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第二章 甦る悪夢
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同じ頃。
美矢もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
ベッドに入ったものの、気分が落ち着かず、目は冴えるばかり。
せめて気分を落ち着けようと、キッチンにお湯を取りに行く。
熱いお湯に、ラベンダーの精油を垂らして、アロマポット代わりにしようと思ったのだ。
ろうそくの灯を見ていると落ち着くので、陶器製のアロマポットを以前から愛用していたのだが、うっかり破損してしまったのだ。
近くの雑貨屋などで探したり、通販サイトなども閲覧してみたが、好みのものが見つからずにいる。
ポットが欠けた時に叔母が教えてくれた、お湯に垂らす方法が、思いがけず香りが優しく、意外に香りも持続するので、しばらくはこのままでいいかな、とも感じている。
精油はインドから品質の良いものをいくつも持参したので、日によって楽しんでいる。
ラベンダーは鎮静効果が高いので、就寝時にはよく使う。
「眠れないのかい?」
キッチンに行くと、まだ起きていた和矢が、リビングから声をかけた。
うなづいた美矢に椅子をすすめ、温かいミルクティを入れてくれる。
「……おいしい」
生姜とシナモンの香りがする。
「丁度、持っていこうと思ったから、ついでに」
和矢の入れるスパイス入りのミルクティ……チャイを味わってから、叔母はすっかりファンになってしまい、仕事で一息つきたいときには、和矢にねだるようになった。
牛乳に茶葉と砂糖を入れて沸かし、スパイスを加えて漉すので、手間がかかるが、とてもリラックスできる。
美矢も、大好きだった。
「もう夏なのに、夜は肌寒いものね」
「この地方は、標高が高いからね。東京にも近いのに、やっぱり、日本の風土は変化に富んでいるよ」
兄とたあいないおしゃべりをしながらも、美矢は、ふと、考えてしまう。
一体、何がいけなかったのだろう。
決して、挑発なんて、したつもりはない。
確かに、後先考えず、のこのこついて行ったのは、浅はかだったと思う。
だけど、落ち着いて冷静に対応したつもりだったのに、気がつけば相手を怒らせるばかりで。
おまけに、あの人にまで、叱られて。
「……昼間のことを、考えているのかい?」
兄の問いかけに、素直にうなづく。
「私の話し方って、そんなに気に障るものだったのかしら?」
「また聞きだから、何とも言えないけど。でも、聞き様によっては、そうかもしれないね」
「……」
「美矢の日本語は、間違っていないと思うよ。ただね、落ち着いた丁寧な言葉遣いは、相手と状態によっては、嫌味にも聞こえるね。『慇懃無礼』って言葉もあることだし。美矢は、相手に対して悪感情を抱きながら、話していたんだろう? それが、悪い形で伝わったんだろうな」
「悪い形?」
「見下した、という感じに受け取ったのかもね。ああいう、直情型の人は、相手にされないとムキになるから」
「だって……いえ、その通りだわ」
言語的コミュニケーションだけみれば、美矢の日本語は大きな問題はない。むしろ、日本の高校生として平均以上の語彙力や文法も身に着けている。
声のトーンや表情などの非言語的な部分を場に合わせる、TPOに応じた態度を使い分けることも、一応はできている。
ただ、感情が高ぶると、そのような取り繕いができなくなる。
16歳の少女にそのような自己制御を求めることは酷であることも、和矢は承知している。
承知しているが、殊更に人目につきやすい自分たち兄妹がむやみに敵を作らないためには必要な処世術であることも事実である。それを美矢もわかっているから、素直に認めるしかない。
「……善処します」
「でも、美矢が気にしているのは、そんなことじゃないんだろう?」
にっこり笑う、和矢の目が、面白いものを見つけたかのように、輝いている。
「高天君のことが、気になるんだろう?」
「……別に」
