしても、創作とは思えないリアルさが感じられるところが最大の売りとも言えるでしょう。
 主に書籍や動画でホラー系が多く登場しているので、もし興味があればぜひ触れてみてください。結果として夜眠れなくなったとしたら、それはその作品がとても怖かったということですから、あなたもモキュメンタリーホラーの虜になってしまったということです。
 個人的な意見で言うと「また観たい」と「もう観たくない」は、正反対のようで非常に近しい感情だと私は思っていて、どちらかといえば、一度で強烈なインパクトを残せる「もう見たくない」と思わせる作品のほうが、全体的な完成度が高いと言えるかもしれません。
 ところで、こういったモキュメンタリーというジャンルの台頭には、私自身これまで感じてきた『あること』が関係しているように思います。
 その『あること』とは『現代はフィクションとノンフィクションの境目がわからない時代である』ということです。
 私のラジオでは度々例に出していますが、最も身近で最もわかりやすい例は、SNSではないでしょうか。
 画面の向こう、この言葉の向こうには、確かに自分と同じ生身の人間がいるけれど、姿も形も見えない、顔も名前も知らない、そしてそれが例えば別の場所にいるのに同じ人であったとしてもわからない。
 わからない、という表現は正しくないかもしれません。
 なんとなくそう感じられる、私はそう確信している、けれど正解がわからないもしくは当人が正解を認めない場合、それは『わからない』と同義になるのではないでしょうか。
 白と黒をはっきりさせたい、という方には向かないコンテンツかもしれません。その点どちらでもいいし、そんなの気にならない、それが良い点でしょ!と割り切れる方にとっては、有意義な時間を過ごせるのでしょう。
 私は大体の事柄に対して後者の考えを持っていますが、ことSNSに関してはモヤモヤすることのほうが多すぎて、心が疲れてしまいがちです。
 ここでひとつ、例を挙げてみましょう。
 とある動画で、自分を含めたある界隈に対しての自虐ネタを披露した人がいるとしますよね。それは、本人にとって視聴者に『界隈以上に自分自身を悪く思ってもらうのが正解』なので、ある意味ツッコミ待ちのような状態です。つまり『お前が言うな!』を自ら相手に言わせようとしているわけですね。
 そしてそれをうまく汲み取ることができれば、『これは自虐ネタ』と判断できるわけです。もっと言うと、イメージを悪く持たれがちな世界だからこそ、自分も含めてそう思ってくれて構わないという優しさのようなものが含まれているとも言えます。この場合は、「あなたは違うよ!」と言って欲しいわけではなく、逆に「あなたは違うよと言って欲しいんだろ!」と受け取るのでもなく、「あなたもそうだよ!」と突っ込んであげるのが正しい回答です。
 そしてもっと言うなら、自虐ネタと受け取った上で、そこにはあえて言及しないことで、お互いに意思の疎通が完璧に完了する、そう言っても過言ではありません。
 なんのこっちゃ、と思う方もいるでしょう。
 私の説明だとまどろっこしいということであれば、プロレスと言い換えたらわかりやすいでしょうか。
 あくまで相手を楽しませる──実際に楽しめるかどうかは人それぞれなので言及しませんが──ことが目的なので、本気で言っているまたは(本気の戦闘という意味で)闘っているわけではないということ、また所謂マジレスと言われるような返答を促しているわけではないことを肝に銘じなければなりません。
 プロレスで言い換えると、彼らの闘いはあくまでエンターテイメントですから、勝敗に文句をつけること、また「闘って人を傷つけるなんて最低!」というようなマジレスは御法度です。
 彼らはエンターテイナーとしてのプロですから、『そういう難しいことは忘れて楽しもう!』が彼らと私たちの最低限のお約束事なのです。
 ただし、ここがまた難しいところですが、長い年月をかけないと、その意思疎通が自然とできないんですよね。
 動画の配信で考えると、たとえばその配信者のファンでずっと観てきた人たちには「これは自虐ネタ」と思える材料のようなものが、過去の配信には散りばめられているはずです。
 「自分を棚に上げて、同じ界隈の他の人だけを批判するような人じゃない」とわかっていれば、簡単にわかる答えですから。
 ただ、たとえばそういう発言をした回だけを見た人がいたらどうでしょう。特に、他の配信者のファンだったとしたら。「何こいつ!」と憤るのも無理はありませんよね。
