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番外編 もう一度、空色のツバサをください
もう一度、空色のツバサをください
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「……おかえり」
自然に、口に出していた。いつもそう、声を掛けてくれたように。
思ってもないくせに。
また会えるなんて、想像もしてなかったから。
「演者にも、ご褒美ちょうだい」
姿勢を傾けて、長く伸びた髪が流れる首の後ろに手を廻して引き寄せる。何度も触れた髪だけど、違う女のひとみたいだ。
正座していたツバサは僕のせいで横に脚を崩して、少し身体を凭れる。土方さんがわざわざ自慢しに来た、洋式軍服に似たズボンというものを履いていて、なんでまた男の格好をしてるんだろうと不思議だったけど、ミライでは女のひともズボンを履くんですよと後で聞いた。
「沖田くんこそ。最後まで笑わせてさしあげますから、覚悟してください」
少しも動揺しないんだね、残念。
見上げてくる瞳は近くなると少しだけ、涙に濡れているのがわかる。眼の端を赤くして、零さないように。
覚悟か。
やっぱりすごいな、ツバサは。
僕と、もう一度お別れする覚悟はできてる?
なんて、また僕は強い振りをして訊いたりしたけど。
僕の方は。
全然、覚悟なんてできてない。
いや、できていたはずなのに。
なのに、触れるだけでくちづける。
覚悟なんてしていないのに、求めるなんて。
ツバサの姿を見てから、なんだかおかしいんだ。
あの日、別れた時と逆だ。
とても苦しそうに咳をして、僕を拒んだツバサはすっかり元気になったけど。
ダメだって。わかってるのに。
触れたくて堪らない。髪だけじゃなくて。唇だけじゃなくて。
だってまた会えるなんて。思ってなかった。
「ちぃちゃい」
「会えなかったからって、もう背は伸びませんよ。子どもじゃないんですから」
子どもじゃないのは知ってる。指と指を絡めるだけで肩が揺れても。
余程背丈を気にしてるのかな。この手のことを言ったんだけど。
今更こんな反応をされるから、悪いことでもしている気がする。
慣れる、とかないのかな。あ、久しぶりだからか。
そのまま手を引いて、抱き寄せると頬ずりをするように胸におさまってくれる。
安心する。ここにいていいんだって。
前に言ってくれたみたいに呟きそうになる。
「ひぇ! におい嗅いでます?」
バレた。さすがに首筋で深呼吸すればわかっちゃうか。
「……だめ?」
「ぐぬぅっ!」
たまに変なこと言うよね。そういうところもおもしろいんだけど。
確認してるけど姿勢は変えてないから声が篭る。
「だ、だめじゃ、ないです」
「そう? ……ほっとする」
吐息が揺れて、微笑んだのを感じる。
「なんで笑ってるの」
相変わらず冷たくて小さい頬に手を添えると、いや、その前から見慣れたくらいよく見せてくれる笑顔の理由を訊く。
「それは……嬉しいからです。わたしが、沖田くんのご褒美になれるなら嬉しい。全部あげますから、ちゃんともらってくださいね」
……ズルいよ。そうやって、僕を現実に戻すんだ。
「あはは。かーわい」
できるだけ優しく触れて、頭を撫でる。
って、これだけで真っ赤になるんだから、ミライのセカイ? で、ちゃんとやっていけるのか心配になるくらい。
僕の現実は。ツバサを大切に思う程、可愛いって思う程に、いずれまた未来に帰ってしまう、僕が死んだ後に帰ってしまうのだからと、厭になるくらいに、正気になれ目を醒ませと声が聞こえる。
良順さんから、病に悪いから酒と女はやめておけって口酸っぱく言われてるけど、良順さんには悪いけどその理由とは少し違う。
前とは違うんた。
何も知らない、いつ僕の傍から消えるか、本当に消えてしまうのかさえわからなかったツバサじゃない。
今のツバサは僕が知らないようなこと、新選組がどうなるか、僕がいつ死ぬかちゃんと知ってるし、必ず未来に帰ることも知ってる。
両手を離して、身体の向きを変える。ツバサが飛び込んで来た縁側とは逆の、襖の方に傾けて、多分こうすれば僕の顔が見えない。
「そういえばさ、」
全然関係ない話しないと。このまま止められなくなりそうだ。
「はっはい?」
「なんでツバサって、僕に敬語遣うの」
同い年だし、そういう仲だって思ってるの僕だけ? とか、前にちょっと考えたことがあった。
動揺したみたいに声をひっくり返して、多分癖なんだろう早口で答える。
「だって、わたし新入隊士でしたし。沖田くんはド幹部の上司ですし先輩ですし剣術師範ですし……ってか最初めちゃくちゃ怖かったですし」
「声ちっちゃ」
なら、新選組隊士でもないし上司でも先輩でもないし……え、まだ怖いってこと?
怖いって思ってたくせにあんな風に無防備に近付いて来るなんて……あーあ、ホント心配。
怖い男に、着替え手伝わせたり抱きついたりしちゃダメだよ。
それとも、男装してるから大丈夫だとでも考えてた?
「沖田くんも、前は取ってつけたような敬語でしたよ」
「ああ、基本的に誰にでもそうだよ」
試衛館の内弟子にしてもらって、周りはみんな大人ばかりだったし、気に入られなきゃとか役に立たなきゃとか認められなくちゃとか? いつもどこかで考えていた。心が休む時なんて、なかったから。
敬語で話しておく方が、うまく演じられた。
大好きな先生に捨てられないための、イイコの宗次郎を。
「全然笑ってくれないし、わたし、嫌われてるかと思ってました」
「あー……」
「……否定しないんですね」
嫌ってたわけじゃないというか、あれが僕の素だから。
本来の僕は別に、誰にでも愛想が良いわけじゃないし、おかしくもないのに笑ったりしないし、仲良くしようとか考えない。
ツバサには、考えたくもないいろんなことを、考えなかった。はじめから、特別だった。
「言ったでしょ。ツバサのことは得意だって」
また振り返って目が合うと、途端にその目を丸くして、あっと声を上げる。
「そういえば! わたし、現代に帰ってから新選組のこと勉強したんですけど」
そうだよね、新選組について書いてる則宗の手伝いをしてるって言ってた。則宗のことだからアレコレ調べさせて扱き使ったんだろうな。
「何でも知ってる沖田くんでも知らないこと、わかっちゃったんです!」
まさか僕が死ぬ日がいつか、なんてこんな爛々に目を光らせて言わないよね?
