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第二章 白神桂
生きていたい
しおりを挟む「桂は、どうしたい?」
彼女は私に選択を迫ります。
その瞳は無垢で純粋で、まるで善悪の概念すら持ち合わせていないように感じられました。
「桂。わたしは、桂の心を守りたい。桂が寂しいのなら……死にたいのなら、今すぐここで殺してあげる。心が死ぬのは、身体が死ぬよりもつらいことだから」
その言葉に、彼女のすべてが集約されているような気がしました。
「わたしは、殺すことでしか桂を救えない。桂は、どうしたいの?」
「……私は……」
私が言い淀んだとき、私の手を、きゅっと桜さんが握り締めました。
振り返って見ると、彼女は不安そうな瞳を揺らして、私の顔を見上げていました。
私に生きてほしいと言ってくれた彼女の思いが、私の中で確かな熱を帯びていくのがわかりました。
生きるべきか、死ぬべきか――揺らいでいた私の意思が、彼女の光に導かれて、本当の心を取り戻していきます。
「私は……」
もしも許されるのなら、
「生きたい……です」
それが、私の答えでした。
生きていたい。
桜さんと、一緒に。
「本当に?」
ハーベストが聞きました。
「本当です」
「どうして? 桂が生き延びれば、桜は死ぬんでしょ? それでもいいの?」
ハーベストは青い炎に包まれたまま、不思議そうに首を傾げます。
私が死ぬか、桜さんを殺すか――その二択はかつて、追い詰められた私の心が勝手に運命付けたものでした。
「桜さんは死にません。私が死ぬ必要もありません。どちらかが必ず死んでしまうというのは、私が勝手にそう思い込んでいただけなのです」
私は懺悔をする人のように、過去の自分の誤った考えを白状しました。
「私は祟りを怖れるあまり、現実が見えなくなっていたのです。本当は、誰も死ぬ必要なんてなかった。生きていたいと願うなら、堂々と生きていればよかったのです」
私が言い終えると、ハーベストはしばらく何かを考えるように沈黙して、やがて再び口を開きました。
「……じゃあ桂は、生きていくんだね。これからも、桜と一緒に」
私は頷きました。もう、迷う必要はどこにもありません。
「わかった」
ハーベストはそう言うと、再び刀を持ち上げました。
「ハーベスト……? 何をするのです!」
すかさず手を伸ばしましたが、間に合いませんでした。
彼女は鋭い刃の切っ先を、自らの胸に突き立てました。
恐ろしい切れ味を持った刃は、彼女の小さな胸を貫いて、背中側に飛び出しました。
血は一滴も出ませんでした。
代わりに、彼女の全身を覆っていた青い炎が、力尽きたかのように一斉に蒸発しました。
「……さよなら、桂」
力なく呟いた彼女の蒼い瞳は、寂しそうに下を向いていました。
「わたしはもう、必要ない。桂には……桜がいるから」
「ハーベスト!」
私は桜さんの手を振り切り、床に膝を付くハーベストに駆け寄りました。
「桂!」
私の身を案じた桜さんが、背後から私を呼びました。
けれどハーベストにはもう、何の力も残っていません。
崩れ落ちる彼女の身体を私が抱き寄せると、首の座っていない赤子のように、彼女は項垂れていました。
「桂は……」
か細い声で、彼女は言います。
「小さい頃から……よく泣いていたね。人間の友達がいなかったから」
言われて、私の脳裏には過去の光景が蘇りました。
私には、友達と呼べるような人間はいません。
祖父の自殺や祟りのことで忌み嫌われ、避けられていた私は、幼い頃からいつも独りでした。
「もし、わたしが人間だったら、桂を守ってあげられたのに……ごめんね」
「ハーベスト。私はずっと、あなたに守られていました」
孤独に泣いていた私のそばには、いつもハーベストがいました。
彼女はいつだって、私の冷え切った心に寄り添ってくれていたのです。
「桂……」
彼女は最後の力を振り絞り、顔を上げ、必死に首を伸ばして、
「しあわせに……」
私の耳元で囁いた、その刹那。
まるでシャボン玉が弾けるかのようにして、彼女の小さな身体は消えてしまいました。
その場に残された刀だけが、乾いた音を立てて床に落ちました。
「……ハーベスト?」
彼女はもう、影も形もありません。
ささやかな温もりだけが、私の腕に残っていました。
「……まさか、祟り神が自殺するなんてなあ」
と、どこか感心したようにギルバート様が言いました。
「祟り神が、自らの意思を持って動くこともある……か」
「ど、どうなったの? 助かったの……?」
背後で桜さんが言いました。
私はもう何も考えられませんでした。
その場に蹲り、先ほどまでハーベストの存在していた空間を抱き締めて、ただ嗚咽を上げることしかできませんでした。
★
私がやっと落ち着いた頃には、すでにギルバート様の姿はありませんでした。
代わりに、仏壇に供えてあった菓子――東京ばな奈(キャラメル味)がなくなっており、『土産としてもらっていく』という旨の書置きだけがそこに残されていました。
私は数々の非礼を彼に詫びなければいけない立場でしたが、書置きを読む限り、それらは菓子で清算してくれるとのことでした。
不思議な人でしたが、どうやら悪い人ではなさそうです。
家の外ではいつのまにか雨も上がって、今朝の雷雨が嘘のように、今は高く澄んだ青空が広がっていました。
すべてが嵐のように過ぎ去って、平和な午後がやってきました。
屋根の上では小鳥がさえずり、それがあまりにも長閑だったので、私はつい、今朝のことはすべて夢だったのではないか――とさえ思いました。
けれど、家のどこを捜しても、ハーベストの姿は見当たりません。
試しにその名を呼んでみても、返事をする者はありませんでした。
胸にぽっかりと穴が空いたような気がした私は、ふらりと縁側の方に出ました。
すると、庭のコスモスが目に入りました。
この季節になると必ず咲く花。
淡く色づいたそれらは所々に雨露を残して、陽の光を受けてきらきらと光っています。
この花を見る度、私は家族の死を連想していました。
けれどもこれからは、ハーベストを思い出すことになるのかもしれません。
彼女がいなくなった日のことを。
彼女が祟りを終わらせてくれたことで、私と桜さんは生き永らえることができたのです。
私は一度コスモスの前にしゃがみ込むと、その群れの中から純白の一輪を摘み上げて、それから玄関の方へ向かいました。
下駄箱の上には十体ほどのフランス人形が座っていました。
どれも古びたものでしたが、最も色褪せたものは祖母の一番のお気に入りです。
金髪碧眼に白いワンピースを纏ったその人形は、ハーベストの姿を彷彿とさせます。
私はその人形の前に花を置いて、胸の前で手を合わせました。
そして、
「桜さん」
家の中に向かって声を掛けました。
「ちょっと、墓参りに行ってきます」
十月二十九日は、父と、祖父母と、愛犬の命日です。
彼らの眠る雑司ヶ谷霊園へと足を向けようとしたとき、
「待って。あたしも行くわ。あんた一人じゃ心配だから!」
と、二階から元気な返答がありました。
ほどなくして慌ただしい足音が聞こえ、桜さんはすぐにやってきました。
その顔はどこか晴れやかで、まるで憑き物が落ちたかのように、私の目に映りました。
彼女と二人で、これからも生きていく──。
ハーベストが遺してくれた未来に、私は心の底から感謝しました。
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