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第五章 疾風の帰還者
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「ねえカズヤァ、お茶いれてぇ」
後十日もすれば八月が終わる、と言う頃。
首都圏に比べて夏が短いこの地方は、夏休みも短い。今日の始業式では、久々に友人たちと会い、安否も確認した。
自室で時間割を見て明日の登校準備をしていた和矢の耳に、ドアの外からくぐもった低い声が届いた。
残暑厳しいこの時期でも、夜になると風はすでに秋めいている。
「はいはい、今持って行きますから、少し待ってください」
この数日、ほぼ毎晩、儀式のように繰り返される要望に、和矢は手を止めることなく、機械的に返答した。1分ほどで準備を終えると、部屋を出る。
リビングの中央で、冷え性の弓子が、毛布にくるまってラグマットに寝そべり、横向きで床に置いたノートパソコンに向き合っていた。毛布の毛羽立ちがまるで大きな猫が丸まっているようにも見えるその塊を横目に、和矢はキッチンスペースに向かった。
「う、さむ……」
元々生まれ育った土地なのに、大学進学後から都会で過ごした十数年のうちに体は暑い夏に馴染んでしまったのか、それとも年のせいなのか(とは、考えたくもないが)、帰郷してから、特にここ数年、夏がつらい。
一日中暖かくさえしていれば、ぬくぬくとやり過ごせる冬と違って、昼間の暑さで熱を帯びた肌を夜の冷気が包む様は、涼しいを通り越して、寒い。
コトン、と目の前のテーブルの上に、マグカップが置かれた。
「そんなこと言ってて、昼間は超低温でクーラーなんか使うから、身体の芯が冷えてるんですよ。適度に栄養と水分摂って、キチンと汗をかけば、余分な水分は出ていくから、そんなに冷えないと思いますけど」
もっと暑い国で生活していた甥っ子からお説教をいただくのは情けないが、今はマグカップに心を奪われているので気にならない。がばっと起き上がり、冷えた指先をマグカップのぬくもりで温めながら、そっと口に含む。
中身は、甥っ子特製のスパイスミルクティーだ。
「でも、これのおかげで、この夏は乗りきれそう。去年よりはずっと体が楽だもの」
彼の入れるミルクティーは生姜やシナモンなど、体を温めるスパイスが入っている。
弓子も真似してみたが、どうやっても、スパイスの味や匂いがくどくなってしまい、美味しくない。様々な種類のスパイスの調合は、和矢にしかできないと、最近あきらめた。
気にならない程度にスパイスを控えると、体がちっとも温まらないし、和矢に頼むのが一番早道だった。
「おいしぃ……やっぱり、和矢の入れたお茶が一番」
「誉めてもらうのは嬉しいけど、生活習慣も見直した方がいいです」
「地球温暖化と猛暑が悪いんだもん。熱中症対策だもん」
「室温20度設定は低すぎです」
にっこり笑いつつ、手厳しい意見を述べる甥っ子を、弓子は身をすくめるようにして眺める。
……顔は兄さんには似てないけど、性格はそっくりだわ……。
エキゾチックな美貌はおそらく母譲りなのだろう。
華がありすぎる、と言ってもいいくらい綺羅びやかな顔立ち。
ともすると艶な雰囲気になりかねない華やかな風貌が覆い隠しているが、実は結構正論を吐く、生真面目な性格だったりする。
ただ、その美貌と人当たりの良さが、よく言えば柔和に、悪く言えば軟弱に見せてしまう。
……怒ってるように見えないところが、怖いのよね、後々……。
肩をすくめて、キッチンへ戻った甥っ子の背中に、弓子は兄の面影を見つけ、思いを馳せる。
フリーのルポライターとして、そこそこの収入はあるものの、実際生活を支えているのは、亡き父の代までは代表取締役をしていた会社の、株式分配金である。
創業者の直系であると言うだけで、実務には全く手も口も出していないが、一応全体の半分近くを保有する大株主になる。
今のところ安定した経営状態ではあるが、いつどうなるか分からないご時世である。
本業の方だけでも食べていけるように、せっせと仕事をこなさないといけない。