「沖田くんのお誕生日! 知らないって言ってましたよね?」
前に、訊かれたことがある。生まれた日がいつかって。
ミライの人達は生まれたその日にお祝いごとをするらしいけど、この時代の風習では新年を迎える日に皆一斉に歳を重ねる、という考えだから生年月日については無頓着なんだよね。
だから僕は、天保十三年の夏で暴風雨の夜との記録しか残っていない。仮にも長男なのに。
「沖田くんが生まれたのは江戸の白川藩下屋敷ですよね? 公的にも私的にも天候を記録した史料がかなりあって、それを照合して考えると天保十三年の夏に西麻布で大雨が降ったのは一日だけだから、沖田くんのお誕生日は天保十三年六月八日(※1842年7月15日)の可能性が高いんですって」
すごく嬉しそうに伝えてくれるけど、意識したことないから忘れちゃいそうだな。
「池田屋騒動の三日後と覚えてくださいね」
いや、そもそも池田屋って何日だっけ? ってなっちゃうんだけど。
「……ちょっと会わない間に新選組オタクになったなぁ」
「オタクって、もう先生ってば変な言葉ばっかり教えるんだから」
と、呟くツバサに、つい癖で頸を傾げる。
「そんなこと調べてどうするの? お祝いでもしてくれるつもり?」
すぐに後悔する。こんなこと言わなきゃ良かった。ツバサはすぐに顔に出るから。
僕は今年のその日まで生きられないって知ってて、僕と違う理由で言わなきゃ良かったって顔してる。
悲観して後悔するわけじゃない。ただ、きっとツバサは僕を気遣うから。それが可哀そうなだけ。
「……沖田くんのこと、なんでも、どんなことでも知りたいのは、大好きだからです」
「ふぅーん」
「ちょ、ふーんって! 僕もだよ、とかないんですか!」
「あはは、おもしろーい」
ツバサがまたこの時代に来てくれた奇跡に驚いたり喜んだりしたところで、こんな日々がずっと続くわけじゃないのは充分知ってる。
知ってるのに。
「……ツバサの誕生日はいつなの?」
あの日、ツバサが眠ってしまったら、身体全体が薄くなっていってそのまま消えてしまった。
「わたしのこと、知りたくなりましたかっ? なんと、今日です!」
ミライに帰ってしまわないように、必ず起こしてと約束していた。
「ウソでしょ」
けど、できなかった。
「ホントですよっ! もう! おめでとうのチュウとかないんですかっ」
帰ってちゃんと治療すれば死んでしまわずに済むって、必ず治って元気に生きていけるってわかっていたから。
「誕生日のお祝いって何するの?」
この時代に来た時も事故に遭いそうな瞬間で、そのまま未来にいたら死んでしまっていたと思うって言ってたから。
「そうですね……ごちそうを食べたり、プレ、贈り物をもらったり、ですかね」
また時を超えれば、助かるってわかっていたから。
「何か欲しいものある?」
消えていく身体を見ながら、何度も何度も声を掛けようと、起こしたいと、止めたいと、このままここにいてほしいと思ったけど。
「……って、顔すごいよ」
それよりももっと強く、生きてほしいと思ったんだ。
「すみません……いやらしい妄想が脳内を駆け巡りました」
僕がいなくても違う空の下でも、生きてほしいと。
「え、引くんだけど」
あの日、いつもと変わらないつもりの顔で屯所へ行って隊務を熟していたけれど、やっぱり土方さんにはすぐに気付かれて、いつもの冷やかす気満々のような様子で訊かれた。
「どうした、元気ねぇじゃねぇか。翼とケンカでもしたか」
また僕が。誰かが聞いているかもしれない場所では本音なんか話さないのをわかっているから、わざわざ自分の部屋に呼び出して、畏まった様子で口調だけはいつも通りに切っ掛けを作ってくれた。
もう止まらなくて。こんなことを話せるのは事情を知ってるからっていうのもあるけど、その他の理由も含めて土方さんしかいなかったら、全部、話してしまったんだ。
ツバサがミライから来た、生きる時代が違うひとだったことも全部。
すべてが過去形になってしまったことが哀しかった。
話す人によっては信じてくれなかったかもしれない。
土方さんは僕が冗談や妄想でこんなことを言うんじゃないってわかってるから、全部信じてくれた。
むしろそれなら、僕も聞いた時はそう思ったけど、かなり風変わりなツバサの言動も納得がいく、という感じだった。
「消えたってのが……本当に未来に帰ったのなら。良かった、のかもな。治るんだろう?」
僕の肩や背に手をあてて慰めてくれる土方さんは生来とことん前向きなひとで、過去に縛られたり失ったものに囚われたりしない。言葉にはしないけど遠回しに、忘れろ、他にも女はいるし、お前にはこれからが本当の勝負の新選組があるだろうとゆっくり伝えてくれているのがわかった。
ツバサが消えてしまってから二年後の慶応三年、良順さんから病名を告げられた時に、他人からはすんなり受け入れたように見えていたのは、僕の傍にツバサがいてくれてそしていなくなったからだ。
先生からでさえ、自分の生き死ににここまで無頓着なんてと涙を目端に滲ませながら言われた。
死ぬのが怖くないという傲慢とか、たくさんの人間を斬り殺してきたのだからという懺悔とか、どれもしっくりとは当て嵌まらない。
苦しそうに咳をしたりたまに血を喀いたり微熱に悩まされたりあまり食べられなくて痩せてしまったり、様々な症状を見て来たし、代わってあげたいと思った。
でもそれが理由とかでもなくて、ただ訪れる抗いようのない出来事は、どんなに足掻いても拒んでも必ず身に降りかかると知ってるから。
ずっと一緒にいたいとか生きていてほしいとか、生きていたいとか。
どんなに願っても変わらない。
そう、思っていたのに。
また僕は、信じたり願ったりしてしまうのかな。
それもやっぱり、ツバサがいてくれるからなんだけど。
「ずっと考えてました。わたしがここに、沖田くんのところに来た意味ってなんだろうって」
歴史の大河の中で、僕達は小さな泡沫に過ぎない。
「先生は、意味なんてないって、何も変わらないって言ってたけど」
けれど、
「でも、先生は沖田くんにとって大切なお友達で、わたしは……」
けれどツバサは、
「わたしのことも、沖田くんが憶えていてくれたら、嬉しいな」
それは、僕の気持ちだ。
