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いとしの
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お母さま、お許しください。
この愛に抗うことはできません。
彼の願い通り、わたしをアラントの町の墓地の、彼の隣に埋葬してください。
わたしは生きているより、死を選ぶ方が幸せなのです。
マリー
ここまで書いて、やっとペンが震えました。
追い詰められたようで、でも冷静なように綴っていましたけれど、今は指の震えが止まりません。
止め処もない涙が最期の手紙に落ちて濡らしてしまわないよう、すべて手のひらで受け留めます。
このように書けと命じられたわけでもないのに迷いもなく一気に書いてしまったのは、どこか夢物語のように感じていたからかも知れません。
でもこれは、紛れもない事実。
殿下はわたしが怖い想いをしたり、苦しみを感じたりしないように、眠りについてから逝こうとおっしゃった。
遺書を置き、眠ってしまったら、二度と目を覚ますことはないのです。
眠って、しまったら……?
やっぱりわたしは、死出の旅路が怖ろしい。神に背き、自ら死を選ぶのは怖ろしいこと。
とんだ薄情者だわ。
殿下はわたしを、わたしだけを愛してくださり、共に死のうとまで告げてくださったのに。
……でも一緒に死んでしまった後、またお逢いすることなんてできるのでしょうか?
わたしが先にいき、殿下もすぐに追いつくから待っているように、とおっしゃったけれど……わたしも、はい、なんて返事はしたものの、そんなこと、できるのでしょうか?
天使さまが、別々にお迎えに来られたらどうしましょう。
「マリー」
振り返ると、少し困ったように、けれどとても心配そうに眉を寄せる愛しいかたに見つめられていました。
泣いていたことを、知られてしまったでしょうか。
わたしは立ち上がり、ただ何も考えずに胸に飛び込みました。
抱きとめてくださるこの腕の強さと胸の温もりを感じるのも、これで最期なのでしょう。
互いに言葉を掛けることもなく、殿下の温かな手はずっと優しく、わたしの髪を撫でてくださいました。
それでも、いいえ余計に、涙が止まらないのです。
わたしは何も知らない、ただの浅はかな娘でした。
恋に憧れ、初めての恋に酔い、自らの熱情に精一杯で、愛するひとを真に愛し抜くことができなかったように思います。
もしもわたしがひとりの自立した女性として殿下と向き合うことができていたなら、彼を救うことが、共に生きることすらできたかもしれないのに。
最期のくちづけを交わし、またきつく抱いてくださる腕が、さっきのわたしと同じように震えています。
殿下も同じように、怖ろしいのでしょうか。
「おやすみ、マリー」
1889年1月30日マイヤーリンク。
オーストリア郊外の狩猟用館にて、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子・ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラがピストルで心中を図った。
このような文字が新聞に掲載され、世界中に衝撃を与えるでしょう。
二人が世を去った後の未来は、わたしでも簡単に予想がつきました。
けれどそうはなりませんでした。
何故か再び眼を覚ましたわたしは、わたしのベッドにいたのです。
殿下はわたしを、連れていってはくださらなかったのだわ。
直前になって怯懦したわたしの心は、見透かされていたのだわ。
そう思い、ベッドに潜り込んで泣きました。
きっと殿下はわたしを置いて、おひとりで旅立ってしまわれたのだわ。
あんなにも死が怖ろしかったのに、もう二度と殿下にお会いできないと考えると、それはもっと怖ろしいことだと、ただ一心に、けれど声は殺してシーツに吸い込まれる涙を流し続けました。
「お嬢様、そろそろお目覚めの時間ですよ」
お母さま同様、二度と会えないと思っていた婆やの優しい声がドアの外から聞こえます。ノックの音までが優しいのでした。
きっと遺書は読んだはずなのに、責めたりしないのね。
こんな泣き腫らした顔を見せてはさらに心配を掛けてしまうでしょうけれど、黙っているわけにもいかないわ。
そう思い、なんだか声を出すのすら久しぶりのような感覚になりながら返事をしようとしたけれど、さらに婆やは続けるのでした。
「今夜の舞踏会が楽しみでよくお眠りになられなかったのでございましょう? これでもいつもより30分は遅くお起ししているのですよ」
舞踏会……?
なんのことかしら。いいえ、それよりもこの言葉は、以前にも聞いたことがあるわ。
すっかり見透かされた理由そのままになかなか眠りにつくことができなかったわたしに、婆やがそう声を掛けてくれたのだわ。
そう、それは、殿下と初めてお会いした舞踏会の日だったわ。
――……
「マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢、一曲お相手お願いできますか」
――……
今思い出してもまるで夢見心地のようだけれど、突然殿下にお声を掛けていただいて、ワルツを踊ったのだわ。
……どちらが、夢……?
わたしに手を差し伸べてくださった日?
共に旅立とうとマイヤーリンクに出掛けた日?
それとも、こうしてベッドに飛び起きて、茫然としている今?
もしかして、すべてが夢だったのかしら。
「婆や!」
ドアに向かって駆け出して、勢いよく開いた目の前には少し呆れたような婆やの、よく見慣れた、皺だらけの優しい顔をわざと怒っているように歪めた顔がありました。
もう会えないと覚悟していたから途端に嬉しくなり、思わずぎゅうと抱きしめました。
「まぁまぁお嬢様ったら、いつまでもネンネで困りますわ」
すべて、夢のはずがないわ。
だって、幼い頃から触れ慣れた婆やの身体の懐かしい柔らかさも、恐る恐る触れた殿下の手の温もりも、しっかりとこの手が覚えているもの。
「婆や! 夢をみているみたい! また婆やに会えるなんて!」
「あらあら、怖い夢でも見ていらっしゃったのですか? なら早くお起しすればよかったですわね」
日付を確認すると、やっぱり今日は、間違いなくあの舞踏会の日でした。
わたしはあの日、去年の4月の舞踏会の日に、心と身体が戻ってしまっているようなのです。
どうして? こんなことが起きるなんて。
皇太子さまに突然お声を掛けられるくらいに驚くことが、わたしの人生で2度も起きるなんて思ってもみなかったわ。
普段は顔色を窺ってばかりのいつも厳しいお母さまや大好きなお姉さまとも同じように嬉しい再会をしては、皆に怪訝そうに声を掛けられたわ。
今夜は舞踏会だから、マリーは緊張で少しおかしくなっているのかしらね、と簡単に片づけられてしまったけれど。
そう、舞踏会だわ。
自分に何が起きているのかわからないくらい不思議なことだけれど、わたしは少し過去に戻されてしまったみたい。
でも、あんな奇跡が今回も起きるとは限らないわ。
大勢の紳士淑女が犇めく中で何故かわたしを見つけてくださって、お声を掛け、ダンスまで踊ってくださったこと。
もしかしたら運命の大きな間違いで、今日のわたしは殿下の目に留まることもなく、ただ緊張と戸惑いの連続ばかりの、初めての舞踏会の時間が過ぎるのを待つだけになるかもしれないわ。
そのほうが、ずっと自然だもの。
きっとそうしたら、わたしは殿下にお会いすることも恋をすることもなく、殿下はなんの問題もなく生きて、このオーストリアの皇帝陛下となられるのだわ。
そのほうが、きっとずっと、殿下はお幸せなはずだわ。
わかっているのに……何故かしら、こんなにもまた、涙が零れるのは。
「お嬢様! せっかく綺麗にお化粧しましたのに……どうかなさいましたか? 緊張していらっしゃるのですね。大丈夫ですわよ。どこにお出ししても恥ずかしくない美しい御令嬢に、この婆やがお育てしたのですからね」
冗談めいたことを言って慰めてくれる婆やの優しさに、余計に涙が止まらなくなってしまうのでした。
何故なんて、わかっているわ。
時間は戻ってしまったけれど、わたしには記憶があるのだもの。
殿下のお顔さえ写真でしか知らなかった時には戻れないもの。
恋をしたままだもの。
ようやく、というよりもう出発の刻限だからと半ば無理矢理に涙を引っ込めて、もう一度お化粧したわたしは、以前のように期待に胸を膨らませてとは違う気持ちで舞踏会の開かれるホーフブルク宮殿へ向かいました。
何度見ても眩いような美しい宮殿だわ。
一度目のわたしは舞い上がって目を奪われるばかりだったけれど、今はハッキリとわかるわ。
わたしなんて場違いよ。身分不相応だわ。何度も面と向かって、陰ではきっと数え切れないくらいにたくさん言われていたわ。
わたしがこんな華やかな宮殿にいるなんて、ましてや殿下と恋なんて。
わかっているのに。遠くに殿下が現れて、その姿が見えるだけでもう、目が離せないの。
殿下がにこやかに会釈されたり、軽く手を挙げたりされる姿を見つめ続けて、二度目のわたしは一度目よりもさらに病に冒されたように周りすら見えていなかったけれど、わたしだけではないわ、このあまりに広く煌びやかな装飾のなかで、殿下のお姿は一層輝くばかりで、招待客はすべてただの観衆となり、誰もが溜め息を溢さんばかりにうっとりとその一挙手一投足に心奪われていたわ。
何度目だって同じよ。わたしはまた夢中になるあまり無意識に少しだけ歩を進めてしまい、足元の僅かな段差に気付かずに躓いて、二度目のほうがずっとダメね、扇を落としてしまったのだわ。
思わず声を上げたわたしは慌てて扇に手を伸ばすのだけれど、先に拾ってくださる優しい白い手袋の手に触れてしまいそうになり、また慌てて手を縮めたの。
何度も繋いだり、頬や髪を撫でたりしてくださった、愛しい手だわ。
「どうぞ」
ああ殿下! 殿下が生きている……!
目覚めた時、もう二度とお会いできないと思ったわ。恋をして、お会いできない日にはもういっそ恋なんてしなければよかったのかしらとも思ったわ。
差し出された扇をわたしは受け取ることもできず、泣いてしまったのです。
あまりに恋しい、愛しいかたが、出会った時のまま微笑んでくださる、あまりに胸がいっぱいで、到底我慢することができなかったのです。
「……可愛らしいかた、泣かないで。ほら、ワルツが始まりますよ」
きっと殿下は、お声を掛けるだけで相手が感激して泣いてしまうなんてこと、日常茶飯事なのかもしれません。
あまり驚かれた様子もなく、一度目と同じようにまた、優しく手を引いてくださいました。
二度目でも、慣れないわたしをリードしてワルツを踊ってくださる殿下とのひとときが夢見心地なのは変わりません。
ふわふわと地に足がついていないように軽く、わたしでさえ流れるように優雅に見えるように導いてくださいました。
そして同じように観衆は、殿下の姿に見惚れる溜め息と、きっとわたしのことをヒソヒソと噂する空気で満ちているのでした。
「さぁどうぞ。今度は受け取ってくださいますか」
あっという間に一曲が終わってしまい、もう一度差し出された扇を申し訳ない気持ちで受け取ると、また一層、殿下は微笑みを深くされるのでした。
「美しい姫君、お名前は」
胸の高鳴りが苦しいくらいで、声を出すのがやっとです。
「マリー、と申します」
「……靴だけ残すシンデレラよりは易しい、かな」
殿下にふと笑われ、わたしははっとしました。
わたしったら、まるで成長していないわ。
あまりに気持ちが昂って、まるで小さな子どもみたいに名乗ってしまうなんて。
殿下は困ったように苦笑いをされて、また続けました。
「必ず、あなたを見つけよう。またね、マリー」
これで二回目だというのに全然成長していないなんて、自分のことながら呆れてしまうわ。きっと殿下も同じく呆れてしまわれたでしょうに、また優しく微笑んでくださるのまで、しっかり覚えているのに。
見つけ出すなんて……どうやって?
以前のわたしは期待と、もう二度と会えないのかもしれない、いいえ、その方が自然なのだわとかいう不安とか心配とか、これは優しい殿下の社交辞令のようなもので、そんなことなさる筈がないわとか後になって自分の勘違い振りを歎いたりもしたのだけれど、お言葉通りに三日後に、わたしにお手紙をくださったのだわ。
もちろん、ちゃんと覚えているもの、だから今回のわたしは他のことを考えてしまっていたの。
わたしは殿下が思っていてくださるように素直でも正直でもないわ。
ただおとなしくお待ちしていればいいのに、余計なことを思い悩んでいたの。
なぜ殿下は、わたしなんかを選んでくださったのでしょう?
どうして、ワルツを踊ってくださり、なぜ名前しか手がかりのないわたしをまた見つけて、お手紙をくださって、会ってくださったのでしょう? どうして、愛してくださったのでしょう?
