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第十章 交錯する狂気
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加奈と別れた後。
英人は、一人余韻を楽しんでいた。
初めて触れた、加奈の手。冷たい風にさらされ、冷え切ったその手を握り締めると、次第に熱を帯びて。
加奈に触れるのは、正直怖い。むやみに触れて、傷つけてしまわないか、壊してしまわないか、いつも恐れている。
最初の動機は、遠野和矢への当てつけだった、と思う。
唯一の、親しい同級生の少女。
そう聞いて、悪戯心で、近づいた、と思う。
メールを返してもらい、約束した喫茶店で、再会した時も、まだそんな気持ちが残ってていたと思う。けれど、一杯目のお茶を飲み終わる頃には、その笑顔が、ちょっと困ったように眉を顰める顔が、甘いものが好きだと聞いて少し驚いた顔が、色々な表情が、胸を打った。二杯目のお茶を半分飲み終わる頃には、もう彼女に夢中になっていた。懸命に掻き口説いて、次の約束を取り付けた。
まだ、荒々しい自分に支配される時はあったが、彼女を思うその瞬間だけは、彼女と過ごすその時間だけは、凪いだ自分になれた。
時々おびえるような表情を見せる加奈を慮って、無理強いはしないように心掛けた。
それでも、近付きたくて、思い切って遠出に誘うと、了承してくれた。舞い上がった気持ちに後押しされ、初めて手を握り、彼女も拒むことなく、思いを返してくれた。
……決意したはずなのに。希望を持てば持つだけ、その後に来る絶望は大きい。
だから、決して期待も希望も持たない。
大切な存在は、作らない、と。
そう思いながらも、手に入れてしまった<大切なもの>を、もう手離すことはできない。ならば、奪われないように守るだけだ。
……招かれざる客が来たようだ。
「隠れてないで、出てきたらどうだ?」
英人が声をかけると、路地から健太が顔を出した。
「相変わらず、鋭いな」
「そんな風に言うほど、まだほとんど思い出していないんだろう? 毎回毎回、人の恋路を邪魔するのが趣味なのか? おまけに、今日も彼女連れで」
「それもお互い様だろう? 毎度毎度、デレデレして。本当に、人が変わったように豹変するよな」
「人が変わったように、か。ま、相手次第で人は変わるさ。女嫌いのスカンダが、今は彼女に夢中だからな」
ムルガンが成長しスカンダとして軍神になったが、女性に興味がない、というより女性嫌いだった、と伝えられている(ただし別の逸話では妻が二人いる)。
「神話と俺個人を混同しないでくれよ。俺は、あくまでも人間なんだ」
「……どこまで分かっているんだ?」
インド神話の知識はあるらしいことを知って、からかっただけだったのに、健太の返答はそれ以上の何かを知っていることを示していた。
「いや、分かってないけど? ただ、俺は名前だけじゃなくて、俺の中の何かがムルガンにつながっていて。俊の中の何かがシヴァにつながっている。それは確かなんだ」
そう、確信をもって話す健太は、自分の感覚だけで、その事実を受け入れてしまっているらしい。
「お前はそこに疑問を持たないのか。……単細胞は強いな」
「考えすぎるよりいいだろ? 考えたって状況が変わらないなら、その状況でベストを尽くすしかないんだよ」
「少しは考えろよ。……まあ、昔から、お前は適応力だけは高かったからな」
どんな侮蔑の言葉をかけられても、笑顔を絶やさなかったイェット。
その笑顔に、強さに、あの頃の自分は、確かに救われていたのだ。その本質が変わっていないことに安心し……変わらないことを、妬ましく思う。
「まあ、それが取り柄だしな。それより、お前、気を付けた方がいいぞ。妙な女が、お前たちをすごい形相でにらんでいたからな」
「心配してくれるのか? 僕の味方をする気になったのか?」
「なわけないだろ。ただ、真実が心配しているからな。お前はどうだっていいけど、加奈さんが傷ついたら、真実が悲しむ」
「ご忠告痛み入るよ。お前にしては上出来の彼女だな」
「ああ、そうだよ。最高の彼女だよ。……真実はその女を『マリカ』って呼んでいたが。心当たりがあるなら、自分で何とかしろよ」
「『マリカ』? ……ああ、なるほど」
記憶の片隅からその名を拾い出し、すでに忘れ去っていた存在に、忌々しさを感じる。