これから長く、別の時代を生きていくツバサは、たくさんの人と出会って生きていくツバサは。
「誕生日のツバサには何をあげようかな。楽しみにしてて……だから顔すごいってば」
きっと、僕のことは忘れる。その方が、良いに決まってる。
あなたがもし京に上らずに、例えば道場主として、子ども達に剣術を教えたりしながら過ごしていたとしたら、労咳に罹ることも人を斬ることもなく生きることができたのかもしれない。
でもそうだったとしたら、わたしはあなたに出逢うことすら、ううん、あなたの存在を知ることすらなかった。
もう、知らなかった時には戻れない。
どんなに苦しくても、出逢ったことを後悔はしない。
何度も何度も実感したこと。
それでも最期まで、一緒にいると決めた。
あなたを、ひとりになんかしないって。
最期の最期まで、笑っていてくれるよう。
わたしも、笑顔でいよう。
泣いたりしたら、心配をかけてしまうだけだ。
永遠に、時が止まればいいのに。
ずっとずっと、一緒にいられればいいのに。
「……なんですか?」
「っえ? あ、いえ、なんでも」
「ずっと見ているから」
ずっと見ていた筈の沖田くんが座るお蒲団の向こう側、またあの夜を思い出しそうな真っ黒い人影が映る。
池田屋でわたしが刺した、あの黒いひとの姿みたいで夢かと首を振るいそうになるけど、それは毎日のように訪れる黒猫を初めて見た時にさえ感じなかった不気味さを以てわたしに現実だと悟らせる。
史実かと錯覚するくらいに有名な創作だというのが定説なのに、本当に黒猫が庭に来るからゾッとして、しかも沖田くんが少しだけ笑って
「ツバサ、猫なんかが怖いの? 斬ってあげようか?」
なんて冗談を言ってくれるまで目が釘付けになって離せなくなった。
まるで死を連れて来るように異様に、向こうこそわたしと目が合ったままジィッと丸くなったから。というか、わたしがこの時代の人間じゃない、余所者だと知ってるような、という方が合ってるかな。
その時も充分怖い気でいたけど、全然違う。障子の向こうの黒いひとは、明確な殺意を持って近付いたのだ。
「ううん。ツバサじゃなくて、」
沖田くんがわたしよりも随分先に気付いていても当たり前だ。
その小さく呟くような声さえ聞こえている程の近くで、漸く観念したというか待ち構えていたように障子の隙間から一迅の刃がヌッと突き出すのが遅くすら感じたのは、沖田くんがあまりの速さでわたしを背に庇い、障子から反対側の壁際まで飛び退いたからだ。
「三樹三郎さんじゃないですかぁ。こぉんばんはぁ」
わたしはただ背中越しに、息をしているくらいしかできなかった。
二度もおんぶしてもらった背中が、今はこんなに薄い。
状況とは裏腹、刀を横に薙いで開け放たれたおかげで見通すことができる庭は、夕陽に照らされて美しい橙だ。
そう、あなたに恋をしたと気付いたあの日とそっくりの、かなしくて愛しい夕焼け。
わたしは咄嗟に枕元にある刀掛けの方に目を走らせたけど、そこにはわたしの黒叡志隆と沖田くんの脇差がポツンと残っている。
わたしが置いていった刀を、沖田くんは取っておいてくれていた。自分の愛刀と同じように刀掛けに掛けて。
あの一瞬で、沖田くんの右手にはしっかりと大刀が握られていた。
数年前ならそれだけでもう安心と胸を撫で下ろしていたところだけど、わたしは幕末や新選組のことばかり勉強していたわけじゃない。
労咳末期の患者が、殺意満面で斬りかかって来る人間と対峙してまともに戦えるわけない。その患者が最強の剣豪だと賛辞してやまないひとだとしても。
わたしが、近藤局長のご命日にここに来てから一ヶ月くらい……ああ、お別れの日かと、一瞬納得しそうになる。
でも違う。
慶応四年は閏年。
月の満ち欠けによる暦と季節とのずれを調整する為に、四月が二回ある。
今日は、五月三十日じゃない。
「以前、局長の休息所に居た時がありましたよね? 賊に襲われたことがありましたか?」
沖田くんはこんな時に何をと言いたいだろうにちゃんと答えてくれる。
なかったと。
「そうだよね。沖田くんは休息所を出てて、元御陵衛士とは出くわさなかったんだよね。そうか、わたしがいるせいで歴史が変わっちゃったのかも」
小さく呟くわたしが気味悪いだろうけど、沖田くんはとっくに切ってあった鯉口からさらに滑らせて静かに刀身を抜く。ゆっくりとした動作でも、相手は斬りかかって来やしない。まるで隙がないから。
史実では沖田くんは元御陵衛士の襲撃に遭わないし、何より今日はその日ではない。
「若い女が出入りしてると聞いてもしやと思い来てみたら、沖田さんじゃないですか」
「やっぱり。わたしのせいだ」
つい、また呟いてしまった。
史実と違うことが今起きてしまっているとすればそれは、異質な、本当はいる筈のないわたしが沖田くんの傍にいたいからって居座っているせいだ。
わたしの背中、右後ろには廊下へ続く襖がある。この時間帯だと、母屋の方には人が居たとしてもいつもお世話をしてくれる平五郎さんのお祖母さんだけだ。
助けを呼びに行くなんてできない。それどころか、そろそろ夕飯を運んできてくれるかも。お祖母さんが危ない。他の家に助けを? 駄目だ。世間的には賊軍扱いの新選組一番隊隊長がここで匿われているのが知れてしまう。
「守ってあげるなんて、言わない。走るの得意でしょ。逃げて」
トシサンには何度も逆らってばかりだったけど、沖田くんには初めてかも。
「沖田くん、あなたを死なせやしない」
刀を携える右側から這い出し、黒いひとには到底出来る余裕もなかった、歯をしっかり見せてまでの笑顔を向ける。
喩え死神にだって、笑えるし怒れるし、わたしの好きに暴れてやる。
わたしを二度もここへ運んだカミサマみたいなものだって、好きにわたしを翻弄したんだから、仕返しだ。
「鈴木三樹三郎さん、お久しぶりです。僕、宮本翼です」
なんて、もしかしたらカミサマの思惑通りかも。だって、今日は五月三十日じゃないんだもん。ここで沖田くんにもしものことがあったら、歴史が変わってしまう。
そしてわたしは、三樹三郎さんが大正時代まで長生きするのも、ちゃんと知ってる。
短髪っぽく見えるように、髪を後ろ手でまとめて言った。
沖田くんの身の回りで動く時にジャマだからとお団子にしようとしたら、
