沖田氏縁者異聞

春羅

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第三章

第一話

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 文久三年九月二十日。快晴。

 “過激討幕派の不逞の輩に謀殺された”新撰組巨魁局長・芹沢鴨、その腹心・平山吾郎の葬式が、暗殺現場の前川邸で執り行われた。

 その場は隊士の鳴咽に包まれている。筆頭は、唯一の局長となった近藤勇。涙の溢れる顔での弔辞である。

 土方はひたすら、自然と口の端が上がるのを抑えていた。いくら自他共に認める演技派でも、それは容易な事では無い。

 近藤は指定するまでも無く、絵にでも書いた様な“無二の仲間を失った男”。

 いいや、本気で泣いている。勿論隊士達も。恐らく、暗殺に参加した試衛館派精鋭も。

「真の鬼は……俺だけか」

「……総司」

「なーんて、考えてました?」

 相変わらず、人の心を読む。

 子どもの頃から他人の家に居候をし、肩身の狭い思いをしながら、誰からも嫌われない様に必要以上に気を遣い続けてきた沖田には、土方に取っては厄介な特技が備わっていた。

「んなことねぇよ」

 無駄だとは知っているが否定しておく。すると、さっきまで声真似どころか顔真似までして眉間に寄せていた皴を伸ばし綻んだ。

「いいじゃないですか、鬼呼ばわり上等ですよ。僕達の大将は誠忠の人。進む道を守る為なら、何にだって成れます」

 そう、幸せそのものの表情で、土方の心をそのまま語る。

 わざと残酷な振りをして、いつのまにか独りで立ち回っている気になる土方を気遣う。

 “一人で鬼に成らなくてもいい”と。

 コイツに慰められてるのかよ。冗談じゃねぇな。

 悪態吐きつつ、とうに背を追い越した沖田を睨み見上げると、例のにやけ顔だ。

「油売ってねぇでお前の大将んとこに行ったらどうだ」

 並ばれると、他人より高い筈の背が低く見られる。

「はぁーい」

 顎の先で追い払うと、生返事をしながら遠ざかって行った。

 いつか。

 鬼の振りも馬鹿の振りも、笑った振りもしなくていい様に。

 そんな相手がお前にも出来たらいい。

 そんな風に、お前も生きろよ。

 土方は願いながら背中を見送った。

 だがこの時、気が付かなかった。

 遠ざかる子どもの頃から知っている背中が、微かな咳に揺れているのを。


 芸妓は昼間でも忙しい。お座敷の無い時間のほとんどを稽古に費やす。

「見てみい、月野天神のあの澄ました顔。あんなおぼこい風情で男はん二人も手玉に取るんやから、ほんま大したもんやなぁ」

 月野の置屋は特異なくらい、芸妓同士の仲が良かった。それも女将の人柄のおかげだろう。しかし、他の置屋の芸妓とは仇の様に啀み合っていた。

 今日の稽古で初めて会った女にさえ、喧嘩を仕掛けられる。

「ちょお、待ち! うっとこの月野は土方はん一筋や! 島原におってそんなことも知らへんの!」

 黙っていると、見兼ねた先輩芸妓が如何にも土方と月野の仲が公認の様に……事実はともかく実際有名だったが、庇った。すると他の置屋の芸妓が翻す。

「なんも知らへんのはあんたらの方やで!」

「同じ新選組の沖田はんと居(お)るとこ、明里が見たんや!」

 月野の顔色が変わるのを感じた先輩芸妓は、問いたげに腕に軽く触れ、背に合わせて軽く屈んだ。

 それにも構ってられない程に、浅ましくも思った。

 土方さまにも、知られてしまうかもしれない、と。

「ええなぁ。昼は沖田はん、夜は土方はんに可愛がってもろて。あの女嫌いの沖田はんもタラシ込んだんやろ? 一体どんな手管使ってはんにゃろなぁ。教えてほしいわぁ」

 そして別の心は、総司さんはタラシ込まれるとかそんなひとじゃない、と怒りに震える。

「……教えたかて、あんたにはできひんやろ」

「ッなんやてぇ!」

「イキがるんは、うちより売れてからにしい。明里はん」

 “初めての印象は最悪”

 誰かと一緒の、明里との出会いだった。


 部屋に戻ると、いつ頃かと同じ流し目と台詞に迎えられた。

「会いたかった、月野」

「わたしもです。土方さま」

「なんだ、今夜は素直だな」

 この、普段の澄まし顔からは想像も付かない様な笑顔に出逢うと、訊きたかった総てのことが吹き飛ばされそうだった。

 新選組の芹沢局長が討幕の志士に寝込みを襲われ、斬殺された。と、いう知らせは程なく京市中に広まっていた。

 芹沢さまを殺したのは、あなたですか?