 配信を見ただけで全てをわかった気になることはできませんが、「少なくとも配信上でそういう発言をしない人」という前提が視聴者のほうにあれば、こうはならないはずですが、けれど逆を言えばどの動画を観るかは視聴者の自由なので、こういう意見や感情が生まれることも避けられないのでしょう。
 プロレスはその興業自体に名前があり、多くの観戦者が前提を正しく理解していることで人気を獲得しているコンテンツです。
 ところが、動画やSNSサービスは個々が自由に運営していることで、一定の基準がありません。
 その『一定の基準がないこと』を多くの人が『正しく理解』しなければ、なくてもいい軋轢が生まれてしまうことは必至です。
 私は自分自身が理解できているかどうかという以上に、そういう混在している世界において「この人はどういう気持ちで発言したんだろう、誰に向かってこの言葉を言ったのだろう」と考えることに疲れてしまいました。
 SNSのもう一つの特徴は『主語や目的語を意図的に省けること』です。
 小説やモキュメンタリーのように、伏線や物語上の構成であるはずもなく──なぜなら読者や視聴者に対して『気づいてもらえること』が前提だから──、むしろ『気づかせない』あるいは『ある特定の人にだけ伝えるため』に言葉をいいようにフィクション化することができるのです。
 でも、その発言する場所もあなたの存在もフィクションではないので、受け取る側にしてみれば定義をどちらにしていいかわからず、いらぬ軋轢が生まれてしまうのでしょう。
 それが良いか悪いかという話は一旦置いておいて、そういう時代なのだと思います。
 全てを『時代の流れ』で片付けるのは些か乱暴で、思考放棄なのでしょうが、世界全体が多様化複雑化してきた現代において、なるべくしてなったとも言えるかもしれませんよね。
 プロレスが普及してから長い年月が経ちましたが、現代になってようやく──という表現が正しいかわかりませんが──モキュメンタリーのようなジャンルが確立してきた事実を考えると、『プロレス』という文化が浸透し、今の人気を獲得した背景には並々ならぬ努力があったのではないでしょうか。
 周りからの正しい認識が必要であるからこそ、プロレスとしての闘いに気は抜けない。本気でエンターテイメントとしての闘いを成立させる意思があるからこそ、プロレスとしての『闘い』に本気で挑まなければならないのです。
 さて、そろそろお別れの時間です。
 プロレスにもモキュメンタリーにも、そしてあらゆる動画やSNSにも通ずるところですが、それは『結果』よりも『過程』が重要であることです。
 プロレスがプロレスたるのは、今やエンターテイメントという結果ありきで受け入れられていますが、ここに至るまでのプロセスが必ずあって、最初に立ち戻ってみると、格闘技や勝敗を決める競技とはまた別の『闘いを主軸としたエンタメ』という結果を誰かが望み、そしてそれを叶えられると考えた人たちが多くいたから成り立ってきた世界です。
 モキュメンタリーも同じですよね。ノンフィクションに見せかけたフィクションなんて、一聞するとなんでそんな遠回しなことを?と思わなくもないのですが、でもそれを求める人たちがいるから成立しているわけで。関係あるかわかりませんが、個人情報にコンプライアンスが叫ばれる今、昔のようなドキュメンタリーは実現不可能または流行らないのかもしれません。
 だって、やっぱり気になりません? これ許可取ったの? とか、こういうこと放送していいの? とか。それが一瞬でも頭をよぎったら、もはやドキュメンタリーはエンターテイメントではなくなってしまいます。純粋な楽しさを求めるなら、最初からフィクションとわかっていたほうが『フィクションだから大丈夫。考えるのは野暮』で大抵のことは最終的に納得できますよね。
 SNSに関わる機会が多い現代において、『無知の知』という概念があるように、私たちは『私の知らない世界やプロセスがあることを知っておく』ことが必要なのかもしれません。
 そうしたら大抵のことは「私が知らなかっただけ」、「私が見ていないところに正解があるのかも」と割り切れるかもしれませんね。
 そうしたら、お互いに噛み合わない無駄な時間を過ごすこともなくなり、傷つくこともほんの少し少なくなり、そして周りの雑音を気にせず楽しいこと好きなことに夢中になれる時が来るのかもしれません。
 では、また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。












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