「泣いていたくせに」
「あれは! ……あんまりな言い方だったから」
『文化祭前の大事な時に何かあったら、どうするんだ』
あんな言い方しなくても……。
確かに文化祭前に問題が起きたら、美術部にも迷惑がかかるだろう。
でも、その前に、ケガをしたら大変とか、他に心配することがあってもいいはず。
「……美術部の心配してるだけなんだわ」
「そうかな?」
思わず口にした言葉に、和矢が否定の言葉を返す。
「先週の、木曜日だったかな、美矢が、珠美ちゃんと文化祭のことで話をしていただろう?」
「そんな、もう、ここ最近文化祭のことばっかりじゃない?」
「じゃなくて、確か『文化祭に参加するのは初めてだ、楽しみだ』っていうようなこと」
……そういえば、そんな話をしたかもしれない。
美術部のことだけじゃなく、遅くまで学校に残って準備をしたり、後夜祭に打ち上げ花火が上がることや、模擬店のことや、色々珠美から聞いて、ワクワクして、答えた。
『私、初めてなの。楽しみだなあ』
……そんな、ありきたりの返事だったと思った、が。
「あの時の美矢は、いつもみたいにお澄まししてなくて、すごく楽しそうに笑っていたんだよね。……高天君も、それを見て、笑っていたよ」
「え?」
「分かりにくかったけど、確かに笑っていた。彼らしく、静かにね。それに……」
もったいぶって言葉を切り、和矢はチャイを口に含む。
「……美矢達のことを聞いて、真っ先に飛び出して行ったんだよ。高天君」
「……」
「三上さんいわく、『あんなに慌てた高天君を見たのは、入学以来、初めてだ』ということらしいよ」
曇っていた美矢の表情が、みるみる明るくなる。
「好きなんだね、高天君のこと」
「そんな……」
否定しながらも、心が浮き立つのを、感じる。
「まだ……よくわからないわ」
「でも、惹かれているんだよね。美矢は」
意味ありげに、和矢は美矢を見つめる。
「それとも……が、求めているのかな?」
兄の小さなつぶやきは、美矢の耳には届かなかった。
ただ、甘い胸の疼きを確かめるように、思わず胸元をぎゅっと握りしめた。
そこに、灯る火の、熱さを、感じて。
美矢もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
ベッドに入ったものの、気分が落ち着かず、目は冴えるばかり。
せめて気分を落ち着けようと、キッチンにお湯を取りに行く。
熱いお湯に、ラベンダーの精油を垂らして、アロマポット代わりにしようと思ったのだ。
ろうそくの灯を見ていると落ち着くので、陶器製のアロマポットを以前から愛用していたのだが、うっかり破損してしまったのだ。
近くの雑貨屋などで探したり、通販サイトなども閲覧してみたが、好みのものが見つからずにいる。
ポットが欠けた時に叔母が教えてくれた、お湯に垂らす方法が、思いがけず香りが優しく、意外に香りも持続するので、しばらくはこのままでいいかな、とも感じている。
精油はインドから品質の良いものをいくつも持参したので、日によって楽しんでいる。
ラベンダーは鎮静効果が高いので、就寝時にはよく使う。
「眠れないのかい?」
キッチンに行くと、まだ起きていた和矢が、リビングから声をかけた。
うなづいた美矢に椅子をすすめ、温かいミルクティを入れてくれる。
「……おいしい」
生姜とシナモンの香りがする。
「丁度、持っていこうと思ったから、ついでに」
和矢の入れるスパイス入りのミルクティ……チャイを味わってから、叔母はすっかりファンになってしまい、仕事で一息つきたいときには、和矢にねだるようになった。
牛乳に茶葉と砂糖を入れて沸かし、スパイスを加えて漉すので、手間がかかるが、とてもリラックスできる。
美矢も、大好きだった。
「もう夏なのに、夜は肌寒いものね」
「この地方は、標高が高いからね。東京にも近いのに、やっぱり、日本の風土は変化に富んでいるよ」
兄とたあいないおしゃべりをしながらも、美矢は、ふと、考えてしまう。
一体、何がいけなかったのだろう。
決して、挑発なんて、したつもりはない。
確かに、後先考えず、のこのこついて行ったのは、浅はかだったと思う。
