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第1章
夜の中庭で
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慣れない松葉杖での移動は、思っていたよりも時間がかかった。
中庭へと辿り着く前に、いつしか少女の歌声も聞こえなくなってしまっていた。
もしかすると入れ違いになるかもしれない。
そう思いはしたものの、それはそれで少女が無事に病室へ戻ったということだから、特に問題はない。
けれど、もしも彼女が別の場所で歌っていて、誰にも見つけてもらえないまま、その場で倒れてしまっていたとしたら――そう思うと、やはり不安は拭えない。
どうか中庭にいますようにと祈りながら、烏丸の足はついにそこへ辿り着いた。
月夜の中に浮かび上がる、大きな桜の木。
桃色の花びらはほとんど散り終え、すでに葉桜を通り越して緑の木と化したそこに、申し訳程度の照明が当てられている。
辺り一帯、静かすぎるそこには誰もいない。
と思いきや、桜の木の足元――照明の当てられていない、月の光さえも届かない暗がりで、何かが動いたような気がした。
もしや、と思った。
さらに耳を澄ませてみると、かすかに何者かの息遣いがする。
それも正常ではない、あきらかに違和感のある、苦しげな息遣いだ。
烏丸は背中に冷やりとしたものを感じながら、松葉杖を使い、出来うる限りの速さでそこへ駆け寄った。
桜の木の足元。
以前あの少女が歌っていたその場所に、一人の少女がうずくまっていた。
「あんた、大丈夫?」
どう見ても大丈夫ではなかったが、烏丸は咄嗟にそう声を掛けた。
小柄な身体に、緩いウェーブのかかった長い髪。
見慣れた病衣の上から薄いカーディガンを羽織ったその子は、やはり烏丸の知るあの少女で間違いなかった。
両手で胸を押さえ、ひゅうひゅうと肩で息をしている。
小さく丸まったその背中は、ひどく衰弱しているように見えた。
「……っ……て……」
「え?」
乱れた呼吸の合間に、少女が何かを訴えようと声を漏らす。
うまく聞き取れず、烏丸は彼女の口元に耳を寄せた。
「……手……にぎって……」
「手を?」
やっとのことで、彼女の言葉を拾い上げる。
手を握れ。
まさかの要求に、烏丸は唖然とする。
「手を握れって……別にいいけど、そんなんでいいの? それより誰か呼んできた方が……」
どうしていいものかわからず、烏丸がキョロキョロと辺りを見回していると、少女は自ずから、震える右手でおもむろに烏丸の手を取った。
烏丸が驚いて視線を戻すと、少女はもう片方の手で胸を押さえながら、薄っすらと涙を浮かべた目で彼を見上げていた。
「……へいき。じきに、おさまるから……」
少女はそれだけ言うと、再び俯いて、浅い呼吸を繰り返す。
烏丸は悩んだものの、少女の言葉に従って、黙ってその場に留まることにした。
両手で彼女の手を包み込み、じっとそばで見守る。
それからしばらくして、呼吸はやっと落ち着いたようだった。
頃合いを見計らって、烏丸は改めて声を掛けようと思ったが、それよりも先に、唐突に口を開いたのは少女の方だった。
「……私、癌なの」
「え?」
ぽかんと口を開けたままの烏丸の顔を、少女はゆっくりと見上げた。
「喉の、下の方に出来る癌。症状が出にくい場所らしくて、声が掠れたりする頃にはもう手遅れなんだって」
そう言った彼女の声はか細く、わずかに掠れていた。
「ほら、私の声、ひどいでしょ?」
聞かれて、そんなにひどいだろうかと烏丸は首を傾げる。
もとの声がどんなものだったかはわからないが、掠れてこれなら、本来は鈴の音のような美しい声だったのかもしれない。
「手遅れってことは、もう助からないってこと?」
「そうよ」
残酷な事実を、少女は躊躇いもなく肯定する。
その堂々とした振る舞いは、すでに覚悟を決めた人のそれだった。
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