「きれいだから、このままがいいな」
と、サラリと髪に指を通されて以来、肩に流しておくしか選択肢はない。
「おお、あの小童か」
カミサマに抗っても死神が嗤っても、今度こそ、沖田くんを守る。
「伊東さんは、残念でしたね」
わたしは実際に見たり聞いたり体験したわけじゃないけど、高台寺党の皆さんそして伊東さんの顛末は現代で勉強したから知ってる。
話題に出すと、三樹三郎さんは途端に顔色を変える。
哀しいというより、待ってました、との発声が聞こえてきそうな表情だ。
「新選組に無惨に殺された、志半ばで斃れた兄上の無念を晴らす為に私は、」
「それ、ウソですよね?」
恨まれても仕方ない。
そう割り切らなければこんな役目は担えない。
悪役になってでも、ひとつの目的の為には手段なんて選ばない。
言葉を遮る為に、沖田くんはわたしを呼びかけて激しく咳き込む。
すぐに背中をさすってあげたい。でも、もう少しだけ待ってください。
「あなたは伊東さんの死を本当に悲しんでなんかいない。眼の上のタンコブが消えて、せいせいしてるんじゃないですか?」
極力、嫌味満面に。
わたしは今、歴史を変えようとしている。
沖田くんがここで危ない目に遭ってしまうのは歴史上の誤りで、鈴木三樹三郎がここでわたしみたいなチンチクリンと遣り合うなんて歴史は聞いたことがない。
でもそんなの、知ったことじゃない。
「小さい頃、病がちだったんですよね? 寝てばかりでヤットウの稽古も満足に出来ない日々……対して文武両道、北辰一刀流道場の婿養子にと望まれる程に特出した才能を持つ兄……ずっと比較されて蔑まれて貶められて、イヤな想いをたくさんしたでしょうね」
歴史上、生来の悪人なんて滅多にいない。
それもわかってるのに。
厭な想いをさせて、ごめんなさい。
でもわたしは、この道しか選べない。
「……でも、それでも兄上は!」
違う。兄上だけは、私を認めてくれていた。そう聞こえるようだった。
「僕と初めて会った時、“お兄様”はこうおっしゃったんです。三樹三郎の子どもの頃にそっくりだと。……どうです? こんな女みたいな小童に似てるなんて言われたご感想は?」
憎たらしく。できる限りに憎たらしく、笑ってやる。それは三樹三郎さんに対してではなく、わたしを動かす運命に。
咳をする沖田くんは心配だけど振り返る余裕はなくて、止められないように、出来る限りの早口で続ける。
「兄と仲間達の仇討ち? とんでもない。あなたはただ世の中に、歴史に名を知らしめたいだけだ。日ノ本いちの剣士・沖田総司を斬ったのは“伊東甲子太郎の弟”じゃない、鈴木三樹三郎だと」
沖田くんが握る刀、それを奪うなんてできない。どんなに不意打ちで病身でわたしが全力を出しても、沖田くんはその手を離したり絶対にしない。
だから刀掛けに飛びついて初めて、わたしの刀を抜いた。
わたしなりに精一杯、稽古してきたつもりだったのにな。
力任せに両腕を一杯に伸ばす。
転がるような刹那に激昂した三樹三郎さんの刃はわたしの胸に届き、わたしの切っ先は僅かに左腕を裂いただけだった。
三樹三郎さんは何か叫んだみたいだけど、それより沖田くんの声が聞こえた。
すぐに遠くへ走り去る足音を掻き消す、わたしを呼ぶ声。
よかった。嬉しい。
最期に聞く声は、あなたの声が良いと、ずっと願っていた。
現代に帰る前、労咳で死んでしまうかもと思った時、それだけが望みだったから。
死ぬことなんかより、あなたと離れて生きていくことのほうが、ずっとずっと怖かった。
「……ツバサ……」
あなたの、笑った顔が好き。でも、少し怒らせてしまったかもしれない顔や、イジワルそうに見せる顔、本当は優しいってバレバレの心配そうな顔も好きなんです。
初めて見る泣き顔も、あなたを泣かせたくないって思ってたけど、やっぱり好きでしょうがないんです。
頑固なくらいに意志が強くて、近藤局長の進む道を真っ直ぐに支えようとしていたところも、子どもみたいに素直でそして無頓着を装って本当は独占欲が強くて少しワガママなところも、甘えるのがヘタで、でも上手なところも、知れば知る程に好きになっちゃうんです。
前にも言った気がしますけど、あなたがどんなことをしても、ううん何もしなくても、あなたがあなたでいるだけで全部が大好きです。
物語で読んだみたいに、生まれ変わったらこうしたいなんて言うの、バカみたい。
でも、もし生まれ変わっても、こうして夕陽に照らされる、あなたの明るい髪や橙の頬を見つめたり、触れたりしていたい。
陽の落ちた暗闇でもいいから、あなたに手を引かれて並んで……ううん、また背中を追いかけるのでもいいから一緒に歩きたい。
月も星も、なにもいらない。どんな光もいらないから。
抱きしめてくれる腕も、耳許で囁く声もとても、言い表せないくらいに、
「……やっと、言ってくれましたね」
呼んでいて。あなたが呼んでくれるからこそ、わたしはわたしでいられるんです。
「わたしも……あ、」
胸に拡がる赤い血が、呼吸の度に毀れる穴、ぽっかり空いた身体を見下ろす。
「ツバサ……消えて、お願い」
今度こそわたしは、あなたの前から消えたりしない。
「消えて……消え……」
もう、どこへもいかない。
「……消えないで……」
ツバサがほしいなんて、いわない。
もう一度、空色のツバサをください 了
自然に、口に出していた。いつもそう、声を掛けてくれたように。
思ってもないくせに。
また会えるなんて、想像もしてなかったから。
「演者にも、ご褒美ちょうだい」
姿勢を傾けて、長く伸びた髪が流れる首の後ろに手を廻して引き寄せる。何度も触れた髪だけど、違う女のひとみたいだ。
正座していたツバサは僕のせいで横に脚を崩して、少し身体を凭れる。土方さんがわざわざ自慢しに来た、洋式軍服に似たズボンというものを履いていて、なんでまた男の格好をしてるんだろうと不思議だったけど、ミライでは女のひともズボンを履くんですよと後で聞いた。
「沖田くんこそ。最後まで笑わせてさしあげますから、覚悟してください」
少しも動揺しないんだね、残念。
見上げてくる瞳は近くなると少しだけ、涙に濡れているのがわかる。眼の端を赤くして、零さないように。
覚悟か。
やっぱりすごいな、ツバサは。
僕と、もう一度お別れする覚悟はできてる?