和矢と美矢の父……弓子の兄の真矢の失踪により、会社の株式をはじめ、亡父の名義の財産は、そっくり弓子に引き継がれていた。
父の晩年の子である弓子の成人を待たずに、父は亡くなり、本来跡を継ぐはずの兄は、数年前に家を出て、海外に行って音信不通だった。兄の相続分は母が預かり、その後の母の死去に伴い、弓子に引き継がれた。
音信不通の期間が長く、手続きすれば書類上は兄の相続放棄も可能だったが、手続きすることで兄との繋がりが絶たれてしまいそうで当時は踏み切れなかった。
幼いころから優秀で将来を嘱望されていたにもかかわらず、父と反りが合わず、高校を卒業すると同時に兄は姿を消した。
時折、兄の友人経由で弓子に届いていた手紙の消印から、兄が海外を転々としている様子が窺えたが、住所は分からず、弓子から兄へ連絡する術はなかった。
いつか独り立ちしたら、兄の足跡を追って海外に行こう、それが弓子のひそかな将来の目標になった。語学を学び、海外で働く希望をもち、兄同様会社を引き継ぐ気のない弓子を、母は受け入れてくれた。
夫と、愛する息子の確執に心を痛めていた母だったが、真矢の行動は、甘んじて受け入れているようであった。
「お兄ちゃんには、お兄ちゃんの理由があるのよ」
それは、弓子の希望を受け入れるのとは違った、妙な納得というか、予見を感じていた節があった。
後年、様々な方面から兄と父の確執の理由を耳にして、母の態度も腑に落ちた。生真面目な兄には、父を許せない理由があり、そんな兄の態度に嘆きつつも救われていた母の思いもあったのだと。
母は、夫の死後、役員として会社に籍を置いていたが、弓子が働くようになって数年で引退した。会社の実権は、当時の役員に引き継がれている。
母の死の直後は、創業者一族の末裔として経営に携わるべきと、役員からも親類からも助言(というか苦言)を受けたが、すでに他人の手で動き出している組織に、経営素人の弓子の入る余地も意欲もないし、若くて扱いやすい神輿として担がれるのはさらに御免だった。
いっそ株式も手放し、会社と縁を切ろうかとも考えたが、持ち株比率が高すぎて、分散するといらぬ騒動になる、経営に携わらなくてもいいので、せめてそのまま保持してほしいと依願され、現在に至る。
まあ、株式分配金をもらうだけで経営に口出ししない大株主が経営陣にとっては都合がいいことは承知している。
別にそのことに異論はないものの、いつどうなるか分からない……しかも、自分ではどうにもできないものに頼っているのは、何だか腰が座らなくて落ち着かない。
そろそろ40歳目前……いわゆるアラフォーというやつである……弓子は、一応世間と言うものを見てきたつもりだ。
客観的に、会社の状態が、決して良好でないことも知っている。
和矢と美矢の生活費や学費は、別方面から潤沢過ぎるくらい振り込まれているため、その点で弓子には負担はかかっていない。
かつて賃貸の事務所として使っていた、この建物を住居用にリフォームする費用も、実は出してもらった。
不況で借り手が安定しないまま、アパートを借りているより、いっそここに住んでしまった方が経済的だと、事務所用のまま、使っていたのだけど。
元々住んでいた家は、相続税の支払いに充てるため、処分していた。
処分のために、やむにやまれず、兄の行方不明による相続放棄の手続きをした。
株式を売却しても良かったが、家の維持費を考えると身軽な方が良いと、考えたのだ。
母が生きていれば、家を処分することはしなかったかも知れないが。
まさか、和矢と美矢が一緒に住むようになるとも予想していなかったし。
だが、今考えれば、経営陣の口車に乗ったりせず、景気のいいうちに株式の方を処分しておけば良かったかも、とも思う。まあ、最終的に決めたのは自分だから、今更恨みがましいことも言いたくはない。
天涯孤独のつもりだったから、身軽な方を選んだけど。でも。
和矢と美矢という身内がいると知っていたら、こんな無機質な建物じゃなくて、広い庭のある、あの家を遺してあげたかった……。
「弓子さん! 眠っちゃダメですよ!」
和矢の声で、ハッと気が付く。
いつの間にか、居眠りしていた。
まだ若い(つもりの)弓子が和矢たちに初めて会ったときに、『叔母さん』でなく名前で呼んでほしい、と要望(熱望)して以来、和矢も美矢も『弓子さん』と呼ぶようになった。
