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1巻
1-1
第一章 化け猫と夜桜
子どもが泣いていた。人通りの多い道の端にうずくまって、華奢な両腕で抱いた膝に、顔を埋めて洟をすすっていた。
年齢は十歳くらいだろうか。痩せた体に青い甚平を纏っている。淡いオレンジ色の髪はふわふわで、頭の上には三角形の耳が二つ、ぴょこんと立っている。
目の前を行き交う大人たちは、誰も足を止めようとしない。ひしめき合うように人が往来するそこは、四条通。ここ京都を代表する繁華街だ。
泣いている子どもは、おそらく人の子ではない。これだけ人の多い街中で、誰からも声をかけられないことがその証拠だ。
この子の姿はきっと、誰の目にも見えていない。たった一人、私だけを除いて。
(どうしようかなぁ……)
スクールバッグに付けている白猫のキーホルダーをいじりながら、私は迷っていた。
高校からの帰り道。晩ご飯の食材を買うため、駅近くのスーパーへ寄ろうとしていたところだった。
まだ日の明るいうちから、こういう存在に出くわすのは珍しい。いつもなら日没あたりから夜にかけて、たまーに見かける程度なのに。
(さすがに、このまま放っておくのは可哀想……だけど)
こんなに小さな子どもが一人で泣いているとなると、さすがに無視はできない。けれど今までの経験から、こういうモノにはあまり不用意に近づいてはいけない、という教訓もある。
過去には良かれと思って近づいて、祟られそうになったことも何度かあった。今目の前で泣いているこの子どもだって、私を罠に嵌めるために演技をしている可能性もある。
それに、何より。
――そういうモノが見えることは、誰にも言ってはだめよ。
脳裏を過ぎるのは、亡き母の言葉だ。
普通の人には見えない存在。それが見える私は、普通ではない。その事実を、周りの人々に悟られてはいけない。でないと、また好奇の目で見られてしまう。
だから今この場合も、私は見て見ぬフリをするべきなのだ。普通の人には見えないモノと関わってはいけない。触らぬ神に祟りなしである。
わかっている。
わかってはいるのだけれど。
「ねえ、キミ。どうして泣いてるの?」
気づけば私は、そう声をかけてしまっていた。
どうしても無視することができなかった。だって、子どもが泣いているのだ。こんな状態の子を、一人にしておけるわけがない。
「……あれ。おねえちゃん、ボクのことが見えるの?」
それまで膝に顔を埋めていたその子は、恐る恐るといった様子で、不思議そうにこちらを見上げた。透き通るような飴色の瞳が、私をまっすぐに見つめてくる。
可愛らしい顔をしているけれど、どうやら男の子のようだ。声変わりを迎えていないボーイソプラノが耳に心地よい。
ふわふわの髪の毛の上にある耳の形からすると、猫……だろうか?