なんて、また僕は強い振りをして訊いたりしたけど。
僕の方は。
全然、覚悟なんてできてない。
いや、できていたはずなのに。
なのに、触れるだけでくちづける。
覚悟なんてしていないのに、求めるなんて。
ツバサの姿を見てから、なんだかおかしいんだ。
あの日、別れた時と逆だ。
とても苦しそうに咳をして、僕を拒んだツバサはすっかり元気になったけど。
ダメだって。わかってるのに。
触れたくて堪らない。髪だけじゃなくて。唇だけじゃなくて。
だってまた会えるなんて。思ってなかった。
「ちぃちゃい」
「会えなかったからって、もう背は伸びませんよ。子どもじゃないんですから」
子どもじゃないのは知ってる。指と指を絡めるだけで肩が揺れても。
余程背丈を気にしてるのかな。この手のことを言ったんだけど。
今更こんな反応をされるから、悪いことでもしている気がする。
慣れる、とかないのかな。あ、久しぶりだからか。
そのまま手を引いて、抱き寄せると頬ずりをするように胸におさまってくれる。
安心する。ここにいていいんだって。
前に言ってくれたみたいに呟きそうになる。
「ひぇ! におい嗅いでます?」
バレた。さすがに首筋で深呼吸すればわかっちゃうか。
「……だめ?」
「ぐぬぅっ!」
たまに変なこと言うよね。そういうところもおもしろいんだけど。
確認してるけど姿勢は変えてないから声が篭る。
「だ、だめじゃ、ないです」
「そう? ……ほっとする」
吐息が揺れて、微笑んだのを感じる。
「なんで笑ってるの」
相変わらず冷たくて小さい頬に手を添えると、いや、その前から見慣れたくらいよく見せてくれる笑顔の理由を訊く。
「それは……嬉しいからです。わたしが、沖田くんのご褒美になれるなら嬉しい。全部あげますから、ちゃんともらってくださいね」
……ズルいよ。そうやって、僕を現実に戻すんだ。
「あはは。かーわい」
できるだけ優しく触れて、頭を撫でる。
って、これだけで真っ赤になるんだから、ミライのセカイ? で、ちゃんとやっていけるのか心配になるくらい。
僕の現実は。ツバサを大切に思う程、可愛いって思う程に、いずれまた未来に帰ってしまう、僕が死んだ後に帰ってしまうのだからと、厭になるくらいに、正気になれ目を醒ませと声が聞こえる。
良順さんから、病に悪いから酒と女はやめておけって口酸っぱく言われてるけど、良順さんには悪いけどその理由とは少し違う。
前とは違うんた。
何も知らない、いつ僕の傍から消えるか、本当に消えてしまうのかさえわからなかったツバサじゃない。
今のツバサは僕が知らないようなこと、新選組がどうなるか、僕がいつ死ぬかちゃんと知ってるし、必ず未来に帰ることも知ってる。
両手を離して、身体の向きを変える。ツバサが飛び込んで来た縁側とは逆の、襖の方に傾けて、多分こうすれば僕の顔が見えない。
「そういえばさ、」
全然関係ない話しないと。このまま止められなくなりそうだ。
「はっはい?」
「なんでツバサって、僕に敬語遣うの」
同い年だし、そういう仲だって思ってるの僕だけ? とか、前にちょっと考えたことがあった。
動揺したみたいに声をひっくり返して、多分癖なんだろう早口で答える。
「だって、わたし新入隊士でしたし。沖田くんはド幹部の上司ですし先輩ですし剣術師範ですし……ってか最初めちゃくちゃ怖かったですし」
「声ちっちゃ」
なら、新選組隊士でもないし上司でも先輩でもないし……え、まだ怖いってこと?
怖いって思ってたくせにあんな風に無防備に近付いて来るなんて……あーあ、ホント心配。
怖い男に、着替え手伝わせたり抱きついたりしちゃダメだよ。
それとも、男装してるから大丈夫だとでも考えてた?
「沖田くんも、前は取ってつけたような敬語でしたよ」
「ああ、基本的に誰にでもそうだよ」
試衛館の内弟子にしてもらって、周りはみんな大人ばかりだったし、気に入られなきゃとか役に立たなきゃとか認められなくちゃとか? いつもどこかで考えていた。心が休む時なんて、なかったから。
敬語で話しておく方が、うまく演じられた。
大好きな先生に捨てられないための、イイコの宗次郎を。
「全然笑ってくれないし、わたし、嫌われてるかと思ってました」
「あー……」
「……否定しないんですね」
嫌ってたわけじゃないというか、あれが僕の素だから。
本来の僕は別に、誰にでも愛想が良いわけじゃないし、おかしくもないのに笑ったりしないし、仲良くしようとか考えない。
ツバサには、考えたくもないいろんなことを、考えなかった。はじめから、特別だった。
「言ったでしょ。ツバサのことは得意だって」
また振り返って目が合うと、途端にその目を丸くして、あっと声を上げる。
「そういえば! わたし、現代に帰ってから新選組のこと勉強したんですけど」
そうだよね、新選組について書いてる則宗の手伝いをしてるって言ってた。則宗のことだからアレコレ調べさせて扱き使ったんだろうな。
「何でも知ってる沖田くんでも知らないこと、わかっちゃったんです!」
まさか僕が死ぬ日がいつか、なんてこんな爛々に目を光らせて言わないよね?
