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第二章

あっちの世界に連れてって

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 とんでもない力で足を引っ張られ、栗丘はたまらずその場に尻餅をつく。
 そのままずるずると部屋の奥へ引きずり込まれそうになったところで、咄嗟にドア枠を掴んで持ち堪えた。

「ハラ……ヘッタ……、血…………」

「お、おいマツリカ! 何やってる! 早くこいつを撃ってくれ!!」

 ただでさえ老朽化の進んでいるドア枠は今にも朽ち果てそうである。
 栗丘はなんとかそこにしがみつきながら必死に叫ぶが、当のマツリカはぽかんとした顔のままその場に突っ立っていた。

「うっそ。ほんとに『ひらいちゃった』」

 まるで信じられないものでも目にしたように、彼女は放心状態になっている。

「マツリカ、頼む! 銃を抜いてくれ!」

 尚も栗丘が叫ぶと、彼女はやっとその声に反応して視線を向けた。
 だが、

「うるさいなぁ。囮は黙っててよ」

「…………は?」

 予想外の冷たい返事に、栗丘は固まった。
 床に這いつくばったままの彼の体をまたいで、マツリカは部屋の中へと入っていく。

 扉の向こうには完全な闇が広がっており、栗丘の足を掴んでいる白い腕も、肘の辺りまでは見えるがその先は闇に包まれている。
 そんな暗がりの先へとマツリカは右手を伸ばすが、その指先は何か見えない壁のようなものに押し返されてしまった。

「やっぱり、『こっち』からじゃ行けないか。『あっち』から引っ張ってもらわないと」

 何やら深刻な面持ちで彼女は呟いていたが、栗丘はそれどころではなかった。

「マ、マツリカ。お前、どういうつもりだ? まさか俺をめたのか?」

 ここにきて初めて事の重大さに気づいた栗丘は、困惑しきった目をマツリカに向ける。
 彼女はにんまりと満足げな笑みを浮かべ、その唇の隙間に小ぶりな八重歯を覗かせて言った。

「自分から囮になるって言ったのはあんたでしょ? あたしはそれに便乗しただけ。あたしはただ、『門』の向こう側へ行けたらそれでいいの」

 彼女がそう話している間にも、栗丘の足は引っ張られ続けている。
 彼が必死にしがみついているドア枠も、みしみしと音を立てて限界を訴えていた。

「だ、だめだ、もう……っ」

 栗丘の腕もこれ以上は無理だと悲鳴を上げる。
 マツリカはそんな彼の前にしゃがみ込むと、耳元で甘く囁いた。

「もう諦めて引きずり込まれちゃいなよ。あたしも一緒に行ってあげるからさ」

「何……?」

 額に脂汗を滲ませながら栗丘が顔を上げると、

「あたしは『あっちの世界』に行きたいの。二人一緒なら怖くないでしょ? ……ほら、連れてってよ。あたしを」

 言いながら、彼女はドア枠にしがみつく栗丘の指を一本一本伸ばしていく。

「や、やめろ! 何考えてんだお前!!」

 彼女の言う『あっちの世界』というのがどんな所なのかは知らない。
 けれど、あやかしが力ずくで引きずり込もうとしているその場所が安全であるとは到底思えなかった。

 栗丘の抵抗もむなしく、指はどんどんドア枠から外されていく。
 さらには暗がりの先からもう一本の白い腕が伸びてきて、栗丘の肩をがっしりと掴んだ。

 もうだめだ、と本能が告げる。
 ドア枠から全ての指が離れるその瞬間、マツリカは嬉しそうに栗丘の上半身に抱きついた。
 そのまま二人そろって闇の中へと引きずり込まれていく。

 もう助からない。
 自分はなんて浅はかな行動を取ってしまったのか——そう後悔する頭の片隅で、栗丘はつい、起こるはずのない奇跡を期待してしまう。

 誰も助けに来るはずはない。
 それでも、

「助けてくれ……——絢永!」

 彼なら何とかしてくれるのではないか、と。
 極限状態で咄嗟に浮かんだのは、あの生意気な後輩の顔だった。

 バシュッ! と何かが勢いよく発射される音が聞こえたのは、その時だった。

 直後、それまで栗丘の体を引っ張っていた二本の腕が急激に力を失っていった。

「二人とも、今のうちに早く逃げてください!」

 続けて聞こえてきたその声に、栗丘はハッとする。
 見ると、部屋の前の廊下にはいつのまにか、見慣れた黒スーツの青年が銃を構えて立っていた。
 すらりとした長身に、嫌味なほど整った顔と美しい銀髪を持つその人物は、まさに栗丘がつい今しがた求めた生意気な後輩で間違いなかった。

「絢永、来てくれたのか!? でもどうして」

「説明は後です! とにかく今は一刻も早くその場から離れてください!」

 絢永はそう言いながら部屋の前を離れ、廊下の端にある非常階段を目指す。
 栗丘も、肩と足に絡みついた白い腕を払い除けながら廊下へと這い出る。

 その際、白い腕の手首の辺りに、見覚えのある札が貼り付いているのが見えた。
 おそらくは絢永が放ったものだろう。
 しかし、札はやがてじりじりと煙を立ち上らせたかと思うと、みるみるうちに表面が焼け焦げていく。

(まずい……!)

 このまま札が焼けて完全に剥がれてしまえば、二本の腕は再び暴れ出すだろう。
 栗丘は未だ自分の体にしがみついているマツリカを無理やり引き剥がすと、半ば体当たりするようにして彼女を絢永とは反対の方向へ突き飛ばす。

「きゃっ!」

 彼女が短い悲鳴を上げて廊下に倒れ込んだのと、札が完全に焼き尽くされたのはほぼ同時だった。

「やい、あやかし! 俺はこっちだぞ!」

 栗丘はそう挑発すると、そのまま踵を返して絢永のいる方角へと駆け出す。
 二本の腕は再び動き出すと、手首の長さを何倍にも伸ばして、迷わず栗丘の後を追った。
 
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