 わかっているのは、沖田が芹沢を斬ったこと。

 沖田は決して私怨で斬った訳ではないこと。

 あの騒がしさから、暗殺を企てて実行したのは複数の人だということ。

 恐らく新撰組隊士。

 恐らくそれを指示できるのは局長もしくは、副長の土方。

 土方が直接指揮を執っていなくても、計画は確実に知っていたであろうこと。

 そして……その場に居合わせた月野を、沖田が斬ろうとしたこと。

 もしかすると、今夜土方が来たのも、目撃者である月野を口封じに殺す為なのかもしれない。

 何もかもを、訊いてしまいたかった。

 でも土方の素振りを見ていると、月野を殺そうとしているとはどうしても思えない。

 知っているなら、土方さまは必ずわたしを斬るだろう。

 足げく通ってはいるけれど、所詮はひとりの遊女。

 土方さまは情で斬れない様な甘さは持ち合わせていないのだと、よく知りもしないながらも確信している。

 だからこう考える方が自然だった。

 土方さまは、知らないのではないか。

 総司さんが芹沢さまを斬った瞬間を、わたしが見ていたことを。

 そう思うと訊けなくなった。

 命が惜しいというよりも、黙っていた沖田の気持ちを考えると、しようとしている行

 為がひどく無神経だと思った。

「機嫌がいいと思ったら、今度は眉間に皺寄せて黙(だんま)りか?」

「……っごめんなさい!」

 ハッとすると、苦い顔で土方は笑った。

「新撰組を大きくするには、誰かが鬼にならなきゃならねぇ」

 不意に呟く、初めて見せた心の内だった。

「俺がなってやる。……だから月野、俺の“人間の心”は今日からお前に預けるよ」

 視線を捉え、微笑んだ。

「捨てちまっても構わねぇ。……好きにしな」

 心底新撰組を思い、大きくしようとしている土方に尊敬を憶えた。周りも見えなくなりそうな境の無い愛情は、子を想う母親に似ている。

 ……でも、“鬼に”だなんて……。

「……捨てたりなんかしません。あなたの心はわたしが大事に持ったまま、あなたの目が届く処にあります。だから土方さまは、ちゃんと“人間”ですからね!」

 その両手を取って涼しげな切れ長の双瞳に入り込むと、土方は吹き出して、大きな声で笑い飛ばした。

「ッもう! 真面目に言ってるのに!」

 出来るありったけの優しさを込めたつもりで添えていた手で軽く叩くと、輪をかけて笑った。

 知らないッこんなひと!

「許せ。“人間”ってのは、嬉しいと笑っちまうもんだ」

 そっぽを向いた頭を、ポンポンと軽く撫でた。

「……にしても、つくづく総司に似てやがる」

 土方に触れて触れられた所がいつまでも暖かいように、その名を聞くといつまでも

 ……同じ所が冷たく抉られるようだった。


 放たれた密偵達の報告の為、指示者・土方の部屋に山崎が入ると、沖田と二人、将棋を指していた。

「ホントですか! 山崎さんっ」

「……ええ」

 副長直の命を受けに来る監察の山崎よりも頻繁に、それも長い時間この部屋に訪れている様子の沖田は、普段なら山崎が来る頃には気を利かせてか……というより予知している様にふらりと姿を消していたのだが、今日は何故かこの場に居て、まるで少年さながらの素っ頓狂ともいえる声を上げた。

 だがこの後すぐに出動になるのでは、と予感していたのかとつい深読みすると薄ら寒い。

「やはりな……奴ら来てやがったか」

 さきの政変後、京から追放された長州藩士が遂に討幕の意志を固め、新撰組の密偵から見れば下手な変装で京に潜り込んでいるという噂を確信した土方は、本来“同士”であるという新撰組の中で“部下”のつもりで従っている山崎でさえゾッとする程の不敵な笑みを浮かべた。