「沖田くんのお誕生日! 知らないって言ってましたよね?」
前に、訊かれたことがある。生まれた日がいつかって。
ミライの人達は生まれたその日にお祝いごとをするらしいけど、この時代の風習では新年を迎える日に皆一斉に歳を重ねる、という考えだから生年月日については無頓着なんだよね。
だから僕は、天保十三年の夏で暴風雨の夜との記録しか残っていない。仮にも長男なのに。
「沖田くんが生まれたのは江戸の白川藩下屋敷ですよね? 公的にも私的にも天候を記録した史料がかなりあって、それを照合して考えると天保十三年の夏に西麻布で大雨が降ったのは一日だけだから、沖田くんのお誕生日は天保十三年六月八日(※1842年7月15日)の可能性が高いんですって」
すごく嬉しそうに伝えてくれるけど、意識したことないから忘れちゃいそうだな。
「池田屋騒動の三日後と覚えてくださいね」
いや、そもそも池田屋って何日だっけ? ってなっちゃうんだけど。
「……ちょっと会わない間に新選組オタクになったなぁ」
「オタクって、もう先生ってば変な言葉ばっかり教えるんだから」
と、呟くツバサに、つい癖で頸を傾げる。
「そんなこと調べてどうするの? お祝いでもしてくれるつもり?」
すぐに後悔する。こんなこと言わなきゃ良かった。ツバサはすぐに顔に出るから。
僕は今年のその日まで生きられないって知ってて、僕と違う理由で言わなきゃ良かったって顔してる。
悲観して後悔するわけじゃない。ただ、きっとツバサは僕を気遣うから。それが可哀そうなだけ。
「……沖田くんのこと、なんでも、どんなことでも知りたいのは、大好きだからです」
「ふぅーん」
「ちょ、ふーんって! 僕もだよ、とかないんですか!」
「あはは、おもしろーい」
ツバサがまたこの時代に来てくれた奇跡に驚いたり喜んだりしたところで、こんな日々がずっと続くわけじゃないのは充分知ってる。
知ってるのに。
「……ツバサの誕生日はいつなの?」
あの日、ツバサが眠ってしまったら、身体全体が薄くなっていってそのまま消えてしまった。
「わたしのこと、知りたくなりましたかっ? なんと、今日です!」
ミライに帰ってしまわないように、必ず起こしてと約束していた。
「ウソでしょ」
けど、できなかった。
「ホントですよっ! もう! おめでとうのチュウとかないんですかっ」
帰ってちゃんと治療すれば死んでしまわずに済むって、必ず治って元気に生きていけるってわかっていたから。
「誕生日のお祝いって何するの?」
この時代に来た時も事故に遭いそうな瞬間で、そのまま未来にいたら死んでしまっていたと思うって言ってたから。
「そうですね……ごちそうを食べたり、プレ、贈り物をもらったり、ですかね」
また時を超えれば、助かるってわかっていたから。
「何か欲しいものある?」
消えていく身体を見ながら、何度も何度も声を掛けようと、起こしたいと、止めたいと、このままここにいてほしいと思ったけど。
「……って、顔すごいよ」
それよりももっと強く、生きてほしいと思ったんだ。
「すみません……いやらしい妄想が脳内を駆け巡りました」
僕がいなくても違う空の下でも、生きてほしいと。
「え、引くんだけど」
あの日、いつもと変わらないつもりの顔で屯所へ行って隊務を熟していたけれど、やっぱり土方さんにはすぐに気付かれて、いつもの冷やかす気満々のような様子で訊かれた。
「どうした、元気ねぇじゃねぇか。翼とケンカでもしたか」
また僕が。誰かが聞いているかもしれない場所では本音なんか話さないのをわかっているから、わざわざ自分の部屋に呼び出して、畏まった様子で口調だけはいつも通りに切っ掛けを作ってくれた。
もう止まらなくて。こんなことを話せるのは事情を知ってるからっていうのもあるけど、その他の理由も含めて土方さんしかいなかったら、全部、話してしまったんだ。
ツバサがミライから来た、生きる時代が違うひとだったことも全部。
すべてが過去形になってしまったことが哀しかった。
話す人によっては信じてくれなかったかもしれない。
土方さんは僕が冗談や妄想でこんなことを言うんじゃないってわかってるから、全部信じてくれた。
むしろそれなら、僕も聞いた時はそう思ったけど、かなり風変わりなツバサの言動も納得がいく、という感じだった。
「消えたってのが……本当に未来に帰ったのなら。良かった、のかもな。治るんだろう?」
僕の肩や背に手をあてて慰めてくれる土方さんは生来とことん前向きなひとで、過去に縛られたり失ったものに囚われたりしない。言葉にはしないけど遠回しに、忘れろ、他にも女はいるし、お前にはこれからが本当の勝負の新選組があるだろうとゆっくり伝えてくれているのがわかった。
ツバサが消えてしまってから二年後の慶応三年、良順さんから病名を告げられた時に、他人からはすんなり受け入れたように見えていたのは、僕の傍にツバサがいてくれてそしていなくなったからだ。
先生からでさえ、自分の生き死ににここまで無頓着なんてと涙を目端に滲ませながら言われた。
死ぬのが怖くないという傲慢とか、たくさんの人間を斬り殺してきたのだからという懺悔とか、どれもしっくりとは当て嵌まらない。
苦しそうに咳をしたりたまに血を喀いたり微熱に悩まされたりあまり食べられなくて痩せてしまったり、様々な症状を見て来たし、代わってあげたいと思った。
でもそれが理由とかでもなくて、ただ訪れる抗いようのない出来事は、どんなに足掻いても拒んでも必ず身に降りかかると知ってるから。
ずっと一緒にいたいとか生きていてほしいとか、生きていたいとか。
どんなに願っても変わらない。
そう、思っていたのに。
また僕は、信じたり願ったりしてしまうのかな。
それもやっぱり、ツバサがいてくれるからなんだけど。
「ずっと考えてました。わたしがここに、沖田くんのところに来た意味ってなんだろうって」
歴史の大河の中で、僕達は小さな泡沫に過ぎない。
「先生は、意味なんてないって、何も変わらないって言ってたけど」
