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第一章 白神健
枕元に母が立つ
しおりを挟む夜明け前に目を覚ますと、いつも母が枕元に立っている。
暗い部屋の中。
布団の中から恐る恐る視線を上げると、そこにいる母は和装の喪服姿で、瞬きをしない目をじっとこちらに向けてくる。
お前が死ねばよかったのに──。
そんな怨みの声が聞こえてくるようだった。
けれど母は、何も言わない。
黙ったまま、ただそこにいるだけ。
その静けさが、俺は何よりも怖かった。
《二〇一九年四月十二日 愛媛県松山市》
それが、今朝は違った。
いつものように気配がして目を開けると、まだ暗いはずの周囲はやけに『白い』。
(……なんだ?)
朝の光ではなかった。
何か、靄のかかったような。
不思議に思いながら、そこからわずかに視線を上げると、
「――……っ!」
その『白』の正体に気づいて、背筋が凍った。
目が合った。
視線を上げた先で、ぎょろりと血走った目がこちらを見下ろしていた。
母だった。
俺の鼻先が触れるか触れないかという所に、見間違えるはずのない、母の顔があった。
「! ッか……っ」
堪らず吐き出そうとした悲鳴が、喉の奥でつっかえた。
母の痩せ細った白い手が、俺の首をしっかりと掴んでいた。
その尋常ではない握力が、俺の呼吸を遮断する。
(殺される……!)
そう直感した恐怖心から、鼓動は高鳴り、全身から汗が噴き出した。
足をばたつかせ、呻き声を上げると、その騒ぎを聞きつけたのか、父が慌てて部屋に入ってきた。
「健!」
父が叫んだのは俺の名だ。
呼ばれる度に、この名はかつて母が付けてくれたのだということを思い出す。
父には母の姿が見えていない。
その証拠に、駆け寄ってきた父は母の身体をすり抜けて、俺の両肩を掴んだ。
瞬間。
母は水が蒸発するかのようにして、その場から姿を消した。
殺意の手から解放された気道へ、急激に酸素が入り込んでくる。
そのあまりの勢いに、思わず咳き込んだ。
「大丈夫か、健」
「父さん……」
涙の膜が張った視界の先で、父の安堵する顔が見える。
助かった……。
けれど、一瞬の安堵の後にやってくるのは背徳感だけだった。
また、生き残ってしまったのだと。
「……やっぱり、俺が死ねばよかったんだよな?」
そう俺が聞くと、父はすぐにその意味を解して眉を顰めた。
「また、見えたのか」
「見えた。……いたんだ。母さんがそこに。俺の首を絞めて、殺そうとした」
「違う。それは母さんじゃない。母さんは死んだのだから」
「本当にいたんだって!」
父はいつも信じてくれない。
こうして俺が殺されそうになっても、幻覚を見たのだと言うばかりだ。
「今日は学校を休みなさい」
「なんで。俺がどこにいたって、母さんは俺を見張っているのに」
「ギルバート様を呼ぶ。お前はもう限界だ」
「!」
その名を聞いて、肩が震えた。
『ギルバート様』は最後の手段だ。
彼に会うときは、命の危険を覚悟しろと言われている。
「……なんだよ。幻覚だなんて言う割には随分と弱気じゃないか。やっぱり祟りなんだろ? 俺はもう助からない。母さんに殺されるんだ」
「違う。母さんは祟り神なんかになったりしない」
「じゃあ、さっきのあれは何だったんだよ!」
父は否定するばかりだ。
見えもしないくせに、なぜそんなことを言うのか。
しかし今さら信じてもらえたところで、きっと、俺はもう助からないのだろう。
先祖代々受け継がれてきた、白神家の祟りに取り殺されるのだから――。
★
母のことは嫌いじゃない。
むしろ、生前の母のことは大好きだった。
小さい頃の俺は、いわゆる『ママっ子』だったはずだ。
なのに今は、――怖くて仕方がない。
縁側に腰かけて庭の桜を眺めていると、背後から足音が近づいてきた。
力なく振り返ってみると、そこには父の姿があった。
「今、本家と連絡が取れた。すでにギルバート様がこちらに向かっているそうだ」
いつのまにか部屋着に着替えた父が、どこか緊張した面持ちでそう言った。
太陽はすでに高い位置まで昇っているが、俺はまだ寝間着の作務衣姿のままだった。
『ギルバート様』が来るとなれば、この格好のままではまずいだろう。
彼に会うときは、必ず正装に着替えるようにと言いつけられている。
それが親族間での決まり事だったから。
「母さんを退治するのか?」
俺が聞くと、父は黙った。
けれど、あの人を呼ぶということは、そういうことだ。
白神家の中でも並外れた霊能力を持つ『ギルバート様』は、祟りを起こす元凶――『祟り神』を鎮めるためにやってくるのだから。
彼には俺も一度だけ会ったことがある。
十一年前、ちょうど母が死んですぐくらいの頃だ。
そのときは確か、父が祟り神に憑かれて、それを『ギルバート様』が祓いに来てくれた。
当時の俺はまだ五歳だったから、具体的なことはよく覚えていない。
『ギルバート様』の姿さえ、ほとんど霞がかっている。
ただ、彼の持つ大きな瞳が日本人離れをした色だったので、それだけがやけに印象に残っていた。
「……お前は、母さんがお前を殺そうとすると思うのか?」
やっとのことで口を開いた父の言葉は、やはり俺を疑ったままだった。
今朝のあれがもし本当の母だとしたら、俺を殺すはずがないだろう――と、そう言いたいのだろう。
けれどあのとき、俺は確かに首を絞められたのだ。
あんな至近距離で見た顔を、見間違えるはずがない。
俺はわずかに語気を強めて反論した。
「だって、今朝は実際に殺そうとしてたじゃないか。母さんは俺を怨んでるんだ。だから殺しに来たんだ。でも――」
そこまで言って、俺は頭を抱えた。
「……でも駄目だ、母さんを退治するなんて。悪いのは俺なんだから。俺が死んで詫びるのが道理なんだ。でないと母さんは、いつまで経っても報われない……」
脳裏で、後悔の記憶が過る。
母の青白い顔。
病気がちな身体。
その弱々しい身体に鞭を打つように、幼い俺はいつも『抱っこ』をねだっていたのだ。
母の容態も知らずに。
「……旦那様」
と、今度は玄関側の廊下から、メイドの声が届いた。
「本家の方がお見えです」
「もう来たのか?」
あまりの早さに、父は驚いていた。
電話を切ってから、まだ数分しか経っていない。
たまたま家の近くまで寄っていたのだろうか。
でなければ、さすがにこの短時間で、本家のある姫路からこの松山まで来ることは不可能だろう。
「急いで着替えなければ。お客は居間の方へ通してくれ」
そんな父の指示にメイドが頷くよりも早く、思わぬ方向から返事があった。
「急ぐ必要はありません。ギルバート様はまだ眠っていますから」
「!」
庭の方からだった。
一瞬前までは誰もいなかったはずの方角だ。
俺と父が驚いて目をやると、庭の中央――桜の木のそばにいつのまにか、一人の少女が立っていた。
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