「場所は押さえてあるんだろうな」

 そう訊くまでもなく

「枡屋が怪しいかと」

と付け足した。

 ただの古道具商にしてはやけに人の出入りが激しく、毎日のように大荷物が……恐らく武器が運び込まれていた。

「総司、新八に連れて行ってもらえ」

 クソ真面目な顔で、一番・二番隊長が出る程の重要な調査捕縛を命じる土方に、沖田は

「お祭りみたいに言うんだからなぁ」

と、からから笑った。

 どういう神経の持ち主なんだこの二人。

「祭だろう? 新撰組の名を売り出しだ」

 既に将軍から、近藤は大御番頭取と呼ばれ手当五十両、土方は大御番組頭で四十両、隊長格は大御番組で三十両、平隊士でさえ十両の給金を頂き、京市中取り締まりの役目と斬り捨て御免の特権まで得ていたが、この男にとっては全く足らないらしい。

 常に身軽な沖田が早速部屋を出ようとすると土方は先程とは違う、本当に真面目な顔付きで呼び止めた。

「お前何だ? その咳」

「あー……夏風邪みたいです」

 癖でカリカリと頭を掻きながらもしっかり笑顔で振り返る沖田に安心したようだ。

「ああ。お前アレだからな」

「バカって言いたいんですかッ!」

 “犬も喰わないアレ”な雰囲気で和む孟夏。

 元治元年の祇園祭直前。

 その史上、頂寸前の新撰組、上り坂の昼下がりだった。

 
 平服で屯所を出る沖田と永倉を呼び、隊服に胴まで付けた武田観柳斎がしたり顔でやって来た。

「私も参りましょう」

 わざわざ“新撰組”の看板掲げて騙し討ちする気か。

「武田さぁん。こんな仕事あなたにお願いするなんて申し訳ないですよぉ」

 愛想のいい沖田に永倉が囁く。

「そんな近付くなって」

 武田は甲州流軍学を学んでいたので学者好きの近藤に気に入られ、新参ながらも永倉らと同等の地位を得ていた。

 大した腕が無いからかおべっかが巧い上、男のケツを追っかけ回すと言ってもいいくらいの明確な衆道家でほとんどの隊士に嫌われている。

「野郎、手柄を取ってまた近藤さんに媚びる気だぜ」

 明らかに苛つく永倉に比べ、沖田は特に嫌ってはいない風だが、さりげなく“来なくていい”と言っているのが見え見えだ。

 永倉は追い返す時間すら惜しいというように丁寧に言った。

「武田さん、来ていただけるなら隊服を脱いで下さいませんかねぇ」

 しかし顰めっ面のままである。

 沖田はその言葉を意外そうに眺め、気持ちを悟られないようにか

「あ。胴も外して下さいね」

と、当たり前のことを付け加えて切り替えた。

 道中どうやって証拠を掴むか話し合いながら、というより武田に言い聞かせながら歩いた。

 でなきゃ正面から

「新選組の御用改めだ!」

などと宣言しそうだ。


 店の中に向かって総司がへらっと声を掛けると、人の良さそうな顔の男が

「はいはい」

と出てきた。

「すみませぇん。ちょっと刀を見たいんですがぁー」

 武田はどうだか疑問だが二人は気付いて居る。刀を見繕っている手に、ずんぐりと竹刀胼胝がある事に。

「あのぉー。もっと他のも見たいんですけどぉ……」

 沖田は両手を顎の辺りで合わせ、女顔負けの上目遣いで“おねだり”の格好をとる。

 その姿に絆されてか沖田を中に入れる“店主”を、永倉は阿呆だなあと眺めた。

「どのような刀がお望みで?」

「菊一文字則宗みたいな細身の名刀がいいですねぇ」

「そりゃあ大変ですわ」

 互いに暢気な会話を交わす。この役は、いろんな意味で沖田にしかできない、とは永倉の談である。

 その期待に応えるべく、“店主”が手を畳に付いた時の脇の隙間、腕を差し入れて引き倒した。思ったより大きな音がしたのを合図に、二人が一斉に踏み込む。

 手早く家捜しを始めた武田が、鬼の首でも取ったように高らかに声を張り上げた。

「これが動かぬ証拠だ! 新撰組屯所まで同行願おうか」

 得意満面で指さす先には、大量の刀剣、銃、火薬……戦支度そのままの準備があった。喜べないことだが、作戦は成功。急いで屯所に帰る道すがらに沖田は呟いた。

「あれだけたくさんあっても無いものですねぇ……菊一文字」

「たりめぇだろ。ありゃあ、殿様のお飾りだ」

 苦笑いを返しながらも永倉は思う。

 いつからだ?