けれど、
「でも、先生は沖田くんにとって大切なお友達で、わたしは……」
けれどツバサは、
「わたしのことも、沖田くんが憶えていてくれたら、嬉しいな」
それは、僕の気持ちだ。
これから長く、別の時代を生きていくツバサは、たくさんの人と出会って生きていくツバサは。
「誕生日のツバサには何をあげようかな。楽しみにしてて……だから顔すごいってば」
きっと、僕のことは忘れる。その方が、良いに決まってる。
あなたがもし京に上らずに、例えば道場主として、子ども達に剣術を教えたりしながら過ごしていたとしたら、労咳に罹ることも人を斬ることもなく生きることができたのかもしれない。
でもそうだったとしたら、わたしはあなたに出逢うことすら、ううん、あなたの存在を知ることすらなかった。
もう、知らなかった時には戻れない。
どんなに苦しくても、出逢ったことを後悔はしない。
何度も何度も実感したこと。
それでも最期まで、一緒にいると決めた。
あなたを、ひとりになんかしないって。
最期の最期まで、笑っていてくれるよう。
わたしも、笑顔でいよう。
泣いたりしたら、心配をかけてしまうだけだ。
永遠に、時が止まればいいのに。
ずっとずっと、一緒にいられればいいのに。
「……なんですか?」
「っえ? あ、いえ、なんでも」
「ずっと見ているから」
ずっと見ていた筈の沖田くんが座るお蒲団の向こう側、またあの夜を思い出しそうな真っ黒い人影が映る。
池田屋でわたしが刺した、あの黒いひとの姿みたいで夢かと首を振るいそうになるけど、それは毎日のように訪れる黒猫を初めて見た時にさえ感じなかった不気味さを以てわたしに現実だと悟らせる。
史実かと錯覚するくらいに有名な創作だというのが定説なのに、本当に黒猫が庭に来るからゾッとして、しかも沖田くんが少しだけ笑って
「ツバサ、猫なんかが怖いの? 斬ってあげようか?」
なんて冗談を言ってくれるまで目が釘付けになって離せなくなった。
まるで死を連れて来るように異様に、向こうこそわたしと目が合ったままジィッと丸くなったから。というか、わたしがこの時代の人間じゃない、余所者だと知ってるような、という方が合ってるかな。
その時も充分怖い気でいたけど、全然違う。障子の向こうの黒いひとは、明確な殺意を持って近付いたのだ。
「ううん。ツバサじゃなくて、」
沖田くんがわたしよりも随分先に気付いていても当たり前だ。
その小さく呟くような声さえ聞こえている程の近くで、漸く観念したというか待ち構えていたように障子の隙間から一迅の刃がヌッと突き出すのが遅くすら感じたのは、沖田くんがあまりの速さでわたしを背に庇い、障子から反対側の壁際まで飛び退いたからだ。
「三樹三郎さんじゃないですかぁ。こぉんばんはぁ」
わたしはただ背中越しに、息をしているくらいしかできなかった。
二度もおんぶしてもらった背中が、今はこんなに薄い。
状況とは裏腹、刀を横に薙いで開け放たれたおかげで見通すことができる庭は、夕陽に照らされて美しい橙だ。
そう、あなたに恋をしたと気付いたあの日とそっくりの、かなしくて愛しい夕焼け。
わたしは咄嗟に枕元にある刀掛けの方に目を走らせたけど、そこにはわたしの黒叡志隆と沖田くんの脇差がポツンと残っている。
わたしが置いていった刀を、沖田くんは取っておいてくれていた。自分の愛刀と同じように刀掛けに掛けて。
あの一瞬で、沖田くんの右手にはしっかりと大刀が握られていた。
数年前ならそれだけでもう安心と胸を撫で下ろしていたところだけど、わたしは幕末や新選組のことばかり勉強していたわけじゃない。
労咳末期の患者が、殺意満面で斬りかかって来る人間と対峙してまともに戦えるわけない。その患者が最強の剣豪だと賛辞してやまないひとだとしても。
わたしが、近藤局長のご命日にここに来てから一ヶ月くらい……ああ、お別れの日かと、一瞬納得しそうになる。
でも違う。
慶応四年は閏年。
月の満ち欠けによる暦と季節とのずれを調整する為に、四月が二回ある。
今日は、五月三十日じゃない。
「以前、局長の休息所に居た時がありましたよね? 賊に襲われたことがありましたか?」
沖田くんはこんな時に何をと言いたいだろうにちゃんと答えてくれる。
なかったと。
「そうだよね。沖田くんは休息所を出てて、元御陵衛士とは出くわさなかったんだよね。そうか、わたしがいるせいで歴史が変わっちゃったのかも」
小さく呟くわたしが気味悪いだろうけど、沖田くんはとっくに切ってあった鯉口からさらに滑らせて静かに刀身を抜く。ゆっくりとした動作でも、相手は斬りかかって来やしない。まるで隙がないから。
史実では沖田くんは元御陵衛士の襲撃に遭わないし、何より今日はその日ではない。
「若い女が出入りしてると聞いてもしやと思い来てみたら、沖田さんじゃないですか」
「やっぱり。わたしのせいだ」
つい、また呟いてしまった。
史実と違うことが今起きてしまっているとすればそれは、異質な、本当はいる筈のないわたしが沖田くんの傍にいたいからって居座っているせいだ。
わたしの背中、右後ろには廊下へ続く襖がある。この時間帯だと、母屋の方には人が居たとしてもいつもお世話をしてくれる平五郎さんのお祖母さんだけだ。
助けを呼びに行くなんてできない。それどころか、そろそろ夕飯を運んできてくれるかも。お祖母さんが危ない。他の家に助けを? 駄目だ。世間的には賊軍扱いの新選組一番隊隊長がここで匿われているのが知れてしまう。
「守ってあげるなんて、言わない。走るの得意でしょ。逃げて」
トシサンには何度も逆らってばかりだったけど、沖田くんには初めてかも。
「沖田くん、あなたを死なせやしない」
刀を携える右側から這い出し、黒いひとには到底出来る余裕もなかった、歯をしっかり見せてまでの笑顔を向ける。
喩え死神にだって、笑えるし怒れるし、わたしの好きに暴れてやる。
わたしを二度もここへ運んだカミサマみたいなものだって、好きにわたしを翻弄したんだから、仕返しだ。
