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第四章

勝利の代償

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「これで本当のさよならだな、みつき。あの世で母さんによろしく」

 その言葉が自分の父親のものであると、栗丘は認めたくなかった。

 体の痛みから逃れるかのように、意識が朦朧としてくる。
 視界が霞んで、目の前にある父の顔がよく見えない。

 カチャリと音がして、こめかみに銃口を突きつけられたのがわかった。
 今度こそ、これで終わり。
 絢永はおそらく気を失っている。
 御影もそろそろ限界だろう。
 誰も助けには来ない。

「父さん……」

 結局自分は、父との約束を果たせなかった。
 ギュッと目を閉じ、やがて来る衝撃に備える。

 ドン! と辺りに轟音が鳴り響いた。

 だが。

(……あれ?)

 自分の心臓は未だ、うるさいほどに早鐘を打っている。

 まだ、意識がある。

 人間は死んだ後もしばらくは聴覚が残る、なんて迷信めいたものを聞いたこともあるが、これがそうなのだろうか。

 恐る恐るまぶたを上げてみると、ぼんやりとした父のシルエットが薄闇に浮かび上がる。
 そして、こちらに伸ばされていた左手の先——つい先程まで銃を持っていたはずのその手は、今は何も握っていなかった。

 むしろ、指が一本足りない。
 人差し指が根本からもげ、そこからボタボタと鮮血が滴っている。

「……なに?」

 父もまた呆然とした様子で、自らの左手を見下ろしている。
 やがておもむろに視線を横に向けたかと思うと、その先に広がる薄闇の奥を凝視した。

「あれっ。当たった? 外れた? どっち?」

 どこからともなく、そんな声が聞こえた。
 場違いなほど間の抜けた、愛らしい声。

 栗丘もわずかに首を動かしてそちらを見ると、二十メートル以上は離れた場所に、銃を構えるマツリカの姿があった。

 どうやら彼女が発砲したらしい。
 床に転がっていた銃を拾ったのか。
 一体どこを狙って撃ったのかはわからないが、その弾丸は奇跡的に、父の人差し指ごと拳銃を弾き飛ばしたのだった。

「……貴様」

 それまで余裕綽々しゃくしゃくだった父の様子が豹変した。
 血走った目で、視線の先のマツリカを捉える。

 さすがに両手を負傷したとなると、銃の扱いは難しい。
 さらには出血も酷く、このままでは父の体自体が駄目になる恐れもある。

 あきらかな殺意を孕んだ彼はそのまま足を踏み出し、彼女のもとへと迫る。
 マツリカは標的がいきなり自分になったことで動揺したのか、足をもつらせて尻餅をついた。

「逃げろ、マツリカ!」

 栗丘は痛む体に鞭を打って上半身を起こし、片膝を立てて再びを銃を構える。
 だが、やはり右腕がうまく動かない。
 震える腕では照準が定まらず、視界もぼやけている。
 下手に発砲すればマツリカに当たるかもしれない。

 このままでは間に合わない。
 どうすればいい。
 焦りばかりが先行する中、視界の隅で、白い光がぼんやりと膨れ上がるのに気づいた。

 見ると、栗丘のスーツの胸ポケットから、強い光が漏れている。
 そこからにゅっと顔を出した白い獣は、全身が眩い光に包まれていた。

「キュー太郎? お前、なんで」

 白いふわふわの体を持ったそれは式神であり、御影の力がなければ動かないはずである。
 しかし今まさに限界を迎えようとしている御影が、それを使役できるほどの力を残しているとは到底思えない。

 栗丘の目の前で、光を纏った彼女は胸ポケットから飛び出すと、小さな足で地面を蹴り、勢いをつけて父の元へと迫る。

 その時やっと、栗丘は気づいた。

(見える……)

 キュー太郎の視界が、栗丘にも見えている。
 風を切り、父親の背中へと向かっていく彼女の目が、栗丘の目とシンクロしていた。

 ——式神の作り方はけっこう簡単でね。対象となるあやかしの体に、霊力を込めた術者の血を一定量注ぎ込めばそれで完成する。

 御影の言葉が、脳裏に蘇る。

 思えば栗丘は、この白い獣から何度も血を吸われていた。
 つまりキュー太郎の体には、少なからず栗丘の血が注がれているのだ。

 ——栗丘くんも、気が向いたら練習してみるといいよ。実際に使役してみればあとは感覚で覚えられると思うから。

 彼の言っていた通り、式神を使役する感覚というのが、手に取るようにわかる。

 視界はどんどん加速する。
 やがて栗丘瑛太の真後ろまで迫った白い獣は、栗丘の意思に従って体を何倍にも巨大化させ、鋭い牙の生えた大口を開けた。

 すんでのところで気づいた父は、振り返りざまに背を反らせてギリギリのところで難を逃れる。
 胸元を掠った獣の牙が、ネクタイを食いちぎる。
 そうして一度は取り逃がしたものの、獣はさらに巨大化して、細長いその胴体を敵の体へと巻き付かせていく。

 まるで蛇が獲物を捕らえるかのごとく、栗丘瑛太は拘束された。
 さすがの彼でもこれには歯が立たないようで、初めて焦りの表情を見せる。

 今しかない、と栗丘は銃を握る手に力を込める。
 相変わらず照準はふらふらとして定まらない。

 この機を逃せば、おそらく勝ち目はない。
 銃を握る手が汗で滑りそうになる。

 そんな栗丘の両手を、後ろから伸びてきた別の手がそっと支えた。
 驚いて見ると、いつのまにか背後には絢永の姿があった。
 彼は栗丘の小柄な体を後ろから包み込むようにして、銃を握る手を力強く固定させる。

「絢永……」

「覚悟はいいですね、栗丘センパイ」

 最後の確認とばかりに絢永が聞く。

 記憶の中で、父が微笑む。

 ——必ず、俺の息の根を止めてくれ。

 栗丘は一度深く息を吐いて、それから意を決して言った。

「ああ。もちろんだ」

 相棒の手に支えられながら、父の心臓に狙いを定める。

「さよなら、父さん……!」

 震える指に力を込め、一気に引き金を引く。
 直後、腹の底まで響く轟音とともに、運命を分ける弾丸が飛び出した。

 弾道は一切の迷いを見せることなくまっすぐに伸び、霊体であるキュー太郎の巨体をすり抜けて、実体である父の胸の中心を貫く。

 人間としての急所。
 心臓を撃ち抜かれるその刹那、霞む視界の中で、父がわずかに微笑んだように、栗丘には見えた。

 カッと強い光が広がったかと思うと、次の瞬間には、父の体は光の粒子となって消えていった。

 その場に残された栗丘は、父との約束を果たした事実を噛みしめながら、静かに涙を流した。
 
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