わたしはお世辞にも美しいとは言えない容貌だわ。
加えてエリザベート皇后陛下……、殿下のお母様のようにヨーロッパ随一の美貌と謳われるかたを始め、美しい女性はそれこそ山程ご覧になっている殿下が、わたしを気に留めてくださるなんて、何か理由があるのではないかしら。
でも見た目以外を考えてみても、それこそなんの取柄もないわ。
そう、わたしにあるのは、ただ殿下をお慕いしているというこの心だけよ。
それもまさか初めてお会いした時から見抜かれるわけはないし、ただお慕いするだけなら、殿下のように素敵な貴公子を想う女性はやっぱり山のようにたくさんいるもの。
奥さまの皇太子妃殿下もいらっしゃるのに。
この恋は、純愛なんかではないの。殿下にはベルギー王国から嫁がれた王女さま、ステファニー皇太子妃殿下という奥さまがいらっしゃるのよ。
どれだけ考えてもわからないわ。殿下にお伺いするしかないかしら。あまりにもはしたなく、不躾すぎるけれど。
「必ず見つけると、約束したでしょう? マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢」
殿下の庭園にお招きいただいて、一回目よりは少しだけ和らいだ緊張感でお会いしたのだわ。ただお辞儀をするだけなのは、前と変わらないけれど。
こうしてお顔を拝見すると、すべての疑問もそして罪悪感も忘れてしまいそうになるの。
「……私は、ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン」
不意に丁寧に名乗っていただいたのに驚いて、会釈の姿勢から少し身を起こして、つい見つめてしまったわ。
もちろん存じております。名門ハプスブルク家にお生まれの、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子殿下でいらっしゃるということも。わたしがただの男爵家の娘だということも、身分違いだと痛いほどにわかっているわ。
「けれど、あなたにはルドルフと、ただ呼ばれたい」
なぜ、気が付かなかったのでしょう。
恋を夢見て、初めての恋に浮かれて舞い上がって、愛しいかたのこともちゃんと見えていなかったのかも知れません。
「……ルドルフさま」
ひとこと口にすると、またあなたは優しく微笑むのだわ。
忘れてしまいそうになるの。
あなたとわたしがどう考えても不釣り合いだということ、イヤというほど大勢に言われたけれど、そんなことはわたしが一番わかっているわ。
それに有り得ないことだけれど、ルドルフさまが皇太子殿下ではないとしても、ルドルフさまには美しい奥さまがいるのだわ。
これは、どんなに美しく着飾っても純愛なんかじゃない。どんなに取り繕っても、ただの不倫なのよ。それも一国の皇太子との。
「様も、いらないのだけれど」
あなたを思い描くとき。
あなたに会いたくても会えない日、恋しく思い描く時に真っ先に浮かぶのはこの優しい微笑みだったわ。
けれど、どうして気がつかなかったのでしょう。
なんて、なんて……。
寂しいお顔をなさるのかしら。
初めてお会いした時には、あまりの美しさにばかり気を取られてわからなかったわ……皇太子殿下がまさか、お寂しいだなんて、思いもしなかったわ。
けれど、再会した愛しいルドルフさまは、こんなにもひとりぼっちで、寂しさを堪えるような微笑みをされている。
そのことに、今更気づくなんて。
「どうしたの。泣かないで、可愛いマリー」
あなたを想うと、涙が溢れてしまうことがあります。自分でもおかしくて、理由はよくわからないけれど。
泣くだけなんて、子どもにもできるわ。
バカみたい、だけど涙が止まらないの。
せっかくお招きくださったルドルフさまを、困らせてしまうだけなのに。
両手で顔を覆って泣くわたしの髪を、ルドルフさまが優しく撫でてくださっているのを感じるわ。
ルドルフさまの、この温かい手が大好き。包み込むような落ち着いた低い声も、ほっとする微笑みも。
こんなにも愛しいかたが、わたしなんかと心中なんて、絶対にしてはならないわ。
いつまでも健やかで、いつか皇帝陛下となられる時に、決してお傍にいられないとしても。
恋に盲目なただの少女のままでは、せっかく時が戻ったのに同じ運命の繰り返しだもの。
今度は、この命、あなたを守る為に使わせてください。
「ルドルフさま、どうして、わたしを、」
どうして、わたしを見つけてくださったのですか。そして、愛してくださったのですか。
こんなことでは、一度目のわたしよりヒドイわ。
あの時はただ浮かれて舞い上がって、再びルドルフさまに、それも二人きりで会えたことにただ感激していたもの。
そのほうが余程、何も知らない、恋に恋する夢見がちな少女のほうがずっと、ルドルフさまには好都合だったはずよ。
わたしたちの関係はいつしか知れ渡り、もう二度と会うことができないよう、お父さまはわたしを修道院に入れようとなさったのだわ。
お父さまが意地悪をしたわけではないことはわかっているの。
逆らったりしたら、男爵家なんて一溜まりもないわ。
誰も味方なんていなかった。
わたしを最も邪魔に思っていらっしゃったのは、きっと皇帝陛下よ。
「あなたが、とても可愛らしいから」
「嘘です! わたしなんて……もっと大勢、ルドルフさまの周りには大勢の美しい女性がいる筈です! なのにおかしいわ、わたしなんかと、」
「美人は苦手なんです」
……えっ……つまり、
「し、失礼、いや、僕は、」
ルドルフさまの慌てるお顔、初めて見ました。
って、感動している場合ではないのかしら? 面と向かって、愛しいひとに“美しくない”と言われてしまったのだから。
男性は皆さま美しく綺麗なかたがお好きなものと思っていたわ、と驚いていると、平素の落ち着いたご様子からは想像がつかないくらい慌てたルドルフさまは、少し紅潮したお肌で早口になりながらおっしゃったの。
「あなたが美人ではないとか、そういうことではなくて……止そう。あなたには言い訳も嘘も吐きたくない」
ずっとご一緒に過ごした時でも、このようなお姿は拝見したことがなかったわ。
言葉を詰まらせ溜め息を吐くと、またいつもの落ち着いたルドルフさまに戻られました。
言い訳だなんて……むしろ幸運だと神様に感謝したくらいです。
わたしが美しくも綺麗でもないからルドルフさまのお目に留まったのだとしたら、この平凡な顔が喜ばしいくらいだわ。
「あなたが扇を落とした時……あるひとのことを思い描いたのです」
ルドルフさまは、そのあるひとの少女だった頃を見たこともないはずなのに、懐かし気に眼を細めていました。
「私の母が嫁いだばかりの頃、民衆の面前で足を踏み外し王冠を落としたことがあったそうです。母は今でこそ美貌の皇后と持て囃されていますが、自然豊かなバイエルンで伸び伸びと育ったお転婆娘だったそうですよ。私は幼い頃から母と共に過ごすことがなく、すべて聞いた話でしかないのですが……」
そこで少し思い直したように、話を変えるように付け足されました。
「あ、母は乗馬が得意なのですよ」
「まぁ! わたしも乗馬が好きです」
「それは素晴らしい。いつか一緒に出掛けましょう」
皇后陛下のことを心から懐かしく慕わしくお話しされるのに、綺麗な女性が苦手ということに結びつくのはなぜかしら。
どこかで気になりながら、ルドルフさまはこの話題を続けたくないのかしらという感覚もあり、深くお尋ねすることはできませんでした。
この日から、わたしはルドルフさまと何度もお会いしました。
想いはどんどん深くなるけれど、ルドルフさまがあまりに雲の上のおかただからか、罪悪感や、皇太子妃殿下への嫉妬心は感じなかったのです。
わたしはやっぱり子どもみたいだわとも思いますし、ズルくて悪い女だとも思います。
ルドルフさまがまさか本気で、わたしを愛してくださるわけがないわと、わたしは自分の恋心に自信がある反面、どこかルドルフさまを信じていなかったのかも知れません。
けれど時折見せるどこか寂しそうな表情を見ると、生まれつきこの世のすべてを持っているような、こんなにも恵まれているルドルフさまなのに、真に幸せとは思っていらっしゃらないのかもとは感じているのでした。
ある日ルドルフさまの応接室でお会いしている時に、急な軍議に出席しなければならないとのことでそのままお待ちしていたことがありました。
そこへ、ルドルフさまのご友人とおっしゃるかたが現れたのです。
そのかたは、ヨハン=サルヴァトールさまと名乗られ、わたしに会ってみたかったとおっしゃいました。
先日社交の場に出たばかりのわたしは失礼ながら初めてお聞きするお名前で、どういう身分のかたなのかとかはわかりませんでした。
「ほら、殿下が大層ご執心だっていうからさ。それも、今までとは全ッ然違うタイプ」
恋のお相手が他に何人いらっしゃっても当たり前のことだわ。
だって、ルドルフさまはあんなに素敵なかたなのですもの。
ルドルフさまは本当に、女性の憧れをすべて集めたようなかただわ。
身分や権力が、とかいう以前に、ルドルフさまご自身の魅力も、女性を惹き付けてやまないような要素で溢れているもの。
実際に皇子さまなのだけれど、まるで物語に出て来るプリンスそのものだわ。
優しく物静かで、穏やかで上品で。
けれど、どこか寂しげで。
わたしは二度目でやっと気づいたけれど、他の恋人さん達はご存知なのかしら。
もし、他のかたの前でも同じなら、今まで知らなかった妬み心のようなものが少しわかるような気がするわ。
「確かに、可愛らしいねー。皇后陛下とは真逆のタイプだ。あ、ルドルフにはナイショね。ゼッタイ怒られるから」
怒っていらっしゃるご様子なんて想像もつかないけれど、ルドルフさまとは旧知のお付き合いなのかしら。
ルドルフさまより年上で、随分深い関係みたいだわ……このかたなら、ご存知かもしれないわ。
「……あの、殿下は、綺麗な女性が苦手と、おっしゃったのです」
「ルドルフがそんなことを?」
「はい……皇后陛下と殿下は、あまり仲が、」
あまりにも失礼なことを訊いて、自分でも厭きれてしまうわ。それも初対面のかたに。
だって、この機会を逃したら……こんなことを訊けることなんて滅多にないことだと思うもの。ルドルフさまにお尋ねするわけにもいかないし。
ご存知ないなら、知らないと突っ返されるでしょうけれど、ご存知だとしても本当のことなんて教えてくださるとも限らないけれど。
でもサルヴァトールさまは、先ほどまでは、わたしを珍しいものでも見るような好奇の顔をなさっていたけれど、深く考え込んで沈んだ声でお話しされました。
「彼にとって皇后陛下こそ最愛の女性で、最も憎んでいる女性でもあるからね」
憎む……? 優しいルドルフさまが、お母さまである皇后陛下を?
ルドルフさまが皇后陛下のお話しをなさった時のお顔はとても穏やかで、そしてやっぱり寂しげで、憎んでいるようには到底見えなかったわ。
サルヴァトールさまは、ゆっくりと、わたしにもわかるようにお話ししてくださいました。
ハプスブルク家の帝王学は強烈だ。
生まれた瞬間から世継ぎとしての期待を一身に受けた彼に施された教育は、常軌を逸していた。
皇后陛下と引き離され皇太后殿下が手元に置いてね、約三十人もの家庭教師を付けた。
なかでもレオポルト・ゴンドレクールの教育は異常でね。
鞭打ちなんて日常茶飯事、冷水のシャワーに目覚めのピストル、夜中の森に置き去りにされたこともあったらしい。
皇帝陛下は容認していたらしいから、かつて陛下も同等の教育を受けていたのかもしれないね。
それに気づき激怒したのは皇后陛下だ。
宮廷でただひとりの男だと高名な皇太后殿下との不仲が発端で度々隙間風が吹いていた夫婦仲だったけれど、すぐに皇帝陛下に直訴したんだ。
息子を、ルドルフを返せとね。
闇から救ったのは最愛の母だったけれど、決して彼の理解者にはなり得なかった。
皇后陛下は常に旅をしていて、オーストリアにいることが稀だろう?
皇太后殿下が牛耳るウィーンを嫌って、宮殿を牢獄と呼んでいるくらいだからね。
狂王・ルードヴィッヒ二世を生んだヴィッテルスバッハ家の血だ、何よりも自由を愛し宮殿から逃げ回る皇后陛下には、息子を救う為に共に過ごす、愛するという選択肢はなかったんだ。
ルドルフにとって皇后陛下は、最上の天国の喜びと、最低の地獄の苦しみ、その両極端を与えることができる存在なんだ。
だから美しい女性が苦手。
母を思い出すからだ。
「……そうやって、ルドルフを落としたの?」
途端に意地悪そうな声で言われてハッとすると、わたしはまた泣いてしまっていました。
「ご、ごめんなさい……ッ」
すぐに泣いてしまうなんて、子どもみたいだわ。だけど、ルドルフさまのどこか寂しげな様子の一因を知った気がして、ルドルフさまのお気持ちを考えると、止まらないのですもの。
「でもね、こんな怪しい男の言うことを鵜呑みにしちゃあイケないよ。彼のことをちゃんと知りたければ、直接彼に訊けばいい。それが叶う君は、この世で稀な幸運の持ち主だ。他人の言うことより何より、彼自身の言葉を信じてあげてほしいな。世界は俺のようなウソツキばかりだからね。惑わされてはダメだよ」
不思議だけれど、言葉と裏腹、決して悪いひとやましてやウソツキだなんて感じませんでした。
子どものわたしの勘なんて、当てにならないのかもしれないけれど。
「教えていただいて、ありがとうございました」
やっとで涙を拭いてお辞儀する頭上から、またきっと、わざとなのかもしれません、意地悪に聞こえるような声で続けられました。
「彼の闇は、君の想像の何倍も深い。それでも、覗きたいと思うかな?」
「はい、殿下をお慕いしています」
「いいお返事だね。彼が羨ましいな。それではね」
ルドルフさまの心の根源にあるのは、皇后陛下への想いなのかしら。
それなのに、今はあまり仲が良いようには見えないけれど、由緒正しいお家柄のご家庭というのは、須らくそういうものなのかしら。
うちはお父さまもお母さまも厳しいけれど、それは愛ゆえにだということはよくわかっているわ、二人とも愛し合っているし、もちろんわたしも愛しているもの。
皇帝陛下は想像し難いほどにお忙しいでしょうし、皇后陛下はサルヴァトールさまがおっしゃったようにほぼ常に旅に出ていらっしゃるわ。
それにルドルフさまも、いつもわたしと会う時間を作ってくださるけれど、たまにお疲れのお顔をされているわ。
単に、それぞれがお忙しいから、なかなかゆっくりお話しする時間がない、という理由なら解決する方法はありそうだけれど、何か他にも理由があるのかしら。
ルドルフさまのどこか寂しげなご様子を取り除くには、皇后陛下とのご関係が良くなれば、なんとかならないかしら。
それは、一回目のわたしでは思いも付かなかったことだわ。
何もしないで恋に夢中になっては、何度繰り返そうと同じ道を辿るだけよ。
ルドルフさまとわたしの関係が、皇帝陛下にまで知れ渡り、お父さまがわたしを修道院に入れようとなさった。
二度と会えなくなるのを苦に、わたし達は心中する。
わたしはどうなってもいい。せめてルドルフさまだけでも、死を選んだりしてほしくないの。
そんなことを考えていた矢先でした。
なんということでしょう……皇后陛下のご所望で、わたしがシェーンブルン宮殿へ行くことになったのです。
珍しくウィーンに帰られた皇后陛下に、ルドルフさまがわたしのことをお話しされたのかしら。
わたしがいうのもおかしいけれど、皇太子妃殿下というかたがいらっしゃるのにそんなこと、ご自身からお話しなんてされるかしら。
なら、他のかたからお聞きになったのかしら。
そうに違いないわ。
でも、そうだとしたら、きっとヒドイ印象を持たれてしまっているはずだわ。
わたしが世間になんと言われているか、すべてではないけれど、少しは知っているもの。
ルドルフさまのような素敵なかた、それも皇太子殿下であるかた、そして奥さまのいらっしゃるかたと、わたしのようなたいして美しくもなく取柄もない、身分違いの女がなんて……と、ウィーン中から後ろ指を差されているような気さえするのだもの、皇后陛下はきっと呆れていらっしゃるわ。
もしかしたら、直接お叱りを受けるのではないかしら。
でもわたしの恐怖と心配とは正反対に、皇后陛下は輝くような笑顔でわたしを迎えてくださったのでした。
「まぁ、かわいらしい。さ、こちらへいらっしゃい」
緊張で何と言ったか覚えていない挨拶をしてお辞儀していたわたしの手を、皇后陛下は優しく引いて、ソファに掛けさせてくださいました。
傍にはルドルフさまも、いつものように微笑んでいてくださいました。
エリザベート皇后陛下は、写真や数々のスーベニアで何度も拝見したことがあるけれど、写真よりもずっと美しくて、スラリと背が高くてほっそりとした、お肌が真珠のように白くて綺麗で、ルドルフさまの端正なお顔と似ていらっしゃる、思わず見惚れてしまうような女性です。
皇帝陛下が本来お見合いする筈だった女性の妹である皇后陛下を一目でお見初めしたと聞いたことがあるけれど、無理もないわ、この美貌でそれも、こんなに優しくて溌剌とした女性なのですもの。
「乗馬をするのですって? ふふ、おてんばちゃんね。今度一緒に遠乗りにでも出掛けましょうね」
乗馬をする……真っ先にお話しくださった内容から、わたしのことを皇后陛下にお話しされたのはルドルフさまなのだわ、とわかりました。
家族とルドルフさましか、知らないことですもの。
「ね、マリー。きっと、そうおっしゃると思っていました。陛下はいつまでウィーンにいらっしゃいますか?」
前にルドルフさまにも言われたように、そんなことが叶ったら、ルドルフさまと皇后陛下がお話しできる良い機会になるのではないかしら。
「あら、私とマリー、女二人で行きましょう? 困っていることや、ルドルフのグチだってあるわよね? 何でも相談していいのよ」
「母上」
高い声で笑いながら冗談をおっしゃる皇后陛下に、ルドルフさまは困惑顔でしたが、サルヴァトールさまのお話しがまるで過去の話でしかないように、仲睦まじく見えました。
けれど反対に、初対面の、いち臣民でしかないわたしの前で本当の意味で気を抜かれることなんて有り得ないのだわ、とも思います。
そんなことを考えて、ルドルフさまも同じだとしたらどうしましょう、と暗い気持ちになってしまいそうでした。
初めてお会いしたルドルフさまが、またわたしを見つけてくださるとおっしゃった時と同じように、いいえ、実際は本当に見つけてくださったのだけれど、皇后陛下のお言葉も社交辞令のようなものでしょうとどこかで本気で喜びきれない想いがありましたが、お二人は似ているのかも知れません、皇后陛下の今回のウィーンご滞在中にそれは叶ったのです。
この時ほど、お父さまに習って乗馬をしていて良かったわと思ったことはないわ。
皇后陛下がおっしゃったように、女性が趣味としていると聞くと、お転婆だとかいう印象を持たれてしまうことがほとんどですもの。
共通の趣味がなければ、二度もお会いしてくださるなんて有り得ないことだと思うもの。
ましてや皇后陛下は、ウィーンにいらっしゃることさえ稀なお方で、ルドルフさまもいつもお忙しそうにされているのに。
まるで夢のようなことだと思ったわ。わたしがルドルフさまと恋をしていることから、元々夢のような話ではあるのですけれど。
そう、お出掛けする時は、お二人ともご一緒だったの。
むしろわたしがお邪魔かもしれないけれど、お二人がゆっくり同じ時間を過ごして、お話ししていただけるとても良い機会だと思ったわ。愛するひとのお母上である皇后陛下とまたお会いできることはもちろん、そのことがとても嬉しかったの。
皇后陛下もルドルフさまも、馬を扱うのに長けた第一級の騎手であるという評判は聞いたことがあったけれど、わたしなんかがいうことは烏滸がましいけれどお二人とも素晴らしかったわ。
お父さまが一番大事なことだとおっしゃっていたけれど、まさに馬を友人のように扱って、乗馬と馬を愛していらっしゃることが伝わってくるの。
それに皇后陛下が乗る馬は早駆けをするととても速くて、追いつけるものではなかったわ。
馬に負担を掛けたくないから体重を増やさないようにしているのとおっしゃっていたのも理由の一つでしょうけれど。
「マリーもとても上手だけれど、無理をしないように。ゆっくりついておいで」
尊敬の眼差しでつい皇后陛下を見つめてしまっていたのが、ルドルフさまにわかってしまったのかもしれません。
そうですね、焦ったりしたら馬に伝わってしまうわ。
優しいお言葉に甘えて、遅れてしまうかもしれないけれどがんばって付いて行こうと思ったのですが、ルドルフさまはしっかりわたしに合わせてくださって、それがとても嬉しかったのです。
実は名前を忘れてしまったのですけれど、到着した場所は小高い丘になっていて、少し離れた場所には大きな湖がありました。
わたしの心はどうしてもマイヤーリンクを思い起してしまい、ほんの少しだけ怖くもなるのでした。
「あなたのおかげね、マリー。ルドルフと出掛けるなんて、あの子の幼い頃以来だわ」
ヒソヒソと内緒話をする姿勢で、皇后陛下は口許に片手を添えてお話しされました。
近くで拝見すると、細い指先や長い睫毛の先までも美しくて、女のわたしでも胸が高鳴るのでした。
「あなたといる時のルドルフはまるで……少年のようね。よく笑って朗らかで。……実際の彼の少年時代は、とてもそんな風に過ごさせることができなかったから、あくまで想像だけれど」
束縛され、自由がなかった。
それどころか、子どもらしく遊ぶこともなく、恐怖と支配のみを与えられた少年時代……皇后陛下の手によって逃れたけれど、お母さまの居ない宮廷で、誰かに甘えることもなく孤独に過ごして……今からでも取り返すことはできないかしら。
「……ルドルフさまは、もっと皇后陛下とお過ごしになりたいはずです」
「そうかしら? あなたと一緒のほうがずっと幸せそうよ」
そんなことはありません。わたしに微笑んでくださる時も、ふと不安にもなるのです。
本当は、心まで、笑っていてくださらないのではないかしら、と。
「お二人で、私の悪口ですか」
「うふふ、そうよ」
また皇后陛下が冗談をおっしゃるので、ルドルフさまも困ったようなお顔で、でもやっぱり嬉しそうにも見えるのでした。
「マリー、不安なことがあるのなら、ちゃんと伝えなければだめよ。我慢をして良いことなんてひとつもないこと、私は身を以て知っているの」
これも聞いた話ですけれど、宮廷に入ったばかりの頃の皇后陛下は、田舎育ちと蔑まれ、皇太后殿下や貴族の方々からたくさんの嫌がらせを受けたそうです。
危険だからと、乗馬も禁じられていたのです。
皇帝陛下と結ばれる予定だったのはお姉さまの方で、皇后となられる運命が急に訪れたのですもの、その上で虐げられては、宮廷が嫌になってしまうのは当然のことだわ。
けれど、ルドルフさまは?