「まだ〆切前の原稿が仕上がっていないって、言ってませんでしたか?」
「……言ってました」
優秀なマネージャー兼甥っ子に追いたてられるように、ノートパソコンを持って仕事部屋に戻る。
眠気を押しのけてキーボードを叩き続け、何とか原稿を仕上げる。保存後再度見直してから、送信のためにメールソフトを立ち上げる、と。ついでに新着メールのチェックをする。
「……? 珍しい人から来てるなあ……」
昔の同僚の紹介で会ったことのある女性編集者からだった。一度仕事にも誘われたが、企画に今一つ乗り気がせず断ったまま、以後連絡をとりあってもいなかった。
「ふーん、面白そうな企画じゃない……?」
各地の有名観光スポットの影に隠れた、知る人ぞ知る穴場を発見する、をコンセプトに新しい情報企画を立ち上げる、という。
その為、地元在住のライターにガイド兼ルポを依頼し、より地元目線の観光案内にしていく、ついては貴殿に原稿を依頼したく、と言うのがメールの趣旨だった。
カメラマンも地区ごとで違うスタッフを派遣し、より独自性を際立たせていくという。
希望のカメラマンがいればなるべく要望に沿うし、特に希望がなければ編集側からピックアップした候補から選んでもらってよい、と圧縮された数名分のポートフォリオのフォルダまで添付されていた。どれも聞き覚えのない名前で、まだ駆け出しの新人を中心にセレクトされているようだ。
早速解凍し開いてみる。景色と人物が数点ずつの簡易版だったが、それなりに個性が表れていた。気になったカメラマンの名をメールすると、仕事中だったのか、10分ほどでさらにボリュームを増やしたポートフォリオが送られてきた。
ざっと目を通した後、再び、今度はゆっくり画像を眺め、弓子はメールを返信した。
「それでね、打ち合わせしに、カメラマンがこっちまで来てくれるんだって」
翌朝。
登校前の和矢と美矢を捕まえて、弓子は報告した。
「来週の水曜日、夜遅くなるけど、お願いね」
「構いませんけど……飲みすぎないように」
やんわり和矢に釘を刺され、弓子は苦笑する。
以前、和矢達が文化祭で遅くなるのをいいことに友人と飲みに出掛け、気が付いたら午前様になっていたのだ。
あの時は、和矢から何度もスマホにコールがあったのに気が付かず、悪いことをした。
「そういえば、彼、元気だった?」
「は……?」
突然話題が変わり、和矢は鼻白む。
「ええと、俊君、って言ったっけ?怪我した子」
「ああ、元気でしたよ。もう傷も目立たなくなっていたし……あの時はありがとうございました」
深々と頭を下げられ、弓子は居心地が悪かった。
正直、酔っぱらっていて、ほとんど役には立っていなかったのだから。
やったことと言えば、和矢と口裏合わせたことぐらいで……。
事情がありそうだったので深く追求しなかったけれど、学校に俊の親の振りをして休みの連絡を入れたのと、後日俊の家から連泊のお詫びとお礼の電話をもらった時に話を合わせただけ。
……常識的な保護者としてはいささか問題がないでもない行動かも知れないが。
そこらへんは、弓子らしいおおらかさでノープロブレムとしていた。
美矢をかばって不良と喧嘩したなんて、今時の高校生も、なかなか男気がある、と変な感心もしていたし。暴力沙汰自体はよくないけど、それも青春だろう。
慣れない土地にやってきてどうなるかと気を揉んでいたが、冷静沈着な和矢が慌てふためいて全力でかばいたい友人ができたことは喜ばしい。美矢は美矢で、ひたむきに看病していたその目には、明らかな思慕の念が浮かんでいた。まさに青春真っ盛りすぎて、ついニマニマと思い出し笑いをしてしまう。
兄が家を飛び出した理由の一因に、青春を謳歌した結果もあるものの、やはり父との確執の印象が強く、楽しい高校生活とは言えなかったように感じる。
願わくば、二人には青春しつつも平穏無事に高校生活を楽しんでもらいたい……。
そんな弓子のささやかな願いが、やがて脆く崩れていくことに、まだ彼女は気が付いてはいない。
平和な日常が、終わりに近づいていることに。
奇しくも、その一端を担うのが、弓子自身であることも……。