こういう存在は時々、人と動物とが融合したような姿形をしていることがある。
「うん。見えてるよ。だから、どうして泣いてるんだろうと思って」
「そっか……。人間でも、ボクたちのことが見える人もいるんだ。それじゃあ、ちょっと恥ずかしいところを見せちゃったね」
男の子はそう言うと、照れ隠しのように目元の涙を拭う。それからすぐに立ち上がって、改めてこちらを見上げた。
「ボク、『猫神様』を捜してるんだ。この辺りにいるって聞いたんだけど、迷っちゃって」
「ねこがみさま?」
「うん。猫の神様。この大通りの近くに住んでるんだって。おねえちゃんは知らない?」
猫神様、と呼ばれる人物のことはもちろん知らない。おそらく人ではないだろうし、そういう存在がこの辺りに家を構えているなんて聞いたこともない。
いや、神様というからには、もしかしたら神社にいるのだろうか。
だとすれば、この辺りには確かに神社がいくつもある。古都と呼ばれるこの京都には、歴史ある神社仏閣が集まっているのだ。
「うーんとね。猫神様のことはわからないけど、神様がいそうなところは心当たりがあるよ。よかったら案内しようか?」
私が提案すると、男の子はぱあっと顔を輝かせる。甚平の裾から覗いているふわふわの尻尾も、嬉しそうにピンと立つ。
「うん! お願い、おねえちゃん!」
言うなり、彼はスクールバッグの反対側、私の左腕にギュッとしがみつく。
ああ、なんだか弟ができたみたいで可愛い。やっぱり勇気を出して声をかけてよかったな、と思う。
とにもかくにも、私はその猫神様とやらを捜して、春の京都を進んでいくのだった。
◯
「ねえねえ。おねえちゃんはお名前なんていうの?」
四条通を東へ歩きながら、私の左腕にくっついた彼は無邪気にそう尋ねてくる。
「私はね、天沢桜っていうの。キミは?」
「へえー。おねえちゃん、サクラっていうんだ。お花の桜かな? ボクはね、蜜柑っていうんだ」
「蜜柑くん? 可愛い名前だね」
彼のふわふわのオレンジ色の耳を見ていると、確かに蜜柑って感じがする。
なるほど、猫に蜜柑。あとはコタツがあれば完璧だな――なんてくだらないことを考えていると、不意に人の視線を感じた。
私が改めて周りに目をやると、道を行き交う人の何人かが、チラチラとこちらを見ていた。不思議そうにしていたり、どこか気味の悪そうな顔をしていたり。
(ああ、そうだった)
こういう視線は、あんまり好きじゃない。
でも仕方ないよね、とも思う。
周りの人たちはみんな、私の隣にいる蜜柑くんのことが見えていないのだ。彼らからすれば、私は一人でお喋りしているように見えているはず。
こうやって変な目で見られてしまうから、母はいつも私に言っていたのだ。
――誰にも言ってはだめよ。
普通の人には見えない存在。母の目にも映らなかったモノが、私にだけは見えてしまう。
それこそ私がまだ幼かった頃は、そういう存在と人間との区別がつかなくて、人前で何度も失敗してしまった。そのたびに周りからは気味悪がられて、避けられて。見兼ねた母は口酸っぱく、私にこのことを悟られないようにと教え続けたのだ。
だから今この瞬間もきっと、私は普通の人として間違った行動をしている。もしもこの場を知り合いに見られてしまったら、また怪訝な顔をされてしまう。
けれど……と、私はわずかに視線を上げ、改めて周囲を眺める。
西日に染まっていく街を、多くの人が行き交っている。その中に、私の見知った顔は見当たらない。そもそもこの街にはまだ、友達と呼べるような人もいない。
この京都に引っ越してきてから、三週間程度。失うものはまだ少ない。だから今は蜜柑くんのためにも、やはり猫神様を見つけることが先決なのだ。
そうこうしているうちに、私たちは道の突き当たりまでたどり着いた。目の前にそびえる立派な朱色の門を見上げて、私は言う。
「さあ、着いたよ。神様がいそうな場所」
四条通の東の果て。石段を登った先にあるのは、『祇園さん』の呼び名で親しまれている八坂神社だ。