皇后陛下がまるで牢獄のようと感じていた宮廷に残されたルドルフさまは……。
思わずルドルフさまを見上げると、皇后陛下がわたしに不安があるとおっしゃったのを心配そうに見つめてくださっていたので、また涙が溢れてしまいそうになり、つい俯いてしまいました。
「ルドルフを愛してくれて、ありがとう。これからも仲良くしてやってね」
「は、はい!」
「母上、子どもではないのですから」
ルドルフさまがおっしゃるように、まるで子どもの頃によく遊ぶ友人に言うような表現に、後から考えると少し笑ってしまいそうになるけれど、皇后陛下の心に住むルドルフさまは、一緒に過ごすのが久しぶりとおっしゃっていたもの、もしかしたらずっと少年の姿をしているのかもしれないわ。
その後、皇后陛下はすぐにまた旅に出られました。
でもウィーンに帰って来られるたびにわたしと会ってくださるのを、世間の方々にはとても驚かれてしまいました。
皇后陛下と皇太子妃殿下はあまりうまくいっていない……というより、皇后陛下が嫌っていらっしゃる、という噂まであるそうです。
それに、ルドルフさまとお付き合いのあった女性の中で、皇后陛下とお会いになったかたはいない、とか。
世間の方々は、なのにどうして、ただの男爵家の娘が、と噂をしているらしいのですが……それはわたし自身が一番不思議に思っていることなのでお答えのしようもないのです。
そんな噂が広まるよりずっと前、遠乗りの後にお会いしたルドルフさまは、優しいけれど真剣な眼差しで、わたしに訊いてくださいました。
「何か不安なことや、心配ごとがあるのなら、私にすべて打ち明けてほしい。君が我慢をしたり、私に隠し事をしたまま共に過ごすのは、辛いだろう」
何度かお邪魔したことがあるルドルフさまの書斎で、膝に置いたわたしの手を両手で包むようにしてお話しされると、とても落ち着くような緊張するような、正反対の感情を同時に抱くのです。
皇后陛下もサルヴァトールさまも、直接ルドルフさまにお話しするようにとおっしゃっていたけれど、図々しいとか余計なことだとか、思われたり嫌われたりはしないかしら。
「私は……皇太子だから。何か悪いところがあっても面と向かって咎める者がいないのだ。……皇帝陛下くらいしか。だから、マリーを嫌な気持ちにさせてしまっているなら、教えてほしい」
「そんな! ルドルフさまにイヤなところなんて、ひとつもありません!」
どうしましょう、そんな風に思われてしまっていたなんて!
ルドルフさまのすべてが大好きで大切なのに……すべてを知っているなんて独り善がりの勘違いかもしれないけれど、それでもわたしが知っているルドルフさまに、悪いところなんてないのに。
また俯いてしまっていたのに急に顔を上げて、大きな声を張ってしまったからかしら、ルドルフさまは皇后陛下と同じくっきりとした二重瞼と長い睫毛の瞳を揺らして、とても驚かせてしまいました。
「ありがとう。……私はあるよ、マリーのいやなところ」
「ひっ……お、教えてください」
当然だわ。わたしなんて良いところを探すのが難しいような、欠点だらけの女ですもの。
今だって、急に息を吸ってしまって変な声をあげてしまったわ。
「教えて? そうしたら直すの?」
「はい! もちろんです!」
嫌われてしまったらイヤだもの。
どんなお叱りを受けるのかと身構えると、ルドルフさまはいつも通りの優しい眼差しで続けるのでした。
「我儘を言わないところ。君のワガママなら何でも叶えたいのに……私はそんなにも頼りないかな」
わたしは驚いて、返事をするのも忘れてしまっていました。
ワガママだなんて……こうして会ってくださるだけでも十分過ぎるくらいに嬉しいのに、これ以上のことなんて、何を望めとおっしゃるのでしょう。
「た、例えば……どのようなことでしょう」
「そうだね。例えば、何か欲しいものがあるとねだってみたり、もっと会いたいとせがんでみたり……あとは、他の女性と別れるように迫ったりとか、かな」
「そんなこと! ルドルフさまに言えません!」
他の女性は、そんなことをルドルフさまにお伝えしているのかしら、なんてつい考えてしまったわ。
つい大きな声を出してしまってから気付いたけれど、言えませんなんて言ってしまっては、実は心のなかでは望んでいますが言うことができませんと、伝えてしまったも同然だわ。
でも、本当は違うのです。
本当のわたしは、ルドルフさまが思っていらっしゃるよりもずっとずっとワガママで欲張りだわ。
皇太子殿下としてではない、ルドルフさまご自身のことを、もっと知りたいのです。
本当のあなた、寂しさや苦しみは分けていただきたいし、一度目の、愛するひとに死を選ばせてしまったわたしではできなかったこと、本当のあなたを理解して、愛したいのです。
身分違いも力不足も甚だしいのに、そんな欲張りなワガママを知られてしまっては、呆れられてしまうわ。
けれど、サルヴァトールさまも皇后陛下もおっしゃったように、直接ルドルフさまにお話しするのが一番良い……いいえ、唯一の方法なのかもしれないわ。
周りを探るようなことをしている今のわたしの方が、余程イヤな女にも感じるもの。
わたしの迂闊な一言は、わたしが懸念した通りの印象を持たれてしまったわ。
「私には言えない? 欲しいものも、もっと会いたいも?」
ルドルフさまは、まるで大事なものに触れるように、いつも優しく髪を撫でてくださるわ。
傲慢な女だと、嫌われてしまってもいいなんて覚悟、到底できてはいないのですけれど。
「欲しいものなら……あります」
「なんでも言ってごらん」
ルドルフさまはきっとなんでも叶えてくださるわ、わたしの欲しいものが、単なる物であったなら。
わたしは物なんて、何もいりません。欲しいのはひとつだけなのです。
「ルドルフさまはなぜ……いつも、少し寂しそうなお顔をされているのですか?」
わたしが大抵おかしなことを言うものだから、何度も拝見したことがある驚いたお顔とは違う、秘密が露見した、とでもいうようなお顔をされていました。
皇太子殿下たる者、弱みとでもいうようなものを他人に覚られるべきではないと、かつての厳しい家庭教師のかたはおっしゃったのかもしれません。
「……そう見えた? けれど、マリーと共に過ごしている時は寂しくないよ」
額にくちづけてくださるのを、初めて顔を背けてしまいました。まるで子どもがイヤイヤをするみたいだわ。
「ごまかさないでください! どうして、わたしを拒まれるのですか?」
またおかしなことを、くちづけを拒んだのはわたしだわ。けれど、そういうことを言いたいのではなくて。
「わたしは、ルドルフさまの本当のお心を知りたいのです。あなたのすべてを愛したいと……それがわたしの唯一の望みです」
お互いに真っ直ぐに見つめ合っていたから、ルドルフさまの双眸が暗く、次第に影が落ちていく様がわかったわ。
それは決して、喜びの色ではなかったのです。
「……魔法の時間はお終いだ。解けてしまったら、お別れをしなければならない」
わたしは極刑を宣告される罪人のように、俯いているのか見上げているのかもわからないまま、ただ真っ黒な世界で冷たい手が震えるのを感じていました。
「さようなら、マリー」
いいえ、喩え話なんて滑稽だわ。
わたし本当に、罪人なのよ。
奥さまもお子さまもいらっしゃる、皇太子殿下に恋だなんて、罰を受けても当然の報いだわ。
どうやってわたしの部屋まで帰ったのか覚えていないのだけれど、わたしはベッドの中でただ涙を流れるままにしておいたわ。
ばあやがいつも通りわたしを起こしてくれる声で気が付いたの。
二人の別れを悲しんでいるのは、この世でわたしだけだわ。
そうよ、わたしがルドルフさまと離れれば、ルドルフさまが得体の知れない女と心中事件なんて起こす筈がないのですもの。
もしかしたらわたしが時を越えたのは、わたしの過ちを正す為だったのかしら。
きっとそうだわ。
わたしが身の程を弁えない恋なんてしない為、一国の主になるお方の未来を守る為。
そのように、神様がお考えになったのだわ。
抜け殻になったこの身体を引き摺り、ルドルフさまにお会いする前のわたしとして生きればいいのだわ。
それがルドルフさまの幸せなのですから。
「お嬢様、大変です!」
わたしがあまり寝坊をするものだから、わざとばあやはこういう風に大袈裟に急かすことがあって、今日も真面目に受け止めたりはしなかったのだけれど、今回ばかりはもっと早く起きて身支度をしていなければならなかったわと後悔したわ。
だってまさか、ステファニー皇太子妃殿下がいらっしゃるなんて思いもよらないもの。
客間でお待ちいただいていた皇太子妃殿下はさらに驚くことにお一人で、あの日以来やっとまとも歩いたような心地のわたしにスラリと鼻筋の通った美しいお顔を向けたわ。
わたしは縺れる足で転がるように階段を降りて来たのもあって頭が真っ白になり、ご挨拶するのも忘れて立ち尽くしてしまったわ。
その様子を、同じように一言も発せずに眺める皇太子妃殿下の纏う雰囲気は、美しい貴人特有の高貴なもので、やっぱりエリザベート皇后陛下は良い意味で特別なのだわと感じたの。
「お、お初にお目にかかります。皇太子妃殿下にはご機嫌も麗しく、」
ここで、フイと顔を背けられてしまいました。通り一辺倒の挨拶を並べるわたしに、ご機嫌麗しいわけがないでしょうとでも言いたげに。
窓の向こうを眺めたままの姿勢で、皇太子妃殿下は独り言のように小さな声で言いました。
「……殿下の」
ルドルフさまとのことでお叱りを受けるのでしょうか。
どんな仕打ちを受けても文句の言いようもないことですけれど、わたしは寿命が縮むような想いでビクリと肩を揺らしてしまいました。
その様子に一瞬流し目を走らせてから、ゆっくりとした調子で続けられました。
「ご様子はいかがかしら」
どこか、お加減が優れないのかしら。
咄嗟にわたしは考えました。
皇太子妃殿下がわざわざ、おそらくお供の方々にも内緒でお越しになって、わたしなんかにお尋ねになるなんて。
けれどお役に立てそうにありません。
ずっと、お会いしていないのですもの。
「いえ……」
わたしには、わかりません。
この言葉もこれから続けるべき言葉も、簡単には口に出来ませんでした。
ルドルフさまとは、お別れをしたのです。
そのことを、ルドルフさまは皇太子妃殿下にお話しをされていないのだわ、だから妃殿下はここにいらっしゃったのだもの。別れたことを告げるのは、わたしとの噂を認めることにもなるからかもしれませんが。
いつでもルドルフさまのことばかり考えてしまうから、勝手にルドルフさまに何かあったのかしらと結びつけてしまったけれど、そうとも限らないわ。
なぜ、妃殿下はこのようなことを?
ルドルフさまは、わたしの前で一度も奥さまのことをお話しされなかったわ。
だからどんな女性かなんて、周りの噂どころか、世間一般の話しか知らないの。
皇太子妃殿下はおとなしい女性で、ルドルフさまとあまり打ち解けることはなく、仲睦まじい様子には見えないと。
けれどそれはあくまで噂に過ぎないのかも知れないわ。
愛がなければ、わざわざここまで来てルドルフさまのことを、ましてやわたしのことなんてきっと憎んでいらっしゃるでしょうに、お話しに来てくださるなんてなさらないはずですもの。
「あの……皇太子殿下とは、お会いしていません」
これでも、わたしなりに精一杯言葉を選んだつもりなのです。
お別れをしたのですとか、他にも言い様があったかもしれないけれど、どのように言っても藪蛇にしかならない気がするわ。
けれど、ルドルフさまのご様子を知らないとだけお答えしたままでは、隠し事や偽り事をしているみたいだわ。
だからなるべく正直にお話しするべきだと考えたのだけれど。
「……そう……あなたの為に私と別れたいのかと思っていたわ」
……ルドルフさま、どうして?
一度目のわたし達……心中を選んだわたし達の時に、ルドルフさまはわたしの為に奥さまとお別れするとおっしゃったわ。
わたしへのみの甘い夢物語ではなく皇帝陛下に申し出られて、それが陛下の逆鱗に触れ、会うことを禁じられたのですもの。
いいえ、陛下をお恨みなどしていません。
ステファニー皇太子妃殿下は、ベルギー王国の王女様。ハプスブルク家の習わし通り、国同士の繋がりの為に結婚したものを離婚なんて、ご夫婦やご家族同士のお話しだけで済む筈がないのですから、陛下がお怒りになるのは当然です。
けれど、二度目の今は、わたしとはお別れしたのに、何故皇太子妃殿下にそんなお話を? もしかして、皇帝陛下にもお話しされているのかしら?