弓子は……そして、誰も、気付いては、いなかった。
後十日もすれば八月が終わる、と言う頃。
首都圏に比べて夏が短いこの地方は、夏休みも短い。今日の始業式では、久々に友人たちと会い、安否も確認した。
自室で時間割を見て明日の登校準備をしていた和矢の耳に、ドアの外からくぐもった低い声が届いた。
残暑厳しいこの時期でも、夜になると風はすでに秋めいている。
「はいはい、今持って行きますから、少し待ってください」
この数日、ほぼ毎晩、儀式のように繰り返される要望に、和矢は手を止めることなく、機械的に返答した。1分ほどで準備を終えると、部屋を出る。
リビングの中央で、冷え性の弓子が、毛布にくるまってラグマットに寝そべり、横向きで床に置いたノートパソコンに向き合っていた。毛布の毛羽立ちがまるで大きな猫が丸まっているようにも見えるその塊を横目に、和矢はキッチンスペースに向かった。
「う、さむ……」
元々生まれ育った土地なのに、大学進学後から都会で過ごした十数年のうちに体は暑い夏に馴染んでしまったのか、それとも年のせいなのか(とは、考えたくもないが)、帰郷してから、特にここ数年、夏がつらい。
一日中暖かくさえしていれば、ぬくぬくとやり過ごせる冬と違って、昼間の暑さで熱を帯びた肌を夜の冷気が包む様は、涼しいを通り越して、寒い。
コトン、と目の前のテーブルの上に、マグカップが置かれた。
「そんなこと言ってて、昼間は超低温でクーラーなんか使うから、身体の芯が冷えてるんですよ。適度に栄養と水分摂って、キチンと汗をかけば、余分な水分は出ていくから、そんなに冷えないと思いますけど」
もっと暑い国で生活していた甥っ子からお説教をいただくのは情けないが、今はマグカップに心を奪われているので気にならない。がばっと起き上がり、冷えた指先をマグカップのぬくもりで温めながら、そっと口に含む。
中身は、甥っ子特製のスパイスミルクティーだ。
「でも、これのおかげで、この夏は乗りきれそう。去年よりはずっと体が楽だもの」
彼の入れるミルクティーは生姜やシナモンなど、体を温めるスパイスが入っている。
弓子も真似してみたが、どうやっても、スパイスの味や匂いがくどくなってしまい、美味しくない。様々な種類のスパイスの調合は、和矢にしかできないと、最近あきらめた。
気にならない程度にスパイスを控えると、体がちっとも温まらないし、和矢に頼むのが一番早道だった。
「おいしぃ……やっぱり、和矢の入れたお茶が一番」
「誉めてもらうのは嬉しいけど、生活習慣も見直した方がいいです」
「地球温暖化と猛暑が悪いんだもん。熱中症対策だもん」
「室温20度設定は低すぎです」
にっこり笑いつつ、手厳しい意見を述べる甥っ子を、弓子は身をすくめるようにして眺める。
……顔は兄さんには似てないけど、性格はそっくりだわ……。
エキゾチックな美貌はおそらく母譲りなのだろう。
華がありすぎる、と言ってもいいくらい綺羅びやかな顔立ち。
ともすると艶な雰囲気になりかねない華やかな風貌が覆い隠しているが、実は結構正論を吐く、生真面目な性格だったりする。
ただ、その美貌と人当たりの良さが、よく言えば柔和に、悪く言えば軟弱に見せてしまう。
……怒ってるように見えないところが、怖いのよね、後々……。
肩をすくめて、キッチンへ戻った甥っ子の背中に、弓子は兄の面影を見つけ、思いを馳せる。
フリーのルポライターとして、そこそこの収入はあるものの、実際生活を支えているのは、亡き父の代までは代表取締役をしていた会社の、株式分配金である。
創業者の直系であると言うだけで、実務には全く手も口も出していないが、一応全体の半分近くを保有する大株主になる。
今のところ安定した経営状態ではあるが、いつどうなるか分からないご時世である。
本業の方だけでも食べていけるように、せっせと仕事をこなさないといけない。
和矢と美矢の父……弓子の兄の真矢の失踪により、会社の株式をはじめ、亡父の名義の財産は、そっくり弓子に引き継がれていた。
父の晩年の子である弓子の成人を待たずに、父は亡くなり、本来跡を継ぐはずの兄は、数年前に家を出て、海外に行って音信不通だった。兄の相続分は母が預かり、その後の母の死去に伴い、弓子に引き継がれた。