 この余裕が気味悪く感じるようになったのは。


「ご苦労だったな」

 そう一声労うと土方は、捕らえた男の居る土蔵へ向かった。

 内は凄まじい拷問の真っ最中。

 力自慢の島田魁らが、手厚く灸を据えていた。

 蒸し暑い密室を、血反吐、汗、肉の膿む臭いが覆う。

 人間のそれとは信じられないくらいの悪臭に顔を歪めた。

 一定の律動で据えられる、ささくれ立った竹刀の鞭打つような、肉を切り裂く音が耳に付く。

 ちっとも口を割らないこの男に、島田は情けないと自責しながらも、こっちが参りそうだ。

「どうだ島田?」

 ガラリと扉が開くと、この光景に顔を顰めもせず平然と土方が入ってきた。

「申し訳ありません! コイツ、一言も……」

「後は任せろ」

 息を切らせた言葉を最後まで聞かず男の前に出た。

 その涼しい立ち姿を、男は剛胆にも上目で睨む。

 幕府に立ち向かう者の気性の激しさとはここまでかと、感心する程だ。

「……五寸釘と、百目蝋燭だ」

「……はッ?」

 何に使うのか、という顔で島田は見返す。

 これから始まる拷問にと決まっている。どう使うのか。この疑問が正しいだろう。


「島田さぁん? どうしたんです、そんなに慌てて」

 渡り廊下をバタバタ走っていると、沖田が声を掛ける。

 屯所内であっても一切着崩さずに袴を穿いている反面、腕にはどこから連れてきたのか……いや付いてきたのか、真っ黒な子猫を抱いている。

「副長に、釘と蝋燭を持ってくるよう言われまして……」

 すると、

「ふぅん」

と喉を鳴らしながら黒猫を撫でた。

「怖い話でもするんですかねぇ?」

 くすくす笑う仕草を見上げた胸の中の猫は、気持ちよさそうにすり寄っていた。

 沖田には見せたくないような例え悪事でさえ、俺がやらなければ誰がやるのだと土方は思っていた。


「吊し上げろ」

 土蔵の天井から縄を垂らし、そこに男を逆さまに吊せとの命令だ。

 打たれ果てて血塗れの襤褸雑巾のようになった躯が、力無くフワリと宙に上がる。 瞑目し歯を食い縛る顔が赤く濁ってゆく。

 若い平隊士達はポカンと口を半開いて、加害者でもなく被害者でもない“傍観者”を装った顔で見上げた。

 土方だけは全く別の顔で見上げ命ずる。

「足の裏に釘を打て」

 暑過ぎる筈のこの世が、一息で冷たく凍り付いた。

 人間の足裏の肉に、釘が食い込んでいく。獣のような男の呻き。

 外の猛暑にも関わらずじっとりと暗い蔵での、恐らく人生最初で最後に聞くであろう耳に残る音が、こんな時だけは集中してずっと聞いていたい蝉の“さえずり”に混ざる。

「よし。釘に蝋燭を置け。火ぃ点けろ」

 何が“よし”なのだろう。

 ――……

 副長は自らも隊士も“武士”たらんと厳しくしているが、あんなこと……真の武士には出来やしない。

 “百姓”だから出来るんだ。

 ――……

 いつか平隊士が陰口叩いた科白が、島田の心を語るように脳内に蘇った。

 正に地獄の罪人と鬼だった。

 声にならない嘔吐きを漏らし、平隊士達はその場で膝を付く者や蔵の外へ出ていく者などばかりで、平気な顔をしているのは“鬼役”だけだ。

 勿論、拷問に耐える男の形相は壮絶なものだった。釘の上の蝋燭が、トロトロとその脚を伝う。

 灼熱になった蝋が、血が止めどなく流れ続ける傷口に入り込んでいく。

「どうだ? 話す気になったか」

 ここにいる誰もが見る勇気は持てなかったが、きっと今の土方の顔はこうだ。

 毒気のある、怖ろしく美しい笑顔。

 道具商・枡屋喜衛門に扮した男の名は、長州藩士・古高俊太郎。苦しい息で漏らされた恐るべき計画。それはこの国をひっくり返す程の所行だった。

 強風の夜。京の街に火を放ち、その隙に乗じて今上帝・孝明天皇を拐かし長州にご動座いただく。さらに京都守護職である松平容保を謀殺。そして新撰組屯所の焼き討ち。 

