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第一章 白邸領と城下町

爺と姫

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「姫様には今朝もご健勝の様子にてお喜び申し上げます」

「うむ」

「昨夜は遅くまで娘が迷惑をかけて申し訳ございませぬ」

「いやそんなことはないぞ、みなづきはよくやってくれている」

「いえいえ、不束でいたらない不出来な娘です。何故あのようないたらない娘を姫様の御付きにしたのか、本当にご迷惑をかけて申し訳ございませぬ。あのような娘など本来なら屋敷に閉じ込めて良縁に恵まれるよう行儀作法を叩き込むべきほどの不出来。姫様の守り役などとてもとても……」

「爺、いい加減にせぬか。みなづきのどこが不出来じゃ。あのような良い娘はおらぬぞ」

「ではなぜ、姫様は娘の当番の時だけ城を脱け出すのでしょう」

ぐっと答えにつまった。

──成る程そうきたか、みなづきの話からの搦め手とは……やるな爺め──

 ふと見ると、おしのとおたかが顔を伏せながら笑いを堪えている。瀬月とのやりとりを楽しんでいるな、ならばよい、みておれよとさくら姫は気を取り直す。

「わらわが城を脱け出すのは、みなづきのせいではない。白邸領の、ひいては瀬鳴家の為じゃ」

 おしの、おたか、瀬月が、えっ、という顔になる。

「姫様、城を脱け出すのが何故、御家の為になりますか」

「わらわもいずれどこかの大名に嫁ぐことになる。その際にだな、夫となる方にそなたの郷里はどのようなところかと尋ねられたとするだろう。わらわが知りませんと答えたら夫はどう思う。なにも知らぬたわけ嫁と思われるではないか。わらわが下に見られるという事は瀬鳴家が下にみられるという事、ひいては父上と白邸領の皆がそうみられるという事じゃ」

 さくら姫がそう言うと、瀬月は呆気にとられぽかんとした。

「しかしじゃな、わらわが白邸領は瀬鳴家とその家臣のおかげで民草が皆笑顔で楽しそうに暮らしている、その笑顔を見るのがなによりも嬉しく楽しく思うと心を込めて話してみい、おおこの嫁はなんと聡明で領民思いなのであろう、よい嫁をもらった、瀬鳴の家はなんとよいのだろうかと思われるではないか。その為にわらわは城を脱け出してでも領内のことを知ろうとしておるのじゃ。つまり瀬鳴家と白邸領の為に城を脱け出しておるのじゃ」

 屁理屈もここまでいうと立派である。

 瀬月はともかく、おしのとおたかは成る程と感心していた。

「成る程、いずれ嫁ぐ為に領内を知ろうとしているわけですな。しかし民草は姫様のことを御存知ありますまい、危ない目にあわれては本末転倒ですぞ」

「なんのために平助と林太が付いておるのじゃ。あ奴らのおかげでかすり傷ひとつ負ったことないわ」

「あのふたりですか。ちゃんとお役目を果たしておるようですな。しかしみなづきの守り役の時だけ、出掛けるのは如何なものですかな」

「きさらぎはな、すでに嫁いで爺につくしておるではないか。わらわが知る限り一番のおしどり夫婦じゃ。だから、きさらぎの話は将来為になるから話を聴いておる。けっして、みなづきに落ち度がある訳ではないぞ、それは爺もわかっておるであろう。それとも爺はきさらぎは妻として不服か」

「滅相もありません、妻ほどよくやってくれている者はありません」

「であろう。わらわが出掛けるのも平助も、林太も、みなづきも誰も落ち度はない。それで良いではないか」

 大した弁舌である。というか姫様の言葉でなければただの口車というか詭弁というかペテンであろう。
 あまりの屁理屈に言い返すのも馬鹿馬鹿しくなり、瀬月は呆れて降参する。

「わかりもうした、姫様の心根を聞きこの瀬月、安堵いたしました」

 よし言い勝ったなと、さくら姫はにんまりとする。

「うむ、そのあたりを爺に話さなかったのは、わらわのせいじゃ。心配させたな」

「はい、安心しました。ですがやはり爺も歳です、姫様のことがやはり心配なのです」

「大丈夫だから心配せずともよい」

「あぶない真似はしませんな」

「うむ」

「爺に心配かけませぬな」

「うむ」

「あぶない処に行きませぬな」

「うむ」

「森には行きませぬな」

「うむ」

 途端、瀬月の眼が光り、しまった、やられた、とさくら姫は内心唇を噛みしめる。
 瀬月の目的はお小言だと思い込んでいて、言いくるめられたと気を緩めたところに森の話が来たので引っ掛かってしまったのだ。

「……やはり森に行かれましたか」

 室内に瀬月の声が低く響いた。空気が一気に重くなる。

 ──やはりあの森には何かあり、爺はそれを知っている……そしてそれはわらわに、いや、世に知られたくないことのようだ。さて、どうする……──

 さくら姫は深呼吸をして心を落ち着け、瀬月を見据えながら静かに告げる。

「おしの、おたか、下がれ。呼ぶまで隣で控えておれ」

ことの成り行きがつかめない二人は、ぎょっとした。

「しかし姫様、謁見の間に殿方と二人きりにするのは決まりから外れます」

 中年寄のおしのは、きさらぎのお気に入りで、きさらぎの懐刀といわれている。

 考え方も振る舞いも、きさらぎの分身とかみなづきよりも娘らしいとかいわれるほど、さくら姫にたいして同様に厳しく接する。

「案ずるな おしの。爺もそのつもりじゃ。だから供を連れて来なかったのだろう。のう、爺」

瀬月は黙って身動きせずにいる。
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