音信不通の期間が長く、手続きすれば書類上は兄の相続放棄も可能だったが、手続きすることで兄との繋がりが絶たれてしまいそうで当時は踏み切れなかった。
幼いころから優秀で将来を嘱望されていたにもかかわらず、父と反りが合わず、高校を卒業すると同時に兄は姿を消した。
時折、兄の友人経由で弓子に届いていた手紙の消印から、兄が海外を転々としている様子が窺えたが、住所は分からず、弓子から兄へ連絡する術はなかった。
いつか独り立ちしたら、兄の足跡を追って海外に行こう、それが弓子のひそかな将来の目標になった。語学を学び、海外で働く希望をもち、兄同様会社を引き継ぐ気のない弓子を、母は受け入れてくれた。
夫と、愛する息子の確執に心を痛めていた母だったが、真矢の行動は、甘んじて受け入れているようであった。
「お兄ちゃんには、お兄ちゃんの理由があるのよ」
それは、弓子の希望を受け入れるのとは違った、妙な納得というか、予見を感じていた節があった。
後年、様々な方面から兄と父の確執の理由を耳にして、母の態度も腑に落ちた。生真面目な兄には、父を許せない理由があり、そんな兄の態度に嘆きつつも救われていた母の思いもあったのだと。
母は、夫の死後、役員として会社に籍を置いていたが、弓子が働くようになって数年で引退した。会社の実権は、当時の役員に引き継がれている。
母の死の直後は、創業者一族の末裔として経営に携わるべきと、役員からも親類からも助言(というか苦言)を受けたが、すでに他人の手で動き出している組織に、経営素人の弓子の入る余地も意欲もないし、若くて扱いやすい神輿として担がれるのはさらに御免だった。
いっそ株式も手放し、会社と縁を切ろうかとも考えたが、持ち株比率が高すぎて、分散するといらぬ騒動になる、経営に携わらなくてもいいので、せめてそのまま保持してほしいと依願され、現在に至る。
まあ、株式分配金をもらうだけで経営に口出ししない大株主が経営陣にとっては都合がいいことは承知している。
別にそのことに異論はないものの、いつどうなるか分からない……しかも、自分ではどうにもできないものに頼っているのは、何だか腰が座らなくて落ち着かない。
そろそろ40歳目前……いわゆるアラフォーというやつである……弓子は、一応世間と言うものを見てきたつもりだ。
客観的に、会社の状態が、決して良好でないことも知っている。
和矢と美矢の生活費や学費は、別方面から潤沢過ぎるくらい振り込まれているため、その点で弓子には負担はかかっていない。
かつて賃貸の事務所として使っていた、この建物を住居用にリフォームする費用も、実は出してもらった。
不況で借り手が安定しないまま、アパートを借りているより、いっそここに住んでしまった方が経済的だと、事務所用のまま、使っていたのだけど。
元々住んでいた家は、相続税の支払いに充てるため、処分していた。
処分のために、やむにやまれず、兄の行方不明による相続放棄の手続きをした。
株式を売却しても良かったが、家の維持費を考えると身軽な方が良いと、考えたのだ。
母が生きていれば、家を処分することはしなかったかも知れないが。
まさか、和矢と美矢が一緒に住むようになるとも予想していなかったし。
だが、今考えれば、経営陣の口車に乗ったりせず、景気のいいうちに株式の方を処分しておけば良かったかも、とも思う。まあ、最終的に決めたのは自分だから、今更恨みがましいことも言いたくはない。
天涯孤独のつもりだったから、身軽な方を選んだけど。でも。
和矢と美矢という身内がいると知っていたら、こんな無機質な建物じゃなくて、広い庭のある、あの家を遺してあげたかった……。
「弓子さん! 眠っちゃダメですよ!」
和矢の声で、ハッと気が付く。
いつの間にか、居眠りしていた。
まだ若い(つもりの)弓子が和矢たちに初めて会ったときに、『叔母さん』でなく名前で呼んでほしい、と要望(熱望)して以来、和矢も美矢も『弓子さん』と呼ぶようになった。
「まだ〆切前の原稿が仕上がっていないって、言ってませんでしたか?」
「……言ってました」
優秀なマネージャー兼甥っ子に追いたてられるように、ノートパソコンを持って仕事部屋に戻る。