だけど、落ち着いて冷静に対応したつもりだったのに、気がつけば相手を怒らせるばかりで。
おまけに、あの人にまで、叱られて。
「……昼間のことを、考えているのかい?」
兄の問いかけに、素直にうなづく。
「私の話し方って、そんなに気に障るものだったのかしら?」
「また聞きだから、何とも言えないけど。でも、聞き様によっては、そうかもしれないね」
「……」
「美矢の日本語は、間違っていないと思うよ。ただね、落ち着いた丁寧な言葉遣いは、相手と状態によっては、嫌味にも聞こえるね。『慇懃無礼』って言葉もあることだし。美矢は、相手に対して悪感情を抱きながら、話していたんだろう? それが、悪い形で伝わったんだろうな」
「悪い形?」
「見下した、という感じに受け取ったのかもね。ああいう、直情型の人は、相手にされないとムキになるから」
「だって……いえ、その通りだわ」
言語的コミュニケーションだけみれば、美矢の日本語は大きな問題はない。むしろ、日本の高校生として平均以上の語彙力や文法も身に着けている。
声のトーンや表情などの非言語的な部分を場に合わせる、TPOに応じた態度を使い分けることも、一応はできている。
ただ、感情が高ぶると、そのような取り繕いができなくなる。
16歳の少女にそのような自己制御を求めることは酷であることも、和矢は承知している。
承知しているが、殊更に人目につきやすい自分たち兄妹がむやみに敵を作らないためには必要な処世術であることも事実である。それを美矢もわかっているから、素直に認めるしかない。
「……善処します」
「でも、美矢が気にしているのは、そんなことじゃないんだろう?」
にっこり笑う、和矢の目が、面白いものを見つけたかのように、輝いている。
「高天君のことが、気になるんだろう?」
「……別に」
「泣いていたくせに」
「あれは! ……あんまりな言い方だったから」
『文化祭前の大事な時に何かあったら、どうするんだ』
あんな言い方しなくても……。
確かに文化祭前に問題が起きたら、美術部にも迷惑がかかるだろう。
でも、その前に、ケガをしたら大変とか、他に心配することがあってもいいはず。
「……美術部の心配してるだけなんだわ」
「そうかな?」
思わず口にした言葉に、和矢が否定の言葉を返す。
「先週の、木曜日だったかな、美矢が、珠美ちゃんと文化祭のことで話をしていただろう?」
「そんな、もう、ここ最近文化祭のことばっかりじゃない?」
「じゃなくて、確か『文化祭に参加するのは初めてだ、楽しみだ』っていうようなこと」
……そういえば、そんな話をしたかもしれない。
美術部のことだけじゃなく、遅くまで学校に残って準備をしたり、後夜祭に打ち上げ花火が上がることや、模擬店のことや、色々珠美から聞いて、ワクワクして、答えた。
『私、初めてなの。楽しみだなあ』
……そんな、ありきたりの返事だったと思った、が。
「あの時の美矢は、いつもみたいにお澄まししてなくて、すごく楽しそうに笑っていたんだよね。……高天君も、それを見て、笑っていたよ」
「え?」
「分かりにくかったけど、確かに笑っていた。彼らしく、静かにね。それに……」
もったいぶって言葉を切り、和矢はチャイを口に含む。
「……美矢達のことを聞いて、真っ先に飛び出して行ったんだよ。高天君」
「……」
「三上さんいわく、『あんなに慌てた高天君を見たのは、入学以来、初めてだ』ということらしいよ」
曇っていた美矢の表情が、みるみる明るくなる。
「好きなんだね、高天君のこと」
「そんな……」
否定しながらも、心が浮き立つのを、感じる。
「まだ……よくわからないわ」
「でも、惹かれているんだよね。美矢は」
意味ありげに、和矢は美矢を見つめる。
「それとも……が、求めているのかな?」
兄の小さなつぶやきは、美矢の耳には届かなかった。
ただ、甘い胸の疼きを確かめるように、思わず胸元をぎゅっと握りしめた。
そこに、灯る火の、熱さを、感じて。
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