普通の、ごく在り来たりの男女なら、他に恋人がいるのかしら、と考えるところでしょう。
けれど、ルドルフさまは、一国の皇太子さまです。
わたしは一度目の時も、心のどこかである考えが過ってはいたのです。
ルドルフさまはもしかして、皇位継承をされるおつもりではないのかしらと。
もうルドルフさまに直接お訊ねするなんてできません。
でもどうしても確かめたいのです。
あのサルヴァトールさまなら……ルドルフさまととても親し気にしていたからご存知かもしれないわ。
けれど、ルドルフさまにはもちろん、サルヴァトールさまにもお会いすることなんてできないもの。
ああ、とても、矛盾しているわ。
ルドルフさまが死を選んだのは、わたしのせい。
ならばわたしともう関わらなければ、ルドルフさまは長く幸せに生きていけるはずなのに。
出逢ってすらいないように、まったく関係のない他人としてこのまま抜け殻のように生きて行けば、愛するひとの命を守ることが今度はできるでしょうに。
身勝手よ、我儘がすぎるわ。
わたしは結局、ただルドルフさまが安寧に生きるよりも、叶うならその傍らにはわたしが寄り添っていたいと願っているのだわ。
こんな浅はかで欲深い女、ルドルフさまに愛想を尽かされても当然の報いよ。
また鬱々とした日々を暮らすなか、わたしも家族中も驚くお手紙が届いたのです。
それは、舞踏会の招待状でした。
差出人は当然、ルドルフさまではありません。お手紙をいただくことすら初めてのサルヴァトールさま。
一曲踊る、という名目で誘っていただいたわけではないことは明確だわ。
この舞踏会にはルドルフさまもいらっしゃる。
わたしを招待しないことを知ったサルヴァトールさまが不思議がって理由を問い質したのだと、舞踏会でお会いしてすぐのご挨拶で明かされたわ。
「遊び人のサルヴァトールからお呼びがかかったなんてヴェッツェラ男爵も大層警戒しただろうが、そういうわけだから安心していいよ」
とまで気を回してくださったわ。
確かにお父さまは、まさか断るわけにもいくまいと渋々送り出してくれたのですけど。
「ルドルフが君を手放すなんてね。ケンカでもしたの?」
絵画でしか見たことがない、かの鏡の間を思わせるような豪奢な広間で、くるくると花々が回るように、貴婦人たちのドレスがウィンナーワルツの調べに寄り添うのを眺めながら、壁を背にしたわたしたちは周囲を憚りながらお話ししました。
「変に個室に連れ込んで妙な噂になるのは申し訳ないからね、このままで話そう」
と、気遣ってくださるのが、自称・遊び人とはおっしゃっていたけれど、こうしてわたしなんかを気に掛けてくださるなんて優しいかただわと安心してお話ししました。
サルヴァトールさまは、わたしが皇后陛下とお話したり、乗馬のお供をしたことまでご存知で、そこまで気を許している筈なのにどうして、と不思議がっているのでした。
「殿下はただ、わたしがイヤになってしまわれたのだと思います」
思い出す、というよりもいつも胸を搔き乱すルドルフさまの言葉を反芻しては、こんなところで迷惑でしかないのに、つい目の前が涙で曇ってしまうのです。
サルヴァトールさまは声を詰まらせるわたしを急かしたり促したりせず、ただ黙って聞いてくれていました。
「……ルドルフさまの、本当のお心を知りたい、などと。身の程を弁えない高望みを口にしてしまったので、」
続けることができなくて俯くと、足元の大理石にいくつかの雫が落ちました。それでも見える世界はぼやけたままです。
つまらなそうに何か考えるように、ふーん、と間延びした相槌が遠くで聞えます。
妃殿下にお話しした時も今も、改めて口にすると本当に現実なのだわと実感します。ルドルフさまのおっしゃったように、愛された時間のほうがまるで魔法だったのに。
「厭になった……ってのはハズレだろうね。視線で殺されそうなくらいに俺を睨んでるから」
何のことかわからずについ見上げると、頬を涙が伝いました。
「わっかりやすいヤキモチ……カワイんだからな」
サルヴァトールさまはわたしの頬にハンカチをそっとあてて、優しい動作とは裏腹に意地悪そうに微笑むのでした。
「続きは踊りながら話そうか」
手を引かれて進む足が縺れそう。
そんな気分になれませんとか、情けないことを言っている場合ではないわ。
せっかくサルヴァトールさまに会えたのだから、訊かないと。
いつの間にか、最後のワルツみたい。
いいのかしら、こんな大事なダンスをわたしがご一緒して。
「あの……わたしの、思い違いかもしれませんが」
なんて的外れで無礼なことを言うのだと、咎められても当然なことだわ。
「ルドルフさまは、皇位継承をされるおつもりが、ないのではと」
優しく次の言葉を促すように穏やかなお顔だったサルヴァトールさまは、きっととても驚くと、怒られるかもしれないと覚悟していたけれど、不思議に納得したように頷かれました。
「……さすがは殿下のお心を捉えて離さないマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢」
皮肉かしら。やっぱり、怒っているのかもしれないわ。
「ユリウス・フェリックス、の名は知っているかな?」
初めて聞くお名前でした。
いいえと首を振ると、そうだろうね、と返された後、これまでのほうが余程人を憚るお話しをしていたのだけれど急に耳元で囁かれました。
「彼のペンネームだ」
その言葉に驚いて、けれど様々に考えを巡らせる余裕は、この時はありませんでした。
「……効き目ありすぎ」
何故なら、わたしの腕が、強く引かれていたからです。
見上げると、ずっと会いたいと、もう二度と会えないと思っていたルドルフさまがいたのです。
「最後のダンスは、唯一無二のひとと。おいで、マリー」
戸惑いと、嬉しさと、夢のような浮遊感。
本当に夢なのかもしれないと、繋いだ手に少し力を込めました。
けれど夢かと気を抜くと転んでしまいそう。
「上手だね。僕だけを見ていて、ずっと」
きっと周りのかたがたはまた口々に噂しながら、わたし達を見ていたでしょう。
けれどわたしは、ひたすらにルドルフさまを見上げるしかできないのでした。
導かれるまま優雅に見える動きでくるくる回る様は、まるでルドルフさまに翻弄されるわたしの心のようでした。
なぜ、またわたしと踊ってくださるのでしょう?
もうウンザリだとでも言いたげにわたしを拒否なさった唇で、また甘い言葉をかけるなんて。
ルドルフさまが何を考えていらっしゃるか、わからなくて不安です。
わたしはまた、さっきとは違う理由で涙を零すのでした。
最後のダンスを終えても夢の続きのように微笑むルドルフさまに、わたしは一言もお話しできませんでした。
言いたいこと、聞きたいことがたくさんあったはずなのに。
すべて忘れてしまったように頭の中が真っ白で、ただ涙が流れるのでした。
「勝手な真似をしてしまった。許してほしい」
わたしに許しを乞うなんて。そんなことしなくてもいいのです。
元よりわたしは決してあなたに罪を問うたり、罰したりはしません。
ただ、この心のみ、あなたに捉えられて、離れることを拒むのです。
まだ願いはひとつだけ、変わることなどないのですから。
それでも何も言えずにいるわたしの頬を優しく指でなぞるのは、愛されていると信じていた頃と同じように涙を拭いてくださる為でした。
「……あなたを、巻き込みたくはないから。すべてを話すことはできない。それでも……どうしても愛おしくて、どうかこのまま、傍にいてほしい」
ルドルフさまを、心から愛しているから。答えは承諾以外有り得ない。
けれど、気持ちのままに返事をしては、それでは一回目の過ちと同じなのです。
何も知らないままにただ傍らに、人形のように存在しているのではまた、わたしはあなたに死を選ばせてしまうのです。
せっかく二度目の機会を得たのですもの。
同じことの繰り返しは厭なのです。
半ば無意識のように、わたしは首を横に振りました。
見兼ねて気を遣ってくださったのでしょう、サルヴァトールさまがこちらへ向かって近づくと、ルドルフさまはすっと振り返り、広間から出て行ってしまいました。
わたしは単純で思慮が足りないから、あのひとときはもしかしたら、ルドルフさまはわたしを許してくださったのかと思ったわ。
いいえ、欲が深いから、あわよくば以前と同じように、また会ってくださるのでしょうかと高望みをしてしまっていたわ。
けれど違っていたのです。
それでも、諦めることは出来ません。
あなたを愛することを。今度こそしっかり本当のあなたを愛することを、決して諦めることは出来ないのです。
お父さまは物静かなかたで、お仕事の合間には書斎で本を読んでいることが多いのです。
だからわたしは、ひょっとしたらお父さまなら、ルドルフさまの筆名のこと、そしてその作品もご存知かもしれないと考えたのでした。
サルヴァトールさまがわたしに教えてくださったということは、ルドルフさまを知る上でその作品が重要な意味を持つのだと思います。
「お父さま、よろしいですか」
他の部屋と様式が違う、重厚な造りのドアをノックすると、読書中特有の聞こえるか聞こえないかくらいの返事がしました。
最近のお父さまは、わたしを見つめる時にいつも心配そうで、多分ですけれど、ルドルフさまのことでたくさんの心労を掛けてしまっているせいかもしれないのです。
そんなお父さまに、さらにこんなことを訊くのはとても残酷なことかもしれないけれど。
今のわたしには、酷薄だけれど、肉親よりも大切に想ってしまうほどのかたがいるのです。
「あの、ユリウス・フェリックス……という作家のかたをご存知ですか?」
実は面と向かってお話しするのも悲しいけれど久し振りのような気がするお父さまは、お髭の顔をハッキリと歪ませてその筆名に驚愕されていた様子でした。
「お前こそ……何故、その名を……?」
問われたとて、正直にお話しすることなどできませんでした。
ルドルフさまだけではなく、サルヴァトールさまとも交流があり、その名を聞いたことなど。
言葉を返すことができなくても、お父さまは驚愕のお顔は崩さないまま続けました。
「作家といっても、ただの小説家などではない。ユリウス・フェリックスとは、近頃多くの話題……反発と称賛を得ている、政治批判の論文を発表している著者の名だ」
政治批判。
つまり、ルドルフさまはお父さまである皇帝陛下の執政を批判している、ということでしょうか。もちろん正式に批判などできるはずがなく、筆名を名乗って、正体を偽って行っている……ということでしょうか。
現在の政治への不満と中傷……それが、断定できたわけではないけれど、皇位継承を拒む理由だと、そうサルヴァトールさまはわたしに伝えてくださったのでしょうか?
「誰に聞いたのだ? まさか皇太子殿下に、怪しい人物を探れとでも根回しされたのではあるまいな? いくら親密にさせていただいている仲とはいえ、危険な真似は止すのだ」
いいえ、お父さまのご心配とは、真逆のことが起こっているのかもしれません。
ルドルフさまが、急進派の渦中にいらっしゃるかもしれないのです。
「いいえ、そのようなことはございません。殿下は政のお話なんて全くされませんから。その名は噂で耳にしただけなのです」
半分が真実で、半分が嘘でした。
わたしといる時のルドルフさまは、皇太子殿下として振る舞われることは一切なく、ただひとりの温かく殊更に優しい恋人と振る舞われ、その身分や地位を危うく忘れてしまうように心安く接してくださり、政務でどんなにお疲れでもその様子を微塵も感じさせてすらくださいません。
けれどルドルフさま、もしも現在の治世にご不満をお持ちならば、ご自身がお世継ぎとして政を正せば良いのではないでしょうか?
それは余りにも単純すぎる考えでしょうか?
けれどそれが出来るのは、この世でただひとり、ルドルフさまだけではないのでしょうか?
やっぱりわたしは、もう一度ルドルフさまとお話しがしたいです。
一層疎ましいと、思われてしまうだけかもしれません。
もう二度と、微笑んでくださることすらないのかもしれません。
それでも、わたしのことを愛おしいと言ってくださったお心を信じたいのです。
わたしは決して上辺だけではなくて、本当のあなただけを想って生きていたいのです。
先日の舞踏会でのことを、お聞きになったのかもしれません。もう一度、ステファニー皇太子妃殿下がいらっしゃいました。
わたしは自分でも驚くくらいに大胆にも不躾にも、ルドルフさまに宛てたお手紙を妃殿下にお渡ししました。
ルドルフさまのお手許に届くことがないかもしれないお手紙だけれど、不仲だという世間の噂話と違って……妃殿下は心からルドルフさまを愛していらっしゃるように感じるのです。
だからこそ、烏滸がましくも恋敵であるわたしの元に二度もいらっしゃったのですもの、どんなことをしても、ルドルフさまの真実を知りたいというお気持ちがわかります。わたしも、同じですもの。
そんな妃殿下は、きっと届けてくださるはず。
身勝手にもそう信じてやまず、お手紙をお渡ししたのでした。
わたしからお誘いしたのは、一回目でも経験がない、初めてのことです。
場所は一度ご一緒してみたいと思い描いていた、大観覧車が懐かしくも美しいプラーター公園。
家族連れで賑わう場所に紛れて、お忍びでお会いしたいのですと、そこまでは書かずとも伝わると思います。
静かな個室で二人きりは緊張しますし、目立ってしまうと考えたのです。
わたしは、すんなりと現れてくださるわけがない、いいえ、無視されてしまうことも充分に有り得るのですから、何時間でもお待ちする覚悟でいました。
寂しくないようにとの行動で情けないけれど、ちょうど回転木馬を眺めるベンチに腰掛けていると、不意に背後から近づいて来たかたが隣に座ったのです。
ルドルフさまは帽子を目深に被ったお姿で、こんなところに皇太子殿下がいらっしゃるなんて誰も思いもしないでしょうが、やっぱり背が高くて身のこなしも美しいので、女のひと達の視線を感じざるを得ないのでした。
「妻に恋人からの手紙を渡されるなんてね。マリーは私を困らせるのが好きらしい」
「そっそんな……」
わたしがしたことながら、確かにとんでもないことをしてしまった気が今更だけれどするわ。
妃殿下も顔色ひとつ変えずに受け取ってくださったけれど、内心は怒りで煮えくり返っていたかもしれないわ。
「申し訳、ございません……お会いしたい一心で、」
「私のことを振っておいて? 初めてだよ、女性に袖にされるのは」
そんな! 振ってなんていません! あの時首を振ったのはただ、何も知らないままお傍にいるのが辛くて、あなたをもっと知りたいと望んだ為のものだったのに……言葉足らずのせいで大好きなかたに想いを疑われてしまうなんて。
「いいえ! わたしはただ、あなたを本当に心からお慕いしているのです。この気持ちに偽りはありません」
神様に、いいえ、あなたに誓って。
「そう? ……私はあんなに、酷いことを言ったのに?」
ふわりと頬に触れられると、はしゃぐ子ども達の声の遠くで、ルドルフさまの冷たい声が蘇ります。けれど。
「はい。永遠に、わたしの心はルドルフさまのものです」
帽子で隠れて、目許が見えません。けれどきっと、困惑で歪んでいたに違いないのです。
「だから……すべて知られないまま、離れようと。僕はきっと、君を連れていってしまう。それが、とても怖ろしい。愛されていい人間ではないのに」
深淵に沈むあなたと共にありたいだけではなく、あなたを、救いたい。
わたしはすぐに泣いてしまうけれど、ルドルフさまも、涙を見せてくださればいいのに。
「何をおっしゃるのです。……もしかして、自由民権運動のことですか」
お父さま……皇帝陛下に逆らうことに、罪を感じていらっしゃるのでしょうか。
意を決してお訊ねしましたが、ルドルフさまは少しだけ口許を綻ばせました。
「よく調べたね。公然の秘密というものなのに」
陰でコソコソ探るようなことをして、きっとルドルフさまは厭なお気持ちになっているわ。
けれど、何も知らないまま、ただ傍らにいるだけなんて、もう我慢できないのです。
「正直、戸惑っている。母上とのことや、政治思想のこと……ここまで踏み込んでくるひとなんていなかったから。苦手だよ、君みたいなひと」
また涙が、両眼から溢れてしまいそうでした。けれど今日は子どものように泣きたくはないのです。
「ユリウス・フェリックスの著作は、間違いなく私が記したものだ。私はかねてより急進派の民間人と交流をもち、この考えを皇帝陛下にも進言している。私が玉座を望まないのではなく、陛下が皇位継承を許さないのだ。当然、その覚悟でお伝えしている」
皇帝陛下となられてから、望み通りの治世をされればいいのに、というのは浅はかな考えでしょうか?
時勢とは常に動いているもの。
皇帝陛下は十八歳で即位されてから今でも頑健で英邁なかたでいらっしゃる……譲位まで待てない、間に合わない、というお考えなのでしょうか。
「なぜ、ルドルフさまがそのようなお考えを……」
皇太子殿下として一番身近でその政治と思想を受け継いでいるようなお立場のかたが、どうして?
「そうだね……きっかけは、母上ご推薦の家庭教師の影響だったかな。彼は強烈な自由思想の持主だから」
皇后陛下が幼いルドルフさまをお救いしてから付けた家庭教師……ということは、皇后陛下も同じお考えということかしら……いいえ、考え過ぎよね。
「……父上のお考えには納得できない。政治面でも、それに君とのことも」
ルドルフさまは一層苦し気に、遠くのほうを眺めるのでした。
「君と二度と会うことがないように、修道院へ入れるようにと。……堪えられない。もう、父上の言いなりは御免だ」
そう、陛下に告げられた結果、一度目は二人、マイヤーリンクでの自死を選んだのでした。
わたしはどうなってもいいのです。ただ、ルドルフさまには生きていてほしい。
「マリー、私と旅に出よう」
同じことの繰り返しのようで、全身が震える想いでした。でも行先が違ったのです。
「バイエルン……母上の故郷だ。ルートヴィッヒ二世陛下に誘われてね。友人として親しくしているんだ」
「……はい!」
何の疑問もなくわたしは、喜びと共に返しました。
皇后陛下の故郷で、親しいかたとお話しをして、もう一度皇帝陛下にお考えをお伝えするのはどうかしら。
親子ですもの、必ずわかり合えるはずよね。
ここで彼女……マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の日記は途絶えている。
彼女と、ルドルフ皇太子は宿泊先で何者かに暗殺されたからだ。
彼女は頭部を撃たれ即死。
ルドルフ皇太子は腕を斬り落とされるなど、争った形跡があった。
調査の為にこの日記を手に取ったが、少女の夢物語のようなこの書物には、何の手がかりもなかった。
ただ少女の純粋な愛だけが、綴られていた。
どうか、あなたを奪ってしまわないよう。
今度こそは間違わないよう。
神よ、どうか天上にてお導きください。
幼い頃に迷い込んだ闇深い森から救ってくれた、ただひとりの女性が、また僕に、捕まってしまわないように。
その為ならば、僕は何度でも、地獄へ落ちても構わない。
いとしの 了
この愛に抗うことはできません。
彼の願い通り、わたしをアラントの町の墓地の、彼の隣に埋葬してください。
わたしは生きているより、死を選ぶ方が幸せなのです。
マリー
ここまで書いて、やっとペンが震えました。
追い詰められたようで、でも冷静なように綴っていましたけれど、今は指の震えが止まりません。
止め処もない涙が最期の手紙に落ちて濡らしてしまわないよう、すべて手のひらで受け留めます。
このように書けと命じられたわけでもないのに迷いもなく一気に書いてしまったのは、どこか夢物語のように感じていたからかも知れません。
でもこれは、紛れもない事実。
殿下はわたしが怖い想いをしたり、苦しみを感じたりしないように、眠りについてから逝こうとおっしゃった。
遺書を置き、眠ってしまったら、二度と目を覚ますことはないのです。
眠って、しまったら……?
やっぱりわたしは、死出の旅路が怖ろしい。神に背き、自ら死を選ぶのは怖ろしいこと。
とんだ薄情者だわ。
殿下はわたしを、わたしだけを愛してくださり、共に死のうとまで告げてくださったのに。
……でも一緒に死んでしまった後、またお逢いすることなんてできるのでしょうか?
わたしが先にいき、殿下もすぐに追いつくから待っているように、とおっしゃったけれど……わたしも、はい、なんて返事はしたものの、そんなこと、できるのでしょうか?
天使さまが、別々にお迎えに来られたらどうしましょう。
「マリー」
振り返ると、少し困ったように、けれどとても心配そうに眉を寄せる愛しいかたに見つめられていました。
泣いていたことを、知られてしまったでしょうか。
わたしは立ち上がり、ただ何も考えずに胸に飛び込みました。
抱きとめてくださるこの腕の強さと胸の温もりを感じるのも、これで最期なのでしょう。
互いに言葉を掛けることもなく、殿下の温かな手はずっと優しく、わたしの髪を撫でてくださいました。
それでも、いいえ余計に、涙が止まらないのです。
わたしは何も知らない、ただの浅はかな娘でした。
恋に憧れ、初めての恋に酔い、自らの熱情に精一杯で、愛するひとを真に愛し抜くことができなかったように思います。
もしもわたしがひとりの自立した女性として殿下と向き合うことができていたなら、彼を救うことが、共に生きることすらできたかもしれないのに。
最期のくちづけを交わし、またきつく抱いてくださる腕が、さっきのわたしと同じように震えています。
殿下も同じように、怖ろしいのでしょうか。
「おやすみ、マリー」
1889年1月30日マイヤーリンク。
オーストリア郊外の狩猟用館にて、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子・ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラがピストルで心中を図った。
このような文字が新聞に掲載され、世界中に衝撃を与えるでしょう。
二人が世を去った後の未来は、わたしでも簡単に予想がつきました。
けれどそうはなりませんでした。
何故か再び眼を覚ましたわたしは、わたしのベッドにいたのです。
殿下はわたしを、連れていってはくださらなかったのだわ。
直前になって怯懦したわたしの心は、見透かされていたのだわ。
そう思い、ベッドに潜り込んで泣きました。
きっと殿下はわたしを置いて、おひとりで旅立ってしまわれたのだわ。
あんなにも死が怖ろしかったのに、もう二度と殿下にお会いできないと考えると、それはもっと怖ろしいことだと、ただ一心に、けれど声は殺してシーツに吸い込まれる涙を流し続けました。
「お嬢様、そろそろお目覚めの時間ですよ」
お母さま同様、二度と会えないと思っていた婆やの優しい声がドアの外から聞こえます。ノックの音までが優しいのでした。
きっと遺書は読んだはずなのに、責めたりしないのね。
こんな泣き腫らした顔を見せてはさらに心配を掛けてしまうでしょうけれど、黙っているわけにもいかないわ。
そう思い、なんだか声を出すのすら久しぶりのような感覚になりながら返事をしようとしたけれど、さらに婆やは続けるのでした。
「今夜の舞踏会が楽しみでよくお眠りになられなかったのでございましょう? これでもいつもより30分は遅くお起ししているのですよ」
舞踏会……?
なんのことかしら。いいえ、それよりもこの言葉は、以前にも聞いたことがあるわ。
すっかり見透かされた理由そのままになかなか眠りにつくことができなかったわたしに、婆やがそう声を掛けてくれたのだわ。
そう、それは、殿下と初めてお会いした舞踏会の日だったわ。
――……
「マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢、一曲お相手お願いできますか」
――……
今思い出してもまるで夢見心地のようだけれど、突然殿下にお声を掛けていただいて、ワルツを踊ったのだわ。
……どちらが、夢……?
わたしに手を差し伸べてくださった日?
共に旅立とうとマイヤーリンクに出掛けた日?
それとも、こうしてベッドに飛び起きて、茫然としている今?
もしかして、すべてが夢だったのかしら。
「婆や!」
ドアに向かって駆け出して、勢いよく開いた目の前には少し呆れたような婆やの、よく見慣れた、皺だらけの優しい顔をわざと怒っているように歪めた顔がありました。
もう会えないと覚悟していたから途端に嬉しくなり、思わずぎゅうと抱きしめました。
「まぁまぁお嬢様ったら、いつまでもネンネで困りますわ」
すべて、夢のはずがないわ。
だって、幼い頃から触れ慣れた婆やの身体の懐かしい柔らかさも、恐る恐る触れた殿下の手の温もりも、しっかりとこの手が覚えているもの。
「婆や! 夢をみているみたい! また婆やに会えるなんて!」
「あらあら、怖い夢でも見ていらっしゃったのですか? なら早くお起しすればよかったですわね」
日付を確認すると、やっぱり今日は、間違いなくあの舞踏会の日でした。
わたしはあの日、去年の4月の舞踏会の日に、心と身体が戻ってしまっているようなのです。
どうして? こんなことが起きるなんて。
皇太子さまに突然お声を掛けられるくらいに驚くことが、わたしの人生で2度も起きるなんて思ってもみなかったわ。
普段は顔色を窺ってばかりのいつも厳しいお母さまや大好きなお姉さまとも同じように嬉しい再会をしては、皆に怪訝そうに声を掛けられたわ。
今夜は舞踏会だから、マリーは緊張で少しおかしくなっているのかしらね、と簡単に片づけられてしまったけれど。
そう、舞踏会だわ。
自分に何が起きているのかわからないくらい不思議なことだけれど、わたしは少し過去に戻されてしまったみたい。
でも、あんな奇跡が今回も起きるとは限らないわ。
大勢の紳士淑女が犇めく中で何故かわたしを見つけてくださって、お声を掛け、ダンスまで踊ってくださったこと。
もしかしたら運命の大きな間違いで、今日のわたしは殿下の目に留まることもなく、ただ緊張と戸惑いの連続ばかりの、初めての舞踏会の時間が過ぎるのを待つだけになるかもしれないわ。
そのほうが、ずっと自然だもの。
きっとそうしたら、わたしは殿下にお会いすることも恋をすることもなく、殿下はなんの問題もなく生きて、このオーストリアの皇帝陛下となられるのだわ。
そのほうが、きっとずっと、殿下はお幸せなはずだわ。
わかっているのに……何故かしら、こんなにもまた、涙が零れるのは。
「お嬢様! せっかく綺麗にお化粧しましたのに……どうかなさいましたか? 緊張していらっしゃるのですね。大丈夫ですわよ。どこにお出ししても恥ずかしくない美しい御令嬢に、この婆やがお育てしたのですからね」
冗談めいたことを言って慰めてくれる婆やの優しさに、余計に涙が止まらなくなってしまうのでした。
何故なんて、わかっているわ。
時間は戻ってしまったけれど、わたしには記憶があるのだもの。
殿下のお顔さえ写真でしか知らなかった時には戻れないもの。
恋をしたままだもの。
ようやく、というよりもう出発の刻限だからと半ば無理矢理に涙を引っ込めて、もう一度お化粧したわたしは、以前のように期待に胸を膨らませてとは違う気持ちで舞踏会の開かれるホーフブルク宮殿へ向かいました。
何度見ても眩いような美しい宮殿だわ。
一度目のわたしは舞い上がって目を奪われるばかりだったけれど、今はハッキリとわかるわ。
わたしなんて場違いよ。身分不相応だわ。何度も面と向かって、陰ではきっと数え切れないくらいにたくさん言われていたわ。
わたしがこんな華やかな宮殿にいるなんて、ましてや殿下と恋なんて。
わかっているのに。遠くに殿下が現れて、その姿が見えるだけでもう、目が離せないの。
殿下がにこやかに会釈されたり、軽く手を挙げたりされる姿を見つめ続けて、二度目のわたしは一度目よりもさらに病に冒されたように周りすら見えていなかったけれど、わたしだけではないわ、このあまりに広く煌びやかな装飾のなかで、殿下のお姿は一層輝くばかりで、招待客はすべてただの観衆となり、誰もが溜め息を溢さんばかりにうっとりとその一挙手一投足に心奪われていたわ。
何度目だって同じよ。わたしはまた夢中になるあまり無意識に少しだけ歩を進めてしまい、足元の僅かな段差に気付かずに躓いて、二度目のほうがずっとダメね、扇を落としてしまったのだわ。
思わず声を上げたわたしは慌てて扇に手を伸ばすのだけれど、先に拾ってくださる優しい白い手袋の手に触れてしまいそうになり、また慌てて手を縮めたの。
何度も繋いだり、頬や髪を撫でたりしてくださった、愛しい手だわ。
「どうぞ」
ああ殿下! 殿下が生きている……!
目覚めた時、もう二度とお会いできないと思ったわ。恋をして、お会いできない日にはもういっそ恋なんてしなければよかったのかしらとも思ったわ。
差し出された扇をわたしは受け取ることもできず、泣いてしまったのです。
あまりに恋しい、愛しいかたが、出会った時のまま微笑んでくださる、あまりに胸がいっぱいで、到底我慢することができなかったのです。
「……可愛らしいかた、泣かないで。ほら、ワルツが始まりますよ」
きっと殿下は、お声を掛けるだけで相手が感激して泣いてしまうなんてこと、日常茶飯事なのかもしれません。
あまり驚かれた様子もなく、一度目と同じようにまた、優しく手を引いてくださいました。
二度目でも、慣れないわたしをリードしてワルツを踊ってくださる殿下とのひとときが夢見心地なのは変わりません。
ふわふわと地に足がついていないように軽く、わたしでさえ流れるように優雅に見えるように導いてくださいました。
そして同じように観衆は、殿下の姿に見惚れる溜め息と、きっとわたしのことをヒソヒソと噂する空気で満ちているのでした。
「さぁどうぞ。今度は受け取ってくださいますか」
あっという間に一曲が終わってしまい、もう一度差し出された扇を申し訳ない気持ちで受け取ると、また一層、殿下は微笑みを深くされるのでした。
「美しい姫君、お名前は」
胸の高鳴りが苦しいくらいで、声を出すのがやっとです。
「マリー、と申します」
「……靴だけ残すシンデレラよりは易しい、かな」
殿下にふと笑われ、わたしははっとしました。
わたしったら、まるで成長していないわ。
あまりに気持ちが昂って、まるで小さな子どもみたいに名乗ってしまうなんて。
殿下は困ったように苦笑いをされて、また続けました。
「必ず、あなたを見つけよう。またね、マリー」
これで二回目だというのに全然成長していないなんて、自分のことながら呆れてしまうわ。きっと殿下も同じく呆れてしまわれたでしょうに、また優しく微笑んでくださるのまで、しっかり覚えているのに。
見つけ出すなんて……どうやって?
以前のわたしは期待と、もう二度と会えないのかもしれない、いいえ、その方が自然なのだわとかいう不安とか心配とか、これは優しい殿下の社交辞令のようなもので、そんなことなさる筈がないわとか後になって自分の勘違い振りを歎いたりもしたのだけれど、お言葉通りに三日後に、わたしにお手紙をくださったのだわ。
もちろん、ちゃんと覚えているもの、だから今回のわたしは他のことを考えてしまっていたの。
わたしは殿下が思っていてくださるように素直でも正直でもないわ。
ただおとなしくお待ちしていればいいのに、余計なことを思い悩んでいたの。
なぜ殿下は、わたしなんかを選んでくださったのでしょう?
どうして、ワルツを踊ってくださり、なぜ名前しか手がかりのないわたしをまた見つけて、お手紙をくださって、会ってくださったのでしょう? どうして、愛してくださったのでしょう?
わたしはお世辞にも美しいとは言えない容貌だわ。
加えてエリザベート皇后陛下……、殿下のお母様のようにヨーロッパ随一の美貌と謳われるかたを始め、美しい女性はそれこそ山程ご覧になっている殿下が、わたしを気に留めてくださるなんて、何か理由があるのではないかしら。
でも見た目以外を考えてみても、それこそなんの取柄もないわ。
そう、わたしにあるのは、ただ殿下をお慕いしているというこの心だけよ。
それもまさか初めてお会いした時から見抜かれるわけはないし、ただお慕いするだけなら、殿下のように素敵な貴公子を想う女性はやっぱり山のようにたくさんいるもの。
奥さまの皇太子妃殿下もいらっしゃるのに。
この恋は、純愛なんかではないの。殿下にはベルギー王国から嫁がれた王女さま、ステファニー皇太子妃殿下という奥さまがいらっしゃるのよ。
どれだけ考えてもわからないわ。殿下にお伺いするしかないかしら。あまりにもはしたなく、不躾すぎるけれど。
「必ず見つけると、約束したでしょう? マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢」
殿下の庭園にお招きいただいて、一回目よりは少しだけ和らいだ緊張感でお会いしたのだわ。ただお辞儀をするだけなのは、前と変わらないけれど。
こうしてお顔を拝見すると、すべての疑問もそして罪悪感も忘れてしまいそうになるの。
「……私は、ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン」
不意に丁寧に名乗っていただいたのに驚いて、会釈の姿勢から少し身を起こして、つい見つめてしまったわ。
もちろん存じております。名門ハプスブルク家にお生まれの、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子殿下でいらっしゃるということも。わたしがただの男爵家の娘だということも、身分違いだと痛いほどにわかっているわ。
「けれど、あなたにはルドルフと、ただ呼ばれたい」
なぜ、気が付かなかったのでしょう。
恋を夢見て、初めての恋に浮かれて舞い上がって、愛しいかたのこともちゃんと見えていなかったのかも知れません。
「……ルドルフさま」
ひとこと口にすると、またあなたは優しく微笑むのだわ。
忘れてしまいそうになるの。
あなたとわたしがどう考えても不釣り合いだということ、イヤというほど大勢に言われたけれど、そんなことはわたしが一番わかっているわ。
それに有り得ないことだけれど、ルドルフさまが皇太子殿下ではないとしても、ルドルフさまには美しい奥さまがいるのだわ。
これは、どんなに美しく着飾っても純愛なんかじゃない。どんなに取り繕っても、ただの不倫なのよ。それも一国の皇太子との。
「様も、いらないのだけれど」
あなたを思い描くとき。
あなたに会いたくても会えない日、恋しく思い描く時に真っ先に浮かぶのはこの優しい微笑みだったわ。
けれど、どうして気がつかなかったのでしょう。
なんて、なんて……。
寂しいお顔をなさるのかしら。
初めてお会いした時には、あまりの美しさにばかり気を取られてわからなかったわ……皇太子殿下がまさか、お寂しいだなんて、思いもしなかったわ。
けれど、再会した愛しいルドルフさまは、こんなにもひとりぼっちで、寂しさを堪えるような微笑みをされている。
そのことに、今更気づくなんて。
「どうしたの。泣かないで、可愛いマリー」
あなたを想うと、涙が溢れてしまうことがあります。自分でもおかしくて、理由はよくわからないけれど。
泣くだけなんて、子どもにもできるわ。
バカみたい、だけど涙が止まらないの。
せっかくお招きくださったルドルフさまを、困らせてしまうだけなのに。
両手で顔を覆って泣くわたしの髪を、ルドルフさまが優しく撫でてくださっているのを感じるわ。
ルドルフさまの、この温かい手が大好き。包み込むような落ち着いた低い声も、ほっとする微笑みも。
こんなにも愛しいかたが、わたしなんかと心中なんて、絶対にしてはならないわ。
いつまでも健やかで、いつか皇帝陛下となられる時に、決してお傍にいられないとしても。
恋に盲目なただの少女のままでは、せっかく時が戻ったのに同じ運命の繰り返しだもの。
今度は、この命、あなたを守る為に使わせてください。
「ルドルフさま、どうして、わたしを、」
どうして、わたしを見つけてくださったのですか。そして、愛してくださったのですか。
こんなことでは、一度目のわたしよりヒドイわ。
あの時はただ浮かれて舞い上がって、再びルドルフさまに、それも二人きりで会えたことにただ感激していたもの。
そのほうが余程、何も知らない、恋に恋する夢見がちな少女のほうがずっと、ルドルフさまには好都合だったはずよ。
わたしたちの関係はいつしか知れ渡り、もう二度と会うことができないよう、お父さまはわたしを修道院に入れようとなさったのだわ。
お父さまが意地悪をしたわけではないことはわかっているの。
逆らったりしたら、男爵家なんて一溜まりもないわ。
誰も味方なんていなかった。
わたしを最も邪魔に思っていらっしゃったのは、きっと皇帝陛下よ。
「あなたが、とても可愛らしいから」
「嘘です! わたしなんて……もっと大勢、ルドルフさまの周りには大勢の美しい女性がいる筈です! なのにおかしいわ、わたしなんかと、」
「美人は苦手なんです」
……えっ……つまり、
「し、失礼、いや、僕は、」
ルドルフさまの慌てるお顔、初めて見ました。
って、感動している場合ではないのかしら? 面と向かって、愛しいひとに“美しくない”と言われてしまったのだから。
男性は皆さま美しく綺麗なかたがお好きなものと思っていたわ、と驚いていると、平素の落ち着いたご様子からは想像がつかないくらい慌てたルドルフさまは、少し紅潮したお肌で早口になりながらおっしゃったの。
「あなたが美人ではないとか、そういうことではなくて……止そう。あなたには言い訳も嘘も吐きたくない」
ずっとご一緒に過ごした時でも、このようなお姿は拝見したことがなかったわ。
言葉を詰まらせ溜め息を吐くと、またいつもの落ち着いたルドルフさまに戻られました。
言い訳だなんて……むしろ幸運だと神様に感謝したくらいです。
わたしが美しくも綺麗でもないからルドルフさまのお目に留まったのだとしたら、この平凡な顔が喜ばしいくらいだわ。
「あなたが扇を落とした時……あるひとのことを思い描いたのです」
ルドルフさまは、そのあるひとの少女だった頃を見たこともないはずなのに、懐かし気に眼を細めていました。
「私の母が嫁いだばかりの頃、民衆の面前で足を踏み外し王冠を落としたことがあったそうです。母は今でこそ美貌の皇后と持て囃されていますが、自然豊かなバイエルンで伸び伸びと育ったお転婆娘だったそうですよ。私は幼い頃から母と共に過ごすことがなく、すべて聞いた話でしかないのですが……」
そこで少し思い直したように、話を変えるように付け足されました。
「あ、母は乗馬が得意なのですよ」
「まぁ! わたしも乗馬が好きです」
「それは素晴らしい。いつか一緒に出掛けましょう」
皇后陛下のことを心から懐かしく慕わしくお話しされるのに、綺麗な女性が苦手ということに結びつくのはなぜかしら。
どこかで気になりながら、ルドルフさまはこの話題を続けたくないのかしらという感覚もあり、深くお尋ねすることはできませんでした。
この日から、わたしはルドルフさまと何度もお会いしました。
想いはどんどん深くなるけれど、ルドルフさまがあまりに雲の上のおかただからか、罪悪感や、皇太子妃殿下への嫉妬心は感じなかったのです。
わたしはやっぱり子どもみたいだわとも思いますし、ズルくて悪い女だとも思います。
ルドルフさまがまさか本気で、わたしを愛してくださるわけがないわと、わたしは自分の恋心に自信がある反面、どこかルドルフさまを信じていなかったのかも知れません。
けれど時折見せるどこか寂しそうな表情を見ると、生まれつきこの世のすべてを持っているような、こんなにも恵まれているルドルフさまなのに、真に幸せとは思っていらっしゃらないのかもとは感じているのでした。
ある日ルドルフさまの応接室でお会いしている時に、急な軍議に出席しなければならないとのことでそのままお待ちしていたことがありました。
そこへ、ルドルフさまのご友人とおっしゃるかたが現れたのです。
そのかたは、ヨハン=サルヴァトールさまと名乗られ、わたしに会ってみたかったとおっしゃいました。
先日社交の場に出たばかりのわたしは失礼ながら初めてお聞きするお名前で、どういう身分のかたなのかとかはわかりませんでした。
「ほら、殿下が大層ご執心だっていうからさ。それも、今までとは全ッ然違うタイプ」
恋のお相手が他に何人いらっしゃっても当たり前のことだわ。
だって、ルドルフさまはあんなに素敵なかたなのですもの。
ルドルフさまは本当に、女性の憧れをすべて集めたようなかただわ。
身分や権力が、とかいう以前に、ルドルフさまご自身の魅力も、女性を惹き付けてやまないような要素で溢れているもの。
実際に皇子さまなのだけれど、まるで物語に出て来るプリンスそのものだわ。
優しく物静かで、穏やかで上品で。
けれど、どこか寂しげで。
わたしは二度目でやっと気づいたけれど、他の恋人さん達はご存知なのかしら。
もし、他のかたの前でも同じなら、今まで知らなかった妬み心のようなものが少しわかるような気がするわ。
「確かに、可愛らしいねー。皇后陛下とは真逆のタイプだ。あ、ルドルフにはナイショね。ゼッタイ怒られるから」
怒っていらっしゃるご様子なんて想像もつかないけれど、ルドルフさまとは旧知のお付き合いなのかしら。
ルドルフさまより年上で、随分深い関係みたいだわ……このかたなら、ご存知かもしれないわ。
「……あの、殿下は、綺麗な女性が苦手と、おっしゃったのです」
「ルドルフがそんなことを?」
「はい……皇后陛下と殿下は、あまり仲が、」
あまりにも失礼なことを訊いて、自分でも厭きれてしまうわ。それも初対面のかたに。
だって、この機会を逃したら……こんなことを訊けることなんて滅多にないことだと思うもの。ルドルフさまにお尋ねするわけにもいかないし。
ご存知ないなら、知らないと突っ返されるでしょうけれど、ご存知だとしても本当のことなんて教えてくださるとも限らないけれど。
でもサルヴァトールさまは、先ほどまでは、わたしを珍しいものでも見るような好奇の顔をなさっていたけれど、深く考え込んで沈んだ声でお話しされました。
「彼にとって皇后陛下こそ最愛の女性で、最も憎んでいる女性でもあるからね」
憎む……? 優しいルドルフさまが、お母さまである皇后陛下を?
ルドルフさまが皇后陛下のお話しをなさった時のお顔はとても穏やかで、そしてやっぱり寂しげで、憎んでいるようには到底見えなかったわ。
サルヴァトールさまは、ゆっくりと、わたしにもわかるようにお話ししてくださいました。
ハプスブルク家の帝王学は強烈だ。
生まれた瞬間から世継ぎとしての期待を一身に受けた彼に施された教育は、常軌を逸していた。
皇后陛下と引き離され皇太后殿下が手元に置いてね、約三十人もの家庭教師を付けた。
なかでもレオポルト・ゴンドレクールの教育は異常でね。
鞭打ちなんて日常茶飯事、冷水のシャワーに目覚めのピストル、夜中の森に置き去りにされたこともあったらしい。
皇帝陛下は容認していたらしいから、かつて陛下も同等の教育を受けていたのかもしれないね。
それに気づき激怒したのは皇后陛下だ。
宮廷でただひとりの男だと高名な皇太后殿下との不仲が発端で度々隙間風が吹いていた夫婦仲だったけれど、すぐに皇帝陛下に直訴したんだ。
息子を、ルドルフを返せとね。
闇から救ったのは最愛の母だったけれど、決して彼の理解者にはなり得なかった。
皇后陛下は常に旅をしていて、オーストリアにいることが稀だろう?
皇太后殿下が牛耳るウィーンを嫌って、宮殿を牢獄と呼んでいるくらいだからね。
狂王・ルードヴィッヒ二世を生んだヴィッテルスバッハ家の血だ、何よりも自由を愛し宮殿から逃げ回る皇后陛下には、息子を救う為に共に過ごす、愛するという選択肢はなかったんだ。
ルドルフにとって皇后陛下は、最上の天国の喜びと、最低の地獄の苦しみ、その両極端を与えることができる存在なんだ。
だから美しい女性が苦手。
母を思い出すからだ。
「……そうやって、ルドルフを落としたの?」
途端に意地悪そうな声で言われてハッとすると、わたしはまた泣いてしまっていました。
「ご、ごめんなさい……ッ」
すぐに泣いてしまうなんて、子どもみたいだわ。だけど、ルドルフさまのどこか寂しげな様子の一因を知った気がして、ルドルフさまのお気持ちを考えると、止まらないのですもの。
「でもね、こんな怪しい男の言うことを鵜呑みにしちゃあイケないよ。彼のことをちゃんと知りたければ、直接彼に訊けばいい。それが叶う君は、この世で稀な幸運の持ち主だ。他人の言うことより何より、彼自身の言葉を信じてあげてほしいな。世界は俺のようなウソツキばかりだからね。惑わされてはダメだよ」
不思議だけれど、言葉と裏腹、決して悪いひとやましてやウソツキだなんて感じませんでした。
子どものわたしの勘なんて、当てにならないのかもしれないけれど。
「教えていただいて、ありがとうございました」
やっとで涙を拭いてお辞儀する頭上から、またきっと、わざとなのかもしれません、意地悪に聞こえるような声で続けられました。
「彼の闇は、君の想像の何倍も深い。それでも、覗きたいと思うかな?」
「はい、殿下をお慕いしています」
「いいお返事だね。彼が羨ましいな。それではね」
ルドルフさまの心の根源にあるのは、皇后陛下への想いなのかしら。
それなのに、今はあまり仲が良いようには見えないけれど、由緒正しいお家柄のご家庭というのは、須らくそういうものなのかしら。
うちはお父さまもお母さまも厳しいけれど、それは愛ゆえにだということはよくわかっているわ、二人とも愛し合っているし、もちろんわたしも愛しているもの。
皇帝陛下は想像し難いほどにお忙しいでしょうし、皇后陛下はサルヴァトールさまがおっしゃったようにほぼ常に旅に出ていらっしゃるわ。
それにルドルフさまも、いつもわたしと会う時間を作ってくださるけれど、たまにお疲れのお顔をされているわ。
単に、それぞれがお忙しいから、なかなかゆっくりお話しする時間がない、という理由なら解決する方法はありそうだけれど、何か他にも理由があるのかしら。
ルドルフさまのどこか寂しげなご様子を取り除くには、皇后陛下とのご関係が良くなれば、なんとかならないかしら。
それは、一回目のわたしでは思いも付かなかったことだわ。
何もしないで恋に夢中になっては、何度繰り返そうと同じ道を辿るだけよ。
ルドルフさまとわたしの関係が、皇帝陛下にまで知れ渡り、お父さまがわたしを修道院に入れようとなさった。
二度と会えなくなるのを苦に、わたし達は心中する。
わたしはどうなってもいい。せめてルドルフさまだけでも、死を選んだりしてほしくないの。
そんなことを考えていた矢先でした。
なんということでしょう……皇后陛下のご所望で、わたしがシェーンブルン宮殿へ行くことになったのです。
珍しくウィーンに帰られた皇后陛下に、ルドルフさまがわたしのことをお話しされたのかしら。
わたしがいうのもおかしいけれど、皇太子妃殿下というかたがいらっしゃるのにそんなこと、ご自身からお話しなんてされるかしら。
なら、他のかたからお聞きになったのかしら。
そうに違いないわ。
でも、そうだとしたら、きっとヒドイ印象を持たれてしまっているはずだわ。
わたしが世間になんと言われているか、すべてではないけれど、少しは知っているもの。
ルドルフさまのような素敵なかた、それも皇太子殿下であるかた、そして奥さまのいらっしゃるかたと、わたしのようなたいして美しくもなく取柄もない、身分違いの女がなんて……と、ウィーン中から後ろ指を差されているような気さえするのだもの、皇后陛下はきっと呆れていらっしゃるわ。
もしかしたら、直接お叱りを受けるのではないかしら。
でもわたしの恐怖と心配とは正反対に、皇后陛下は輝くような笑顔でわたしを迎えてくださったのでした。
「まぁ、かわいらしい。さ、こちらへいらっしゃい」
緊張で何と言ったか覚えていない挨拶をしてお辞儀していたわたしの手を、皇后陛下は優しく引いて、ソファに掛けさせてくださいました。
傍にはルドルフさまも、いつものように微笑んでいてくださいました。
エリザベート皇后陛下は、写真や数々のスーベニアで何度も拝見したことがあるけれど、写真よりもずっと美しくて、スラリと背が高くてほっそりとした、お肌が真珠のように白くて綺麗で、ルドルフさまの端正なお顔と似ていらっしゃる、思わず見惚れてしまうような女性です。
皇帝陛下が本来お見合いする筈だった女性の妹である皇后陛下を一目でお見初めしたと聞いたことがあるけれど、無理もないわ、この美貌でそれも、こんなに優しくて溌剌とした女性なのですもの。
「乗馬をするのですって? ふふ、おてんばちゃんね。今度一緒に遠乗りにでも出掛けましょうね」
乗馬をする……真っ先にお話しくださった内容から、わたしのことを皇后陛下にお話しされたのはルドルフさまなのだわ、とわかりました。
家族とルドルフさましか、知らないことですもの。
「ね、マリー。きっと、そうおっしゃると思っていました。陛下はいつまでウィーンにいらっしゃいますか?」
前にルドルフさまにも言われたように、そんなことが叶ったら、ルドルフさまと皇后陛下がお話しできる良い機会になるのではないかしら。
「あら、私とマリー、女二人で行きましょう? 困っていることや、ルドルフのグチだってあるわよね? 何でも相談していいのよ」
「母上」
高い声で笑いながら冗談をおっしゃる皇后陛下に、ルドルフさまは困惑顔でしたが、サルヴァトールさまのお話しがまるで過去の話でしかないように、仲睦まじく見えました。
けれど反対に、初対面の、いち臣民でしかないわたしの前で本当の意味で気を抜かれることなんて有り得ないのだわ、とも思います。
そんなことを考えて、ルドルフさまも同じだとしたらどうしましょう、と暗い気持ちになってしまいそうでした。
初めてお会いしたルドルフさまが、またわたしを見つけてくださるとおっしゃった時と同じように、いいえ、実際は本当に見つけてくださったのだけれど、皇后陛下のお言葉も社交辞令のようなものでしょうとどこかで本気で喜びきれない想いがありましたが、お二人は似ているのかも知れません、皇后陛下の今回のウィーンご滞在中にそれは叶ったのです。
この時ほど、お父さまに習って乗馬をしていて良かったわと思ったことはないわ。
皇后陛下がおっしゃったように、女性が趣味としていると聞くと、お転婆だとかいう印象を持たれてしまうことがほとんどですもの。
共通の趣味がなければ、二度もお会いしてくださるなんて有り得ないことだと思うもの。
ましてや皇后陛下は、ウィーンにいらっしゃることさえ稀なお方で、ルドルフさまもいつもお忙しそうにされているのに。
まるで夢のようなことだと思ったわ。わたしがルドルフさまと恋をしていることから、元々夢のような話ではあるのですけれど。
そう、お出掛けする時は、お二人ともご一緒だったの。
むしろわたしがお邪魔かもしれないけれど、お二人がゆっくり同じ時間を過ごして、お話ししていただけるとても良い機会だと思ったわ。愛するひとのお母上である皇后陛下とまたお会いできることはもちろん、そのことがとても嬉しかったの。
皇后陛下もルドルフさまも、馬を扱うのに長けた第一級の騎手であるという評判は聞いたことがあったけれど、わたしなんかがいうことは烏滸がましいけれどお二人とも素晴らしかったわ。
お父さまが一番大事なことだとおっしゃっていたけれど、まさに馬を友人のように扱って、乗馬と馬を愛していらっしゃることが伝わってくるの。
それに皇后陛下が乗る馬は早駆けをするととても速くて、追いつけるものではなかったわ。
馬に負担を掛けたくないから体重を増やさないようにしているのとおっしゃっていたのも理由の一つでしょうけれど。
「マリーもとても上手だけれど、無理をしないように。ゆっくりついておいで」
尊敬の眼差しでつい皇后陛下を見つめてしまっていたのが、ルドルフさまにわかってしまったのかもしれません。
そうですね、焦ったりしたら馬に伝わってしまうわ。
優しいお言葉に甘えて、遅れてしまうかもしれないけれどがんばって付いて行こうと思ったのですが、ルドルフさまはしっかりわたしに合わせてくださって、それがとても嬉しかったのです。
実は名前を忘れてしまったのですけれど、到着した場所は小高い丘になっていて、少し離れた場所には大きな湖がありました。
わたしの心はどうしてもマイヤーリンクを思い起してしまい、ほんの少しだけ怖くもなるのでした。
「あなたのおかげね、マリー。ルドルフと出掛けるなんて、あの子の幼い頃以来だわ」
ヒソヒソと内緒話をする姿勢で、皇后陛下は口許に片手を添えてお話しされました。
近くで拝見すると、細い指先や長い睫毛の先までも美しくて、女のわたしでも胸が高鳴るのでした。
「あなたといる時のルドルフはまるで……少年のようね。よく笑って朗らかで。……実際の彼の少年時代は、とてもそんな風に過ごさせることができなかったから、あくまで想像だけれど」
束縛され、自由がなかった。
それどころか、子どもらしく遊ぶこともなく、恐怖と支配のみを与えられた少年時代……皇后陛下の手によって逃れたけれど、お母さまの居ない宮廷で、誰かに甘えることもなく孤独に過ごして……今からでも取り返すことはできないかしら。
「……ルドルフさまは、もっと皇后陛下とお過ごしになりたいはずです」
「そうかしら? あなたと一緒のほうがずっと幸せそうよ」
そんなことはありません。わたしに微笑んでくださる時も、ふと不安にもなるのです。
本当は、心まで、笑っていてくださらないのではないかしら、と。
「お二人で、私の悪口ですか」
「うふふ、そうよ」
また皇后陛下が冗談をおっしゃるので、ルドルフさまも困ったようなお顔で、でもやっぱり嬉しそうにも見えるのでした。
「マリー、不安なことがあるのなら、ちゃんと伝えなければだめよ。我慢をして良いことなんてひとつもないこと、私は身を以て知っているの」
これも聞いた話ですけれど、宮廷に入ったばかりの頃の皇后陛下は、田舎育ちと蔑まれ、皇太后殿下や貴族の方々からたくさんの嫌がらせを受けたそうです。
危険だからと、乗馬も禁じられていたのです。
皇帝陛下と結ばれる予定だったのはお姉さまの方で、皇后となられる運命が急に訪れたのですもの、その上で虐げられては、宮廷が嫌になってしまうのは当然のことだわ。
けれど、ルドルフさまは?
皇后陛下がまるで牢獄のようと感じていた宮廷に残されたルドルフさまは……。
思わずルドルフさまを見上げると、皇后陛下がわたしに不安があるとおっしゃったのを心配そうに見つめてくださっていたので、また涙が溢れてしまいそうになり、つい俯いてしまいました。
「ルドルフを愛してくれて、ありがとう。これからも仲良くしてやってね」
「は、はい!」
「母上、子どもではないのですから」
ルドルフさまがおっしゃるように、まるで子どもの頃によく遊ぶ友人に言うような表現に、後から考えると少し笑ってしまいそうになるけれど、皇后陛下の心に住むルドルフさまは、一緒に過ごすのが久しぶりとおっしゃっていたもの、もしかしたらずっと少年の姿をしているのかもしれないわ。
その後、皇后陛下はすぐにまた旅に出られました。
でもウィーンに帰って来られるたびにわたしと会ってくださるのを、世間の方々にはとても驚かれてしまいました。
皇后陛下と皇太子妃殿下はあまりうまくいっていない……というより、皇后陛下が嫌っていらっしゃる、という噂まであるそうです。
それに、ルドルフさまとお付き合いのあった女性の中で、皇后陛下とお会いになったかたはいない、とか。
世間の方々は、なのにどうして、ただの男爵家の娘が、と噂をしているらしいのですが……それはわたし自身が一番不思議に思っていることなのでお答えのしようもないのです。
そんな噂が広まるよりずっと前、遠乗りの後にお会いしたルドルフさまは、優しいけれど真剣な眼差しで、わたしに訊いてくださいました。
「何か不安なことや、心配ごとがあるのなら、私にすべて打ち明けてほしい。君が我慢をしたり、私に隠し事をしたまま共に過ごすのは、辛いだろう」
何度かお邪魔したことがあるルドルフさまの書斎で、膝に置いたわたしの手を両手で包むようにしてお話しされると、とても落ち着くような緊張するような、正反対の感情を同時に抱くのです。
皇后陛下もサルヴァトールさまも、直接ルドルフさまにお話しするようにとおっしゃっていたけれど、図々しいとか余計なことだとか、思われたり嫌われたりはしないかしら。
「私は……皇太子だから。何か悪いところがあっても面と向かって咎める者がいないのだ。……皇帝陛下くらいしか。だから、マリーを嫌な気持ちにさせてしまっているなら、教えてほしい」
「そんな! ルドルフさまにイヤなところなんて、ひとつもありません!」
どうしましょう、そんな風に思われてしまっていたなんて!
ルドルフさまのすべてが大好きで大切なのに……すべてを知っているなんて独り善がりの勘違いかもしれないけれど、それでもわたしが知っているルドルフさまに、悪いところなんてないのに。
また俯いてしまっていたのに急に顔を上げて、大きな声を張ってしまったからかしら、ルドルフさまは皇后陛下と同じくっきりとした二重瞼と長い睫毛の瞳を揺らして、とても驚かせてしまいました。
「ありがとう。……私はあるよ、マリーのいやなところ」
「ひっ……お、教えてください」
当然だわ。わたしなんて良いところを探すのが難しいような、欠点だらけの女ですもの。
今だって、急に息を吸ってしまって変な声をあげてしまったわ。
「教えて? そうしたら直すの?」
「はい! もちろんです!」
嫌われてしまったらイヤだもの。
どんなお叱りを受けるのかと身構えると、ルドルフさまはいつも通りの優しい眼差しで続けるのでした。
「我儘を言わないところ。君のワガママなら何でも叶えたいのに……私はそんなにも頼りないかな」
わたしは驚いて、返事をするのも忘れてしまっていました。
ワガママだなんて……こうして会ってくださるだけでも十分過ぎるくらいに嬉しいのに、これ以上のことなんて、何を望めとおっしゃるのでしょう。
「た、例えば……どのようなことでしょう」
「そうだね。例えば、何か欲しいものがあるとねだってみたり、もっと会いたいとせがんでみたり……あとは、他の女性と別れるように迫ったりとか、かな」
「そんなこと! ルドルフさまに言えません!」
他の女性は、そんなことをルドルフさまにお伝えしているのかしら、なんてつい考えてしまったわ。
つい大きな声を出してしまってから気付いたけれど、言えませんなんて言ってしまっては、実は心のなかでは望んでいますが言うことができませんと、伝えてしまったも同然だわ。
でも、本当は違うのです。
本当のわたしは、ルドルフさまが思っていらっしゃるよりもずっとずっとワガママで欲張りだわ。
皇太子殿下としてではない、ルドルフさまご自身のことを、もっと知りたいのです。
本当のあなた、寂しさや苦しみは分けていただきたいし、一度目の、愛するひとに死を選ばせてしまったわたしではできなかったこと、本当のあなたを理解して、愛したいのです。
身分違いも力不足も甚だしいのに、そんな欲張りなワガママを知られてしまっては、呆れられてしまうわ。
けれど、サルヴァトールさまも皇后陛下もおっしゃったように、直接ルドルフさまにお話しするのが一番良い……いいえ、唯一の方法なのかもしれないわ。
周りを探るようなことをしている今のわたしの方が、余程イヤな女にも感じるもの。
わたしの迂闊な一言は、わたしが懸念した通りの印象を持たれてしまったわ。
「私には言えない? 欲しいものも、もっと会いたいも?」
ルドルフさまは、まるで大事なものに触れるように、いつも優しく髪を撫でてくださるわ。
傲慢な女だと、嫌われてしまってもいいなんて覚悟、到底できてはいないのですけれど。
「欲しいものなら……あります」
「なんでも言ってごらん」
ルドルフさまはきっとなんでも叶えてくださるわ、わたしの欲しいものが、単なる物であったなら。
わたしは物なんて、何もいりません。欲しいのはひとつだけなのです。
「ルドルフさまはなぜ……いつも、少し寂しそうなお顔をされているのですか?」
わたしが大抵おかしなことを言うものだから、何度も拝見したことがある驚いたお顔とは違う、秘密が露見した、とでもいうようなお顔をされていました。
皇太子殿下たる者、弱みとでもいうようなものを他人に覚られるべきではないと、かつての厳しい家庭教師のかたはおっしゃったのかもしれません。
「……そう見えた? けれど、マリーと共に過ごしている時は寂しくないよ」
額にくちづけてくださるのを、初めて顔を背けてしまいました。まるで子どもがイヤイヤをするみたいだわ。
「ごまかさないでください! どうして、わたしを拒まれるのですか?」
またおかしなことを、くちづけを拒んだのはわたしだわ。けれど、そういうことを言いたいのではなくて。
「わたしは、ルドルフさまの本当のお心を知りたいのです。あなたのすべてを愛したいと……それがわたしの唯一の望みです」
お互いに真っ直ぐに見つめ合っていたから、ルドルフさまの双眸が暗く、次第に影が落ちていく様がわかったわ。
それは決して、喜びの色ではなかったのです。
「……魔法の時間はお終いだ。解けてしまったら、お別れをしなければならない」
わたしは極刑を宣告される罪人のように、俯いているのか見上げているのかもわからないまま、ただ真っ黒な世界で冷たい手が震えるのを感じていました。
「さようなら、マリー」
いいえ、喩え話なんて滑稽だわ。
わたし本当に、罪人なのよ。
奥さまもお子さまもいらっしゃる、皇太子殿下に恋だなんて、罰を受けても当然の報いだわ。
どうやってわたしの部屋まで帰ったのか覚えていないのだけれど、わたしはベッドの中でただ涙を流れるままにしておいたわ。
ばあやがいつも通りわたしを起こしてくれる声で気が付いたの。
二人の別れを悲しんでいるのは、この世でわたしだけだわ。
そうよ、わたしがルドルフさまと離れれば、ルドルフさまが得体の知れない女と心中事件なんて起こす筈がないのですもの。
もしかしたらわたしが時を越えたのは、わたしの過ちを正す為だったのかしら。
きっとそうだわ。
わたしが身の程を弁えない恋なんてしない為、一国の主になるお方の未来を守る為。
そのように、神様がお考えになったのだわ。
抜け殻になったこの身体を引き摺り、ルドルフさまにお会いする前のわたしとして生きればいいのだわ。
それがルドルフさまの幸せなのですから。
「お嬢様、大変です!」
わたしがあまり寝坊をするものだから、わざとばあやはこういう風に大袈裟に急かすことがあって、今日も真面目に受け止めたりはしなかったのだけれど、今回ばかりはもっと早く起きて身支度をしていなければならなかったわと後悔したわ。
だってまさか、ステファニー皇太子妃殿下がいらっしゃるなんて思いもよらないもの。
客間でお待ちいただいていた皇太子妃殿下はさらに驚くことにお一人で、あの日以来やっとまとも歩いたような心地のわたしにスラリと鼻筋の通った美しいお顔を向けたわ。
わたしは縺れる足で転がるように階段を降りて来たのもあって頭が真っ白になり、ご挨拶するのも忘れて立ち尽くしてしまったわ。
その様子を、同じように一言も発せずに眺める皇太子妃殿下の纏う雰囲気は、美しい貴人特有の高貴なもので、やっぱりエリザベート皇后陛下は良い意味で特別なのだわと感じたの。
「お、お初にお目にかかります。皇太子妃殿下にはご機嫌も麗しく、」
ここで、フイと顔を背けられてしまいました。通り一辺倒の挨拶を並べるわたしに、ご機嫌麗しいわけがないでしょうとでも言いたげに。
窓の向こうを眺めたままの姿勢で、皇太子妃殿下は独り言のように小さな声で言いました。
「……殿下の」
ルドルフさまとのことでお叱りを受けるのでしょうか。
どんな仕打ちを受けても文句の言いようもないことですけれど、わたしは寿命が縮むような想いでビクリと肩を揺らしてしまいました。
その様子に一瞬流し目を走らせてから、ゆっくりとした調子で続けられました。
「ご様子はいかがかしら」
どこか、お加減が優れないのかしら。
咄嗟にわたしは考えました。
皇太子妃殿下がわざわざ、おそらくお供の方々にも内緒でお越しになって、わたしなんかにお尋ねになるなんて。
けれどお役に立てそうにありません。
ずっと、お会いしていないのですもの。
「いえ……」
わたしには、わかりません。
この言葉もこれから続けるべき言葉も、簡単には口に出来ませんでした。
ルドルフさまとは、お別れをしたのです。
そのことを、ルドルフさまは皇太子妃殿下にお話しをされていないのだわ、だから妃殿下はここにいらっしゃったのだもの。別れたことを告げるのは、わたしとの噂を認めることにもなるからかもしれませんが。
いつでもルドルフさまのことばかり考えてしまうから、勝手にルドルフさまに何かあったのかしらと結びつけてしまったけれど、そうとも限らないわ。
なぜ、妃殿下はこのようなことを?
ルドルフさまは、わたしの前で一度も奥さまのことをお話しされなかったわ。
だからどんな女性かなんて、周りの噂どころか、世間一般の話しか知らないの。
皇太子妃殿下はおとなしい女性で、ルドルフさまとあまり打ち解けることはなく、仲睦まじい様子には見えないと。
けれどそれはあくまで噂に過ぎないのかも知れないわ。
愛がなければ、わざわざここまで来てルドルフさまのことを、ましてやわたしのことなんてきっと憎んでいらっしゃるでしょうに、お話しに来てくださるなんてなさらないはずですもの。
「あの……皇太子殿下とは、お会いしていません」
これでも、わたしなりに精一杯言葉を選んだつもりなのです。
お別れをしたのですとか、他にも言い様があったかもしれないけれど、どのように言っても藪蛇にしかならない気がするわ。
けれど、ルドルフさまのご様子を知らないとだけお答えしたままでは、隠し事や偽り事をしているみたいだわ。
だからなるべく正直にお話しするべきだと考えたのだけれど。
「……そう……あなたの為に私と別れたいのかと思っていたわ」
……ルドルフさま、どうして?
一度目のわたし達……心中を選んだわたし達の時に、ルドルフさまはわたしの為に奥さまとお別れするとおっしゃったわ。
わたしへのみの甘い夢物語ではなく皇帝陛下に申し出られて、それが陛下の逆鱗に触れ、会うことを禁じられたのですもの。
いいえ、陛下をお恨みなどしていません。
ステファニー皇太子妃殿下は、ベルギー王国の王女様。ハプスブルク家の習わし通り、国同士の繋がりの為に結婚したものを離婚なんて、ご夫婦やご家族同士のお話しだけで済む筈がないのですから、陛下がお怒りになるのは当然です。
けれど、二度目の今は、わたしとはお別れしたのに、何故皇太子妃殿下にそんなお話を? もしかして、皇帝陛下にもお話しされているのかしら?
普通の、ごく在り来たりの男女なら、他に恋人がいるのかしら、と考えるところでしょう。
けれど、ルドルフさまは、一国の皇太子さまです。
わたしは一度目の時も、心のどこかである考えが過ってはいたのです。
ルドルフさまはもしかして、皇位継承をされるおつもりではないのかしらと。
もうルドルフさまに直接お訊ねするなんてできません。
でもどうしても確かめたいのです。
あのサルヴァトールさまなら……ルドルフさまととても親し気にしていたからご存知かもしれないわ。
けれど、ルドルフさまにはもちろん、サルヴァトールさまにもお会いすることなんてできないもの。
ああ、とても、矛盾しているわ。
ルドルフさまが死を選んだのは、わたしのせい。
ならばわたしともう関わらなければ、ルドルフさまは長く幸せに生きていけるはずなのに。
出逢ってすらいないように、まったく関係のない他人としてこのまま抜け殻のように生きて行けば、愛するひとの命を守ることが今度はできるでしょうに。
身勝手よ、我儘がすぎるわ。
わたしは結局、ただルドルフさまが安寧に生きるよりも、叶うならその傍らにはわたしが寄り添っていたいと願っているのだわ。
こんな浅はかで欲深い女、ルドルフさまに愛想を尽かされても当然の報いよ。
また鬱々とした日々を暮らすなか、わたしも家族中も驚くお手紙が届いたのです。
それは、舞踏会の招待状でした。
差出人は当然、ルドルフさまではありません。お手紙をいただくことすら初めてのサルヴァトールさま。
一曲踊る、という名目で誘っていただいたわけではないことは明確だわ。
この舞踏会にはルドルフさまもいらっしゃる。
わたしを招待しないことを知ったサルヴァトールさまが不思議がって理由を問い質したのだと、舞踏会でお会いしてすぐのご挨拶で明かされたわ。
「遊び人のサルヴァトールからお呼びがかかったなんてヴェッツェラ男爵も大層警戒しただろうが、そういうわけだから安心していいよ」
とまで気を回してくださったわ。
確かにお父さまは、まさか断るわけにもいくまいと渋々送り出してくれたのですけど。
「ルドルフが君を手放すなんてね。ケンカでもしたの?」
絵画でしか見たことがない、かの鏡の間を思わせるような豪奢な広間で、くるくると花々が回るように、貴婦人たちのドレスがウィンナーワルツの調べに寄り添うのを眺めながら、壁を背にしたわたしたちは周囲を憚りながらお話ししました。
「変に個室に連れ込んで妙な噂になるのは申し訳ないからね、このままで話そう」
と、気遣ってくださるのが、自称・遊び人とはおっしゃっていたけれど、こうしてわたしなんかを気に掛けてくださるなんて優しいかただわと安心してお話ししました。
サルヴァトールさまは、わたしが皇后陛下とお話したり、乗馬のお供をしたことまでご存知で、そこまで気を許している筈なのにどうして、と不思議がっているのでした。
「殿下はただ、わたしがイヤになってしまわれたのだと思います」
思い出す、というよりもいつも胸を搔き乱すルドルフさまの言葉を反芻しては、こんなところで迷惑でしかないのに、つい目の前が涙で曇ってしまうのです。
サルヴァトールさまは声を詰まらせるわたしを急かしたり促したりせず、ただ黙って聞いてくれていました。
「……ルドルフさまの、本当のお心を知りたい、などと。身の程を弁えない高望みを口にしてしまったので、」
続けることができなくて俯くと、足元の大理石にいくつかの雫が落ちました。それでも見える世界はぼやけたままです。
つまらなそうに何か考えるように、ふーん、と間延びした相槌が遠くで聞えます。
妃殿下にお話しした時も今も、改めて口にすると本当に現実なのだわと実感します。ルドルフさまのおっしゃったように、愛された時間のほうがまるで魔法だったのに。
「厭になった……ってのはハズレだろうね。視線で殺されそうなくらいに俺を睨んでるから」
何のことかわからずについ見上げると、頬を涙が伝いました。
「わっかりやすいヤキモチ……カワイんだからな」
サルヴァトールさまはわたしの頬にハンカチをそっとあてて、優しい動作とは裏腹に意地悪そうに微笑むのでした。
「続きは踊りながら話そうか」
手を引かれて進む足が縺れそう。
そんな気分になれませんとか、情けないことを言っている場合ではないわ。
せっかくサルヴァトールさまに会えたのだから、訊かないと。
いつの間にか、最後のワルツみたい。
いいのかしら、こんな大事なダンスをわたしがご一緒して。
「あの……わたしの、思い違いかもしれませんが」
なんて的外れで無礼なことを言うのだと、咎められても当然なことだわ。
「ルドルフさまは、皇位継承をされるおつもりが、ないのではと」
優しく次の言葉を促すように穏やかなお顔だったサルヴァトールさまは、きっととても驚くと、怒られるかもしれないと覚悟していたけれど、不思議に納得したように頷かれました。
「……さすがは殿下のお心を捉えて離さないマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢」
皮肉かしら。やっぱり、怒っているのかもしれないわ。
「ユリウス・フェリックス、の名は知っているかな?」
初めて聞くお名前でした。
いいえと首を振ると、そうだろうね、と返された後、これまでのほうが余程人を憚るお話しをしていたのだけれど急に耳元で囁かれました。
「彼のペンネームだ」
その言葉に驚いて、けれど様々に考えを巡らせる余裕は、この時はありませんでした。
「……効き目ありすぎ」
何故なら、わたしの腕が、強く引かれていたからです。
見上げると、ずっと会いたいと、もう二度と会えないと思っていたルドルフさまがいたのです。
「最後のダンスは、唯一無二のひとと。おいで、マリー」
戸惑いと、嬉しさと、夢のような浮遊感。
本当に夢なのかもしれないと、繋いだ手に少し力を込めました。
けれど夢かと気を抜くと転んでしまいそう。
「上手だね。僕だけを見ていて、ずっと」
きっと周りのかたがたはまた口々に噂しながら、わたし達を見ていたでしょう。
けれどわたしは、ひたすらにルドルフさまを見上げるしかできないのでした。
導かれるまま優雅に見える動きでくるくる回る様は、まるでルドルフさまに翻弄されるわたしの心のようでした。
なぜ、またわたしと踊ってくださるのでしょう?
もうウンザリだとでも言いたげにわたしを拒否なさった唇で、また甘い言葉をかけるなんて。
ルドルフさまが何を考えていらっしゃるか、わからなくて不安です。
わたしはまた、さっきとは違う理由で涙を零すのでした。
最後のダンスを終えても夢の続きのように微笑むルドルフさまに、わたしは一言もお話しできませんでした。
言いたいこと、聞きたいことがたくさんあったはずなのに。
すべて忘れてしまったように頭の中が真っ白で、ただ涙が流れるのでした。
「勝手な真似をしてしまった。許してほしい」
わたしに許しを乞うなんて。そんなことしなくてもいいのです。
元よりわたしは決してあなたに罪を問うたり、罰したりはしません。
ただ、この心のみ、あなたに捉えられて、離れることを拒むのです。
まだ願いはひとつだけ、変わることなどないのですから。
それでも何も言えずにいるわたしの頬を優しく指でなぞるのは、愛されていると信じていた頃と同じように涙を拭いてくださる為でした。
「……あなたを、巻き込みたくはないから。すべてを話すことはできない。それでも……どうしても愛おしくて、どうかこのまま、傍にいてほしい」
ルドルフさまを、心から愛しているから。答えは承諾以外有り得ない。
けれど、気持ちのままに返事をしては、それでは一回目の過ちと同じなのです。
何も知らないままにただ傍らに、人形のように存在しているのではまた、わたしはあなたに死を選ばせてしまうのです。
せっかく二度目の機会を得たのですもの。
同じことの繰り返しは厭なのです。
半ば無意識のように、わたしは首を横に振りました。
見兼ねて気を遣ってくださったのでしょう、サルヴァトールさまがこちらへ向かって近づくと、ルドルフさまはすっと振り返り、広間から出て行ってしまいました。
わたしは単純で思慮が足りないから、あのひとときはもしかしたら、ルドルフさまはわたしを許してくださったのかと思ったわ。
いいえ、欲が深いから、あわよくば以前と同じように、また会ってくださるのでしょうかと高望みをしてしまっていたわ。
けれど違っていたのです。
それでも、諦めることは出来ません。
あなたを愛することを。今度こそしっかり本当のあなたを愛することを、決して諦めることは出来ないのです。
お父さまは物静かなかたで、お仕事の合間には書斎で本を読んでいることが多いのです。
だからわたしは、ひょっとしたらお父さまなら、ルドルフさまの筆名のこと、そしてその作品もご存知かもしれないと考えたのでした。
サルヴァトールさまがわたしに教えてくださったということは、ルドルフさまを知る上でその作品が重要な意味を持つのだと思います。
「お父さま、よろしいですか」
他の部屋と様式が違う、重厚な造りのドアをノックすると、読書中特有の聞こえるか聞こえないかくらいの返事がしました。
最近のお父さまは、わたしを見つめる時にいつも心配そうで、多分ですけれど、ルドルフさまのことでたくさんの心労を掛けてしまっているせいかもしれないのです。
そんなお父さまに、さらにこんなことを訊くのはとても残酷なことかもしれないけれど。
今のわたしには、酷薄だけれど、肉親よりも大切に想ってしまうほどのかたがいるのです。
「あの、ユリウス・フェリックス……という作家のかたをご存知ですか?」
実は面と向かってお話しするのも悲しいけれど久し振りのような気がするお父さまは、お髭の顔をハッキリと歪ませてその筆名に驚愕されていた様子でした。
「お前こそ……何故、その名を……?」
問われたとて、正直にお話しすることなどできませんでした。
ルドルフさまだけではなく、サルヴァトールさまとも交流があり、その名を聞いたことなど。
言葉を返すことができなくても、お父さまは驚愕のお顔は崩さないまま続けました。
「作家といっても、ただの小説家などではない。ユリウス・フェリックスとは、近頃多くの話題……反発と称賛を得ている、政治批判の論文を発表している著者の名だ」
政治批判。
つまり、ルドルフさまはお父さまである皇帝陛下の執政を批判している、ということでしょうか。もちろん正式に批判などできるはずがなく、筆名を名乗って、正体を偽って行っている……ということでしょうか。
現在の政治への不満と中傷……それが、断定できたわけではないけれど、皇位継承を拒む理由だと、そうサルヴァトールさまはわたしに伝えてくださったのでしょうか?
「誰に聞いたのだ? まさか皇太子殿下に、怪しい人物を探れとでも根回しされたのではあるまいな? いくら親密にさせていただいている仲とはいえ、危険な真似は止すのだ」
いいえ、お父さまのご心配とは、真逆のことが起こっているのかもしれません。
ルドルフさまが、急進派の渦中にいらっしゃるかもしれないのです。
「いいえ、そのようなことはございません。殿下は政のお話なんて全くされませんから。その名は噂で耳にしただけなのです」
半分が真実で、半分が嘘でした。
わたしといる時のルドルフさまは、皇太子殿下として振る舞われることは一切なく、ただひとりの温かく殊更に優しい恋人と振る舞われ、その身分や地位を危うく忘れてしまうように心安く接してくださり、政務でどんなにお疲れでもその様子を微塵も感じさせてすらくださいません。
けれどルドルフさま、もしも現在の治世にご不満をお持ちならば、ご自身がお世継ぎとして政を正せば良いのではないでしょうか?
それは余りにも単純すぎる考えでしょうか?
けれどそれが出来るのは、この世でただひとり、ルドルフさまだけではないのでしょうか?
やっぱりわたしは、もう一度ルドルフさまとお話しがしたいです。
一層疎ましいと、思われてしまうだけかもしれません。
もう二度と、微笑んでくださることすらないのかもしれません。
それでも、わたしのことを愛おしいと言ってくださったお心を信じたいのです。
わたしは決して上辺だけではなくて、本当のあなただけを想って生きていたいのです。
先日の舞踏会でのことを、お聞きになったのかもしれません。もう一度、ステファニー皇太子妃殿下がいらっしゃいました。
わたしは自分でも驚くくらいに大胆にも不躾にも、ルドルフさまに宛てたお手紙を妃殿下にお渡ししました。
ルドルフさまのお手許に届くことがないかもしれないお手紙だけれど、不仲だという世間の噂話と違って……妃殿下は心からルドルフさまを愛していらっしゃるように感じるのです。
だからこそ、烏滸がましくも恋敵であるわたしの元に二度もいらっしゃったのですもの、どんなことをしても、ルドルフさまの真実を知りたいというお気持ちがわかります。わたしも、同じですもの。
そんな妃殿下は、きっと届けてくださるはず。
身勝手にもそう信じてやまず、お手紙をお渡ししたのでした。
わたしからお誘いしたのは、一回目でも経験がない、初めてのことです。
場所は一度ご一緒してみたいと思い描いていた、大観覧車が懐かしくも美しいプラーター公園。
家族連れで賑わう場所に紛れて、お忍びでお会いしたいのですと、そこまでは書かずとも伝わると思います。
静かな個室で二人きりは緊張しますし、目立ってしまうと考えたのです。
わたしは、すんなりと現れてくださるわけがない、いいえ、無視されてしまうことも充分に有り得るのですから、何時間でもお待ちする覚悟でいました。
寂しくないようにとの行動で情けないけれど、ちょうど回転木馬を眺めるベンチに腰掛けていると、不意に背後から近づいて来たかたが隣に座ったのです。
ルドルフさまは帽子を目深に被ったお姿で、こんなところに皇太子殿下がいらっしゃるなんて誰も思いもしないでしょうが、やっぱり背が高くて身のこなしも美しいので、女のひと達の視線を感じざるを得ないのでした。
「妻に恋人からの手紙を渡されるなんてね。マリーは私を困らせるのが好きらしい」
「そっそんな……」
わたしがしたことながら、確かにとんでもないことをしてしまった気が今更だけれどするわ。
妃殿下も顔色ひとつ変えずに受け取ってくださったけれど、内心は怒りで煮えくり返っていたかもしれないわ。
「申し訳、ございません……お会いしたい一心で、」
「私のことを振っておいて? 初めてだよ、女性に袖にされるのは」
そんな! 振ってなんていません! あの時首を振ったのはただ、何も知らないままお傍にいるのが辛くて、あなたをもっと知りたいと望んだ為のものだったのに……言葉足らずのせいで大好きなかたに想いを疑われてしまうなんて。
「いいえ! わたしはただ、あなたを本当に心からお慕いしているのです。この気持ちに偽りはありません」
神様に、いいえ、あなたに誓って。
「そう? ……私はあんなに、酷いことを言ったのに?」
ふわりと頬に触れられると、はしゃぐ子ども達の声の遠くで、ルドルフさまの冷たい声が蘇ります。けれど。
「はい。永遠に、わたしの心はルドルフさまのものです」
帽子で隠れて、目許が見えません。けれどきっと、困惑で歪んでいたに違いないのです。
「だから……すべて知られないまま、離れようと。僕はきっと、君を連れていってしまう。それが、とても怖ろしい。愛されていい人間ではないのに」
深淵に沈むあなたと共にありたいだけではなく、あなたを、救いたい。
わたしはすぐに泣いてしまうけれど、ルドルフさまも、涙を見せてくださればいいのに。
「何をおっしゃるのです。……もしかして、自由民権運動のことですか」
お父さま……皇帝陛下に逆らうことに、罪を感じていらっしゃるのでしょうか。
意を決してお訊ねしましたが、ルドルフさまは少しだけ口許を綻ばせました。
「よく調べたね。公然の秘密というものなのに」
陰でコソコソ探るようなことをして、きっとルドルフさまは厭なお気持ちになっているわ。
けれど、何も知らないまま、ただ傍らにいるだけなんて、もう我慢できないのです。
「正直、戸惑っている。母上とのことや、政治思想のこと……ここまで踏み込んでくるひとなんていなかったから。苦手だよ、君みたいなひと」
また涙が、両眼から溢れてしまいそうでした。けれど今日は子どものように泣きたくはないのです。
「ユリウス・フェリックスの著作は、間違いなく私が記したものだ。私はかねてより急進派の民間人と交流をもち、この考えを皇帝陛下にも進言している。私が玉座を望まないのではなく、陛下が皇位継承を許さないのだ。当然、その覚悟でお伝えしている」
皇帝陛下となられてから、望み通りの治世をされればいいのに、というのは浅はかな考えでしょうか?
時勢とは常に動いているもの。
皇帝陛下は十八歳で即位されてから今でも頑健で英邁なかたでいらっしゃる……譲位まで待てない、間に合わない、というお考えなのでしょうか。
「なぜ、ルドルフさまがそのようなお考えを……」
皇太子殿下として一番身近でその政治と思想を受け継いでいるようなお立場のかたが、どうして?
「そうだね……きっかけは、母上ご推薦の家庭教師の影響だったかな。彼は強烈な自由思想の持主だから」
皇后陛下が幼いルドルフさまをお救いしてから付けた家庭教師……ということは、皇后陛下も同じお考えということかしら……いいえ、考え過ぎよね。
「……父上のお考えには納得できない。政治面でも、それに君とのことも」
ルドルフさまは一層苦し気に、遠くのほうを眺めるのでした。
「君と二度と会うことがないように、修道院へ入れるようにと。……堪えられない。もう、父上の言いなりは御免だ」
そう、陛下に告げられた結果、一度目は二人、マイヤーリンクでの自死を選んだのでした。
わたしはどうなってもいいのです。ただ、ルドルフさまには生きていてほしい。
「マリー、私と旅に出よう」
同じことの繰り返しのようで、全身が震える想いでした。でも行先が違ったのです。
「バイエルン……母上の故郷だ。ルートヴィッヒ二世陛下に誘われてね。友人として親しくしているんだ」
「……はい!」
何の疑問もなくわたしは、喜びと共に返しました。
皇后陛下の故郷で、親しいかたとお話しをして、もう一度皇帝陛下にお考えをお伝えするのはどうかしら。
親子ですもの、必ずわかり合えるはずよね。
ここで彼女……マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の日記は途絶えている。
彼女と、ルドルフ皇太子は宿泊先で何者かに暗殺されたからだ。
彼女は頭部を撃たれ即死。
ルドルフ皇太子は腕を斬り落とされるなど、争った形跡があった。
調査の為にこの日記を手に取ったが、少女の夢物語のようなこの書物には、何の手がかりもなかった。
ただ少女の純粋な愛だけが、綴られていた。
どうか、あなたを奪ってしまわないよう。
今度こそは間違わないよう。
神よ、どうか天上にてお導きください。
幼い頃に迷い込んだ闇深い森から救ってくれた、ただひとりの女性が、また僕に、捕まってしまわないように。
その為ならば、僕は何度でも、地獄へ落ちても構わない。
いとしの 了
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ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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