平日にもかかわらず多くの人が出入りしているそこには、本殿の他にもたくさんの摂社と末社とがあり、それぞれの場所で別の神様が祀られている。
それだけ多くの神様が集まる場所なら、蜜柑くんの捜している猫神様も見つかるかもしれない――と、そう思ったのだけれど。
「あれ? ここって、神社……だよね? 猫神様は、たぶんここにはいないよ」
そんな彼の反応に、私は面食らった。
「えっ。そうなの? 神様って、神社にいるものじゃないの?」
「んっとね。猫神様は神様だけど、神社にいるわけじゃないんだ。もっとこう……お店みたいな場所にいるって聞いたよ。お料理屋さんがいっぱい並んでるところとか」
お店みたいな場所。ということは、どこかの飲食店の神棚にでも祀られているのだろうか。
「そ、そっか。じゃあ、もっと別の場所を捜さないとだね」
蜜柑くんからの情報を基に、私たちは四条通を再び歩く。お料理屋さんがいっぱい並んでいるところ。もしかしたら四条河原町の辺りかな? と思って、私はそこへ向かった。
東西にまっすぐ伸びる四条通と、そこへほぼ垂直に交わる河原町通。その交差点を中心として、辺りには多くの店が軒を連ねて賑わっている。
「うーん……。お料理屋さんはいっぱいあるけど、ちょっと雰囲気が違うかも」
蜜柑くんは残念そうに言って、ふわふわの耳をしょんぼりとさせる。
「猫神様がいるのは、もっと静かで、古いお座敷があるところなんだ」
古いお座敷。もしかしたら、どこかの老舗だろうか。この四条通付近で、そういう雰囲気のお料理屋さんがたくさんあるところ。
「もしかして、先斗町のことかな……?」
私が言うと、蜜柑くんは両耳をぴょこりと立てて食いついてくる。
「あ。そんな名前だったかも!」
どうやら当たりらしい。
先斗町というのは、この四条通の途中、鴨川のそばを曲がったところにある細長い通りのことだ。風情のある京町家が並ぶ花街で、たまに舞妓さんが歩いていることもある。
「よし。それじゃあ、そこに一緒に行ってみよっか」
「うん!」
蜜柑くんは嬉しそうに私の左手をギュッと握ってくる。
目的の場所までは、歩いて十分とかからなかった。
「わっ、すごい。この道だけ、なんだか他と雰囲気が違うね」
先斗町は、車が入れないほどの狭い通りだ。その細長い道の両脇に、和の情緒溢れる町家が建ち並ぶ様を見て、蜜柑くんは感嘆の声を上げた。
「うん、やっぱりこの辺りかも。猫神様がいるところ」
どうやらこの通りのどこかにいるらしい。もう少しで、猫神様に会える。けれど、店がたくさんありすぎて一体どこへ入ればいいのかわからない。
気軽に中へ入って確認できればいいのだけれど、なんだか高級そうなお店や、一見さんお断りっぽいところもあって、ちょっと入りづらい雰囲気がある。
さてどうしようか、と頭を悩ませていると――
「あっ!」
と、急に蜜柑くんが大きな声を上げた。
一体どうしたのかと見てみると、彼の瞳が見つめる先には、一匹の小さな生き物の姿があった。
雪のように白い毛並みと、頭の上に立つ三角形の二つの耳。それにお尻から伸びる細長い尻尾。
道の真ん中で、ちょこんと座ってこちらを見つめ返しているのは一匹の猫だった。
(可愛い!)
その愛くるしい姿に、私は瞬時に心を奪われていた。
猫がいる。しかも私が一番好きな白猫。
思わず胸を高鳴らせる私の隣で、蜜柑くんはその猫をまっすぐに見ながら言う。
「猫神様だ!」
「えっ?」
猫神様、と彼は言った。
けれど、道の先にいるのはどう見てもただの猫だ。
白い毛並みは艶があって、足の先や尻尾の先にちょこっとだけ赤い模様が入っている。鼻と耳がピンク色をしていてとても可愛い……じゃなくて。
あの白猫が、本当に例の猫神様なのだろうか。
「あ……蜜柑くん、待って!」
こちらがぼーっとしている間に、蜜柑くんの背中はどんどん遠くなって、私は慌てて追いかける。白猫はそんな私たちをどこかへと誘うように、身軽な体を翻して花街の奥へと駆けていく。