眠気を押しのけてキーボードを叩き続け、何とか原稿を仕上げる。保存後再度見直してから、送信のためにメールソフトを立ち上げる、と。ついでに新着メールのチェックをする。
「……? 珍しい人から来てるなあ……」
昔の同僚の紹介で会ったことのある女性編集者からだった。一度仕事にも誘われたが、企画に今一つ乗り気がせず断ったまま、以後連絡をとりあってもいなかった。
「ふーん、面白そうな企画じゃない……?」
各地の有名観光スポットの影に隠れた、知る人ぞ知る穴場を発見する、をコンセプトに新しい情報企画を立ち上げる、という。
その為、地元在住のライターにガイド兼ルポを依頼し、より地元目線の観光案内にしていく、ついては貴殿に原稿を依頼したく、と言うのがメールの趣旨だった。
カメラマンも地区ごとで違うスタッフを派遣し、より独自性を際立たせていくという。
希望のカメラマンがいればなるべく要望に沿うし、特に希望がなければ編集側からピックアップした候補から選んでもらってよい、と圧縮された数名分のポートフォリオのフォルダまで添付されていた。どれも聞き覚えのない名前で、まだ駆け出しの新人を中心にセレクトされているようだ。
早速解凍し開いてみる。景色と人物が数点ずつの簡易版だったが、それなりに個性が表れていた。気になったカメラマンの名をメールすると、仕事中だったのか、10分ほどでさらにボリュームを増やしたポートフォリオが送られてきた。
ざっと目を通した後、再び、今度はゆっくり画像を眺め、弓子はメールを返信した。
「それでね、打ち合わせしに、カメラマンがこっちまで来てくれるんだって」
翌朝。
登校前の和矢と美矢を捕まえて、弓子は報告した。
「来週の水曜日、夜遅くなるけど、お願いね」
「構いませんけど……飲みすぎないように」
やんわり和矢に釘を刺され、弓子は苦笑する。
以前、和矢達が文化祭で遅くなるのをいいことに友人と飲みに出掛け、気が付いたら午前様になっていたのだ。
あの時は、和矢から何度もスマホにコールがあったのに気が付かず、悪いことをした。
「そういえば、彼、元気だった?」
「は……?」
突然話題が変わり、和矢は鼻白む。
「ええと、俊君、って言ったっけ?怪我した子」
「ああ、元気でしたよ。もう傷も目立たなくなっていたし……あの時はありがとうございました」
深々と頭を下げられ、弓子は居心地が悪かった。
正直、酔っぱらっていて、ほとんど役には立っていなかったのだから。
やったことと言えば、和矢と口裏合わせたことぐらいで……。
事情がありそうだったので深く追求しなかったけれど、学校に俊の親の振りをして休みの連絡を入れたのと、後日俊の家から連泊のお詫びとお礼の電話をもらった時に話を合わせただけ。
……常識的な保護者としてはいささか問題がないでもない行動かも知れないが。
そこらへんは、弓子らしいおおらかさでノープロブレムとしていた。
美矢をかばって不良と喧嘩したなんて、今時の高校生も、なかなか男気がある、と変な感心もしていたし。暴力沙汰自体はよくないけど、それも青春だろう。
慣れない土地にやってきてどうなるかと気を揉んでいたが、冷静沈着な和矢が慌てふためいて全力でかばいたい友人ができたことは喜ばしい。美矢は美矢で、ひたむきに看病していたその目には、明らかな思慕の念が浮かんでいた。まさに青春真っ盛りすぎて、ついニマニマと思い出し笑いをしてしまう。
兄が家を飛び出した理由の一因に、青春を謳歌した結果もあるものの、やはり父との確執の印象が強く、楽しい高校生活とは言えなかったように感じる。
願わくば、二人には青春しつつも平穏無事に高校生活を楽しんでもらいたい……。
そんな弓子のささやかな願いが、やがて脆く崩れていくことに、まだ彼女は気が付いてはいない。
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なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
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