「鈴木三樹三郎さん、お久しぶりです。僕、宮本翼です」
なんて、もしかしたらカミサマの思惑通りかも。だって、今日は五月三十日じゃないんだもん。ここで沖田くんにもしものことがあったら、歴史が変わってしまう。
そしてわたしは、三樹三郎さんが大正時代まで長生きするのも、ちゃんと知ってる。
短髪っぽく見えるように、髪を後ろ手でまとめて言った。
沖田くんの身の回りで動く時にジャマだからとお団子にしようとしたら、
「きれいだから、このままがいいな」
と、サラリと髪に指を通されて以来、肩に流しておくしか選択肢はない。
「おお、あの小童か」
カミサマに抗っても死神が嗤っても、今度こそ、沖田くんを守る。
「伊東さんは、残念でしたね」
わたしは実際に見たり聞いたり体験したわけじゃないけど、高台寺党の皆さんそして伊東さんの顛末は現代で勉強したから知ってる。
話題に出すと、三樹三郎さんは途端に顔色を変える。
哀しいというより、待ってました、との発声が聞こえてきそうな表情だ。
「新選組に無惨に殺された、志半ばで斃れた兄上の無念を晴らす為に私は、」
「それ、ウソですよね?」
恨まれても仕方ない。
そう割り切らなければこんな役目は担えない。
悪役になってでも、ひとつの目的の為には手段なんて選ばない。
言葉を遮る為に、沖田くんはわたしを呼びかけて激しく咳き込む。
すぐに背中をさすってあげたい。でも、もう少しだけ待ってください。
「あなたは伊東さんの死を本当に悲しんでなんかいない。眼の上のタンコブが消えて、せいせいしてるんじゃないですか?」
極力、嫌味満面に。
わたしは今、歴史を変えようとしている。
沖田くんがここで危ない目に遭ってしまうのは歴史上の誤りで、鈴木三樹三郎がここでわたしみたいなチンチクリンと遣り合うなんて歴史は聞いたことがない。
でもそんなの、知ったことじゃない。
「小さい頃、病がちだったんですよね? 寝てばかりでヤットウの稽古も満足に出来ない日々……対して文武両道、北辰一刀流道場の婿養子にと望まれる程に特出した才能を持つ兄……ずっと比較されて蔑まれて貶められて、イヤな想いをたくさんしたでしょうね」
歴史上、生来の悪人なんて滅多にいない。
それもわかってるのに。
厭な想いをさせて、ごめんなさい。
でもわたしは、この道しか選べない。
「……でも、それでも兄上は!」
違う。兄上だけは、私を認めてくれていた。そう聞こえるようだった。
「僕と初めて会った時、“お兄様”はこうおっしゃったんです。三樹三郎の子どもの頃にそっくりだと。……どうです? こんな女みたいな小童に似てるなんて言われたご感想は?」
憎たらしく。できる限りに憎たらしく、笑ってやる。それは三樹三郎さんに対してではなく、わたしを動かす運命に。
咳をする沖田くんは心配だけど振り返る余裕はなくて、止められないように、出来る限りの早口で続ける。
「兄と仲間達の仇討ち? とんでもない。あなたはただ世の中に、歴史に名を知らしめたいだけだ。日ノ本いちの剣士・沖田総司を斬ったのは“伊東甲子太郎の弟”じゃない、鈴木三樹三郎だと」
沖田くんが握る刀、それを奪うなんてできない。どんなに不意打ちで病身でわたしが全力を出しても、沖田くんはその手を離したり絶対にしない。
だから刀掛けに飛びついて初めて、わたしの刀を抜いた。
わたしなりに精一杯、稽古してきたつもりだったのにな。
力任せに両腕を一杯に伸ばす。
転がるような刹那に激昂した三樹三郎さんの刃はわたしの胸に届き、わたしの切っ先は僅かに左腕を裂いただけだった。
三樹三郎さんは何か叫んだみたいだけど、それより沖田くんの声が聞こえた。
すぐに遠くへ走り去る足音を掻き消す、わたしを呼ぶ声。
よかった。嬉しい。
最期に聞く声は、あなたの声が良いと、ずっと願っていた。
現代に帰る前、労咳で死んでしまうかもと思った時、それだけが望みだったから。
死ぬことなんかより、あなたと離れて生きていくことのほうが、ずっとずっと怖かった。
「……ツバサ……」
あなたの、笑った顔が好き。でも、少し怒らせてしまったかもしれない顔や、イジワルそうに見せる顔、本当は優しいってバレバレの心配そうな顔も好きなんです。
初めて見る泣き顔も、あなたを泣かせたくないって思ってたけど、やっぱり好きでしょうがないんです。
頑固なくらいに意志が強くて、近藤局長の進む道を真っ直ぐに支えようとしていたところも、子どもみたいに素直でそして無頓着を装って本当は独占欲が強くて少しワガママなところも、甘えるのがヘタで、でも上手なところも、知れば知る程に好きになっちゃうんです。
前にも言った気がしますけど、あなたがどんなことをしても、ううん何もしなくても、あなたがあなたでいるだけで全部が大好きです。
物語で読んだみたいに、生まれ変わったらこうしたいなんて言うの、バカみたい。
でも、もし生まれ変わっても、こうして夕陽に照らされる、あなたの明るい髪や橙の頬を見つめたり、触れたりしていたい。
陽の落ちた暗闇でもいいから、あなたに手を引かれて並んで……ううん、また背中を追いかけるのでもいいから一緒に歩きたい。
月も星も、なにもいらない。どんな光もいらないから。
抱きしめてくれる腕も、耳許で囁く声もとても、言い表せないくらいに、
「……やっと、言ってくれましたね」
呼んでいて。あなたが呼んでくれるからこそ、わたしはわたしでいられるんです。
「わたしも……あ、」
胸に拡がる赤い血が、呼吸の度に毀れる穴、ぽっかり空いた身体を見下ろす。
「ツバサ……消えて、お願い」
今度こそわたしは、あなたの前から消えたりしない。
「消えて……消え……」
もう、どこへもいかない。
「……消えないで……」
ツバサがほしいなんて、いわない。
もう一度、空色のツバサをください 了
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