道の両脇に並ぶ店の提灯が、次々と赤い光を灯していく。どうやら日没を迎えたようで、空はいつのまにか夜の色を連れてきていた。
白猫はやがて、道の途中で右へ曲がった。同じようにして私たちもそこを曲がろうとすると、
「わっ……」
思わず、そんな声が出た。
曲がり角の向こうに続く路地は、さらに細くて暗かった。人が一人ギリギリ通れるくらいの狭い道が、長ーくまっすぐ続いて、その突き当たりの左側からほんのりと灯りが漏れている。
なんだか、この先に秘密の隠れ家でもあるような雰囲気だった。けっして覗いてはいけない世界が、そこに広がっているかのように。
「きっとあそこだね、猫神様のところ!」
蜜柑くんは変わらず明るい声で言って、そのまま道の先へと走り出す。
そして私はといえば、その場の雰囲気につい怖気づいて尻込みしていた。
この先で、猫神様が待っている。
蜜柑くんと違って人間である私は、このまま足を踏み入れてもいいのだろうか――と、今さらになって不安を覚える。
「桜おねえちゃん、何してるの。早くおいでよ!」
蜜柑くんが早く早くと嬉しそうに手招きする。そんな彼を見て、私はようやく前へ進む決心をする。
そうだ。私は道案内を引き受けたのだから、最後まで見届けなきゃ。
意を決して足を踏み出し、真っ暗で狭い路地を進んでいく。やがて突き当たりの手前までやってきて、左側をそっと覗いてみると、そこには何かのお店と思しき入り口があった。
閉じられた木製の格子戸から、淡い光が漏れている。足元には行燈もあって、一見すると他のお店と変わらない佇まいだ。
けれど看板のようなものは何もないし、暖簾も表札も出ていない。
本当にここがそうなの? と訝る私の目の前で、蜜柑くんは無遠慮に扉を横へスライドさせた。
「おじゃましまーーす!」
「あっ……ちょ、ちょっと蜜柑くん!」
いきなり入ったら怒られるんじゃ、と焦る私の耳に、今度は別の声が届く。
「いらっしゃい。ようここまでたどり着きましたね」
男の人の声だった。京都っぽい訛りの、穏やかで、どこか甘い響きのある透き通った声。
見ると、扉の奥にはまるで旅館のような広い土間があり、上がり框の向こうに客を迎えるためのスリッパが揃えてある。
そして、さらにその奥。淡い暖色の絨毯が敷かれた正面には、一人の青年が立っていた。
その姿は、一目でこの世のものではないとわかる美しさだった。
雪のように真っ白な、背中まで伸びる長い髪。それを赤い組紐で結び、身に纏うのは白を基調とした羽織袴。肌も抜けるように白く、やや切れ長の瞳は黄金色。
見た目の年齢は二十代の前半から半ばくらいで、鼻筋の通った端整な顔をしている。
「猫神様!」
蜜柑くんは嬉しそうに言って、すぐさま彼のもとへと駆けていく。
(あれ? さっきはあの白猫のことを猫神様って言ってたけど、こっちが本物?)
確かに見た目の神々しさでいえば、こちらが正解のような気はするけれど。
「よしよし、蜜柑さん。あなたはまだ半人前なんですから、こっちの世界に来たらあかん言うたはずでしょう」
猫神様は、自分の腰にしがみついてきた蜜柑くんの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。でもボク、どうしても会いたい人がいて……」
どうやら二人は顔見知りらしい。彼らの会話についていけない私は、どういう顔をしていればいいのかわからず、所在なく視線を泳がせる。
と、そんな私の様子に気づいたのか、猫神様は今度は私の方を見てにこりと笑いかける。
「そちらのお嬢さんも、遠慮せんと中に入ってくださいね」
「えっ。あ、はい。ありがとうございます……」
思いのほか優しげに声をかけられて、私はオロオロとしながら土間に足を踏み入れた。
「さて。蜜柑さんがわざわざこっちの世界に来たいうことは、込み入った事情があるわけですね。お腹も空いてるでしょうし、三人でご飯でも食べながらお話ししましょか」
「え。ご飯……?」
猫神様からのまさかの提案に、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と鳴る。
「わーい、ご飯ー! ボク、猫神様の作ったご飯大好き!」
蜜柑くんは飛び上がって喜び、それを見た猫神様は穏やかに微笑んで、私たちを奥の座敷へと案内する。足を進めるたび、何やら美味しそうな香りが漂ってくる。
「お腹が空いてると、気持ちも沈みますからね。ぎょうさん食べて、ゆっくりしてってくださいね」
子どもが泣いていた。人通りの多い道の端にうずくまって、華奢な両腕で抱いた膝に、顔を埋めて洟をすすっていた。
年齢は十歳くらいだろうか。痩せた体に青い甚平を纏っている。淡いオレンジ色の髪はふわふわで、頭の上には三角形の耳が二つ、ぴょこんと立っている。
目の前を行き交う大人たちは、誰も足を止めようとしない。ひしめき合うように人が往来するそこは、四条通。ここ京都を代表する繁華街だ。
泣いている子どもは、おそらく人の子ではない。これだけ人の多い街中で、誰からも声をかけられないことがその証拠だ。
この子の姿はきっと、誰の目にも見えていない。たった一人、私だけを除いて。
(どうしようかなぁ……)
スクールバッグに付けている白猫のキーホルダーをいじりながら、私は迷っていた。
高校からの帰り道。晩ご飯の食材を買うため、駅近くのスーパーへ寄ろうとしていたところだった。
まだ日の明るいうちから、こういう存在に出くわすのは珍しい。いつもなら日没あたりから夜にかけて、たまーに見かける程度なのに。
(さすがに、このまま放っておくのは可哀想……だけど)
こんなに小さな子どもが一人で泣いているとなると、さすがに無視はできない。けれど今までの経験から、こういうモノにはあまり不用意に近づいてはいけない、という教訓もある。
過去には良かれと思って近づいて、祟られそうになったことも何度かあった。今目の前で泣いているこの子どもだって、私を罠に嵌めるために演技をしている可能性もある。
それに、何より。
――そういうモノが見えることは、誰にも言ってはだめよ。
脳裏を過ぎるのは、亡き母の言葉だ。
普通の人には見えない存在。それが見える私は、普通ではない。その事実を、周りの人々に悟られてはいけない。でないと、また好奇の目で見られてしまう。
だから今この場合も、私は見て見ぬフリをするべきなのだ。普通の人には見えないモノと関わってはいけない。触らぬ神に祟りなしである。
わかっている。
わかってはいるのだけれど。
「ねえ、キミ。どうして泣いてるの?」
気づけば私は、そう声をかけてしまっていた。
どうしても無視することができなかった。だって、子どもが泣いているのだ。こんな状態の子を、一人にしておけるわけがない。
「……あれ。おねえちゃん、ボクのことが見えるの?」
それまで膝に顔を埋めていたその子は、恐る恐るといった様子で、不思議そうにこちらを見上げた。透き通るような飴色の瞳が、私をまっすぐに見つめてくる。
可愛らしい顔をしているけれど、どうやら男の子のようだ。声変わりを迎えていないボーイソプラノが耳に心地よい。
ふわふわの髪の毛の上にある耳の形からすると、猫……だろうか?
こういう存在は時々、人と動物とが融合したような姿形をしていることがある。
「うん。見えてるよ。だから、どうして泣いてるんだろうと思って」
「そっか……。人間でも、ボクたちのことが見える人もいるんだ。それじゃあ、ちょっと恥ずかしいところを見せちゃったね」
男の子はそう言うと、照れ隠しのように目元の涙を拭う。それからすぐに立ち上がって、改めてこちらを見上げた。
「ボク、『猫神様』を捜してるんだ。この辺りにいるって聞いたんだけど、迷っちゃって」
「ねこがみさま?」
「うん。猫の神様。この大通りの近くに住んでるんだって。おねえちゃんは知らない?」
猫神様、と呼ばれる人物のことはもちろん知らない。おそらく人ではないだろうし、そういう存在がこの辺りに家を構えているなんて聞いたこともない。
いや、神様というからには、もしかしたら神社にいるのだろうか。
だとすれば、この辺りには確かに神社がいくつもある。古都と呼ばれるこの京都には、歴史ある神社仏閣が集まっているのだ。
「うーんとね。猫神様のことはわからないけど、神様がいそうなところは心当たりがあるよ。よかったら案内しようか?」
私が提案すると、男の子はぱあっと顔を輝かせる。甚平の裾から覗いているふわふわの尻尾も、嬉しそうにピンと立つ。
「うん! お願い、おねえちゃん!」
言うなり、彼はスクールバッグの反対側、私の左腕にギュッとしがみつく。
ああ、なんだか弟ができたみたいで可愛い。やっぱり勇気を出して声をかけてよかったな、と思う。
とにもかくにも、私はその猫神様とやらを捜して、春の京都を進んでいくのだった。
◯
「ねえねえ。おねえちゃんはお名前なんていうの?」
四条通を東へ歩きながら、私の左腕にくっついた彼は無邪気にそう尋ねてくる。
「私はね、天沢桜っていうの。キミは?」
「へえー。おねえちゃん、サクラっていうんだ。お花の桜かな? ボクはね、蜜柑っていうんだ」
「蜜柑くん? 可愛い名前だね」
彼のふわふわのオレンジ色の耳を見ていると、確かに蜜柑って感じがする。
なるほど、猫に蜜柑。あとはコタツがあれば完璧だな――なんてくだらないことを考えていると、不意に人の視線を感じた。
私が改めて周りに目をやると、道を行き交う人の何人かが、チラチラとこちらを見ていた。不思議そうにしていたり、どこか気味の悪そうな顔をしていたり。
(ああ、そうだった)
こういう視線は、あんまり好きじゃない。
でも仕方ないよね、とも思う。
周りの人たちはみんな、私の隣にいる蜜柑くんのことが見えていないのだ。彼らからすれば、私は一人でお喋りしているように見えているはず。
こうやって変な目で見られてしまうから、母はいつも私に言っていたのだ。
――誰にも言ってはだめよ。
普通の人には見えない存在。母の目にも映らなかったモノが、私にだけは見えてしまう。
それこそ私がまだ幼かった頃は、そういう存在と人間との区別がつかなくて、人前で何度も失敗してしまった。そのたびに周りからは気味悪がられて、避けられて。見兼ねた母は口酸っぱく、私にこのことを悟られないようにと教え続けたのだ。
だから今この瞬間もきっと、私は普通の人として間違った行動をしている。もしもこの場を知り合いに見られてしまったら、また怪訝な顔をされてしまう。
けれど……と、私はわずかに視線を上げ、改めて周囲を眺める。
西日に染まっていく街を、多くの人が行き交っている。その中に、私の見知った顔は見当たらない。そもそもこの街にはまだ、友達と呼べるような人もいない。
この京都に引っ越してきてから、三週間程度。失うものはまだ少ない。だから今は蜜柑くんのためにも、やはり猫神様を見つけることが先決なのだ。
そうこうしているうちに、私たちは道の突き当たりまでたどり着いた。目の前にそびえる立派な朱色の門を見上げて、私は言う。
「さあ、着いたよ。神様がいそうな場所」
四条通の東の果て。石段を登った先にあるのは、『祇園さん』の呼び名で親しまれている八坂神社だ。
平日にもかかわらず多くの人が出入りしているそこには、本殿の他にもたくさんの摂社と末社とがあり、それぞれの場所で別の神様が祀られている。
それだけ多くの神様が集まる場所なら、蜜柑くんの捜している猫神様も見つかるかもしれない――と、そう思ったのだけれど。
「あれ? ここって、神社……だよね? 猫神様は、たぶんここにはいないよ」
そんな彼の反応に、私は面食らった。
「えっ。そうなの? 神様って、神社にいるものじゃないの?」
「んっとね。猫神様は神様だけど、神社にいるわけじゃないんだ。もっとこう……お店みたいな場所にいるって聞いたよ。お料理屋さんがいっぱい並んでるところとか」
お店みたいな場所。ということは、どこかの飲食店の神棚にでも祀られているのだろうか。
「そ、そっか。じゃあ、もっと別の場所を捜さないとだね」
蜜柑くんからの情報を基に、私たちは四条通を再び歩く。お料理屋さんがいっぱい並んでいるところ。もしかしたら四条河原町の辺りかな? と思って、私はそこへ向かった。
東西にまっすぐ伸びる四条通と、そこへほぼ垂直に交わる河原町通。その交差点を中心として、辺りには多くの店が軒を連ねて賑わっている。
「うーん……。お料理屋さんはいっぱいあるけど、ちょっと雰囲気が違うかも」
蜜柑くんは残念そうに言って、ふわふわの耳をしょんぼりとさせる。
「猫神様がいるのは、もっと静かで、古いお座敷があるところなんだ」
古いお座敷。もしかしたら、どこかの老舗だろうか。この四条通付近で、そういう雰囲気のお料理屋さんがたくさんあるところ。
「もしかして、先斗町のことかな……?」
私が言うと、蜜柑くんは両耳をぴょこりと立てて食いついてくる。
「あ。そんな名前だったかも!」
どうやら当たりらしい。
先斗町というのは、この四条通の途中、鴨川のそばを曲がったところにある細長い通りのことだ。風情のある京町家が並ぶ花街で、たまに舞妓さんが歩いていることもある。
「よし。それじゃあ、そこに一緒に行ってみよっか」
「うん!」
蜜柑くんは嬉しそうに私の左手をギュッと握ってくる。
目的の場所までは、歩いて十分とかからなかった。
「わっ、すごい。この道だけ、なんだか他と雰囲気が違うね」
先斗町は、車が入れないほどの狭い通りだ。その細長い道の両脇に、和の情緒溢れる町家が建ち並ぶ様を見て、蜜柑くんは感嘆の声を上げた。
「うん、やっぱりこの辺りかも。猫神様がいるところ」
どうやらこの通りのどこかにいるらしい。もう少しで、猫神様に会える。けれど、店がたくさんありすぎて一体どこへ入ればいいのかわからない。
気軽に中へ入って確認できればいいのだけれど、なんだか高級そうなお店や、一見さんお断りっぽいところもあって、ちょっと入りづらい雰囲気がある。
さてどうしようか、と頭を悩ませていると――
「あっ!」
と、急に蜜柑くんが大きな声を上げた。
一体どうしたのかと見てみると、彼の瞳が見つめる先には、一匹の小さな生き物の姿があった。
雪のように白い毛並みと、頭の上に立つ三角形の二つの耳。それにお尻から伸びる細長い尻尾。
道の真ん中で、ちょこんと座ってこちらを見つめ返しているのは一匹の猫だった。
(可愛い!)
その愛くるしい姿に、私は瞬時に心を奪われていた。
猫がいる。しかも私が一番好きな白猫。
思わず胸を高鳴らせる私の隣で、蜜柑くんはその猫をまっすぐに見ながら言う。
「猫神様だ!」
「えっ?」
猫神様、と彼は言った。
けれど、道の先にいるのはどう見てもただの猫だ。
白い毛並みは艶があって、足の先や尻尾の先にちょこっとだけ赤い模様が入っている。鼻と耳がピンク色をしていてとても可愛い……じゃなくて。
あの白猫が、本当に例の猫神様なのだろうか。
「あ……蜜柑くん、待って!」
こちらがぼーっとしている間に、蜜柑くんの背中はどんどん遠くなって、私は慌てて追いかける。白猫はそんな私たちをどこかへと誘うように、身軽な体を翻して花街の奥へと駆けていく。
道の両脇に並ぶ店の提灯が、次々と赤い光を灯していく。どうやら日没を迎えたようで、空はいつのまにか夜の色を連れてきていた。
白猫はやがて、道の途中で右へ曲がった。同じようにして私たちもそこを曲がろうとすると、
「わっ……」
思わず、そんな声が出た。
曲がり角の向こうに続く路地は、さらに細くて暗かった。人が一人ギリギリ通れるくらいの狭い道が、長ーくまっすぐ続いて、その突き当たりの左側からほんのりと灯りが漏れている。
なんだか、この先に秘密の隠れ家でもあるような雰囲気だった。けっして覗いてはいけない世界が、そこに広がっているかのように。
「きっとあそこだね、猫神様のところ!」
蜜柑くんは変わらず明るい声で言って、そのまま道の先へと走り出す。
そして私はといえば、その場の雰囲気につい怖気づいて尻込みしていた。
この先で、猫神様が待っている。
蜜柑くんと違って人間である私は、このまま足を踏み入れてもいいのだろうか――と、今さらになって不安を覚える。
「桜おねえちゃん、何してるの。早くおいでよ!」
蜜柑くんが早く早くと嬉しそうに手招きする。そんな彼を見て、私はようやく前へ進む決心をする。
そうだ。私は道案内を引き受けたのだから、最後まで見届けなきゃ。
意を決して足を踏み出し、真っ暗で狭い路地を進んでいく。やがて突き当たりの手前までやってきて、左側をそっと覗いてみると、そこには何かのお店と思しき入り口があった。
閉じられた木製の格子戸から、淡い光が漏れている。足元には行燈もあって、一見すると他のお店と変わらない佇まいだ。
けれど看板のようなものは何もないし、暖簾も表札も出ていない。
本当にここがそうなの? と訝る私の目の前で、蜜柑くんは無遠慮に扉を横へスライドさせた。
「おじゃましまーーす!」
「あっ……ちょ、ちょっと蜜柑くん!」
いきなり入ったら怒られるんじゃ、と焦る私の耳に、今度は別の声が届く。
「いらっしゃい。ようここまでたどり着きましたね」
男の人の声だった。京都っぽい訛りの、穏やかで、どこか甘い響きのある透き通った声。
見ると、扉の奥にはまるで旅館のような広い土間があり、上がり框の向こうに客を迎えるためのスリッパが揃えてある。
そして、さらにその奥。淡い暖色の絨毯が敷かれた正面には、一人の青年が立っていた。
その姿は、一目でこの世のものではないとわかる美しさだった。
雪のように真っ白な、背中まで伸びる長い髪。それを赤い組紐で結び、身に纏うのは白を基調とした羽織袴。肌も抜けるように白く、やや切れ長の瞳は黄金色。
見た目の年齢は二十代の前半から半ばくらいで、鼻筋の通った端整な顔をしている。
「猫神様!」
蜜柑くんは嬉しそうに言って、すぐさま彼のもとへと駆けていく。
(あれ? さっきはあの白猫のことを猫神様って言ってたけど、こっちが本物?)
確かに見た目の神々しさでいえば、こちらが正解のような気はするけれど。
「よしよし、蜜柑さん。あなたはまだ半人前なんですから、こっちの世界に来たらあかん言うたはずでしょう」
猫神様は、自分の腰にしがみついてきた蜜柑くんの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。でもボク、どうしても会いたい人がいて……」
どうやら二人は顔見知りらしい。彼らの会話についていけない私は、どういう顔をしていればいいのかわからず、所在なく視線を泳がせる。
と、そんな私の様子に気づいたのか、猫神様は今度は私の方を見てにこりと笑いかける。
「そちらのお嬢さんも、遠慮せんと中に入ってくださいね」
「えっ。あ、はい。ありがとうございます……」
思いのほか優しげに声をかけられて、私はオロオロとしながら土間に足を踏み入れた。
「さて。蜜柑さんがわざわざこっちの世界に来たいうことは、込み入った事情があるわけですね。お腹も空いてるでしょうし、三人でご飯でも食べながらお話ししましょか」
「え。ご飯……?」
猫神様からのまさかの提案に、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と鳴る。
「わーい、ご飯ー! ボク、猫神様の作ったご飯大好き!」
蜜柑くんは飛び上がって喜び、それを見た猫神様は穏やかに微笑んで、私たちを奥の座敷へと案内する。足を進めるたび、何やら美味しそうな香りが漂ってくる。
「お腹が空いてると、気持ちも沈みますからね。ぎょうさん食べて、ゆっくりしてってくださいね」
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