 今夜は祇園祭の宵宮。既に、外は夏季の盆地特有のじっとりとした風が吹いていた。

 流石の土方も無表情ではいられず、ありありと強張らせる。

「クソ野郎共が」

 口には出さないが、全身がそう吐き出している。

「奴らどこに居やがる」

 古高は話す気力さえ無いかの様に、力無く首を横に振った。

「とっくに仲間売ってんだ。今更気にすんな」

 ある意味気持ちいいくらいの“悪役”っぷりだ。

 だが土方はもう、男・古高に同情する心も図らずも自分を責める心も消えていた。

 事は急を要する。愚図愚図していては、京は火の海だ。

 その火炎の脅威には、京の市民、京都守護職、さらに帝が晒される。

 拷問に耐えようが武士道がどうだろうが、この一大事には代えられない。

「……っ知ら……ないのだ……。本当に……」

 これだけ吐かされても天井から吊されたまま蝋燭の火も毒々しく灯り、蝋が足首から臑、腿まで伝っていた。

 大の男が悲鳴を上げ、涙を流して。その果ての殆ど息だけの掠れた声。

「腹に溜め込むと体に悪ィぞ?」

 欠片もその言葉を信じず、直も責めた。

「副長、遅くなりました! 丹虎……若しくは池田屋に、浪士潜伏の気配が!」

 山崎の一声で、古高は一時的に救われた。

 
 近頃身体の調子が思わしくなく、伏せっている山南の意見はこうだ。この状態では屯所を出ることすらできないだろう。

「丹虎とは……浪士の定宿と聞く。やはりそちらが怪しいでしょう」

 学者肌の山南とは何かと馬の合わない、と隊士から思われている土方が、ギョロリと目を光らせた。

「いや、池田屋じゃねぇか?」

 山南の意見に逆らいたいのか、単なる勘か……どちらとも取れる。

 しかしこの男の勘は恐ろしく鋭い。

「斎藤くん、会津・桑名藩にご報告し、軍の手配を頼んでくれ」

 近藤に名を呼ばれ、斎藤はこの気まずい部屋を後にした。
 

 長年の太平を貪った、かつての武士。その退廃を、節々に見る。

「では即刻軍議を開く。斎藤、しばし待たれよ」

 それではどうにも遅いことさえわからないのか。

「いえ。先に赴き、“いつまでも”お待ちしております」

 そう一礼し、斎藤はまた早馬で駆けた。
 

 既に日は落ち、市中は強風に揺れる。

「土方くん!」

 この穏和な学者剣豪が苦手だ。

 同じ副長職でありながら、水鏡を眺めたように正反対なこの男が。

 土方が自分を嫌っている、と勘違いをしている空気が伝わってくるがそうではない。

 苦手なだけだ。誤解を解こうとしない土方も土方だが、それが“土方らしい”。

 短い軍議を終え、出陣の矢先を呼び止められた。

「すまない……こんな時に出られないなんて、私という者は本当に……」

 情けない、とでも言いたげな表情を手でひらりと制し、土方には似つかず本気で思ったことを口にした。

「気にしちゃいけねぇ。第一、屯所に残ってもらうのも作戦の内だ。奴らここに攻めてくるぜ? あんたが居てくれなきゃ困る」

 言った本人も気色悪いくらいイイ奴風だが、本心なのだから仕方が無い。折角の“極甘土方”空しく山南はすまなそうに、それでも微笑した。

「ありがとう……。くれぐれも気を付けて。敵は、思わぬ処にも居るかも知れないから」

「あんたも。いざという時は寝てようが糞曳いてようが、新撰組を守ってくれ」

 珍しく羽織っていた隊服を脱いだ。平服で別々に屯所を出て予め革胴や鎖帷子を運んである集会所で準備する、との計画の為にした事でありつまり、心は既にこの大舞台の楽屋に馳せていた。

 思わぬ処にも敵が居るかも知れない。

 土方顔負けの鋭敏過ぎる勘を、深くも考えずに。

 この夜は、彼にとって初めての“天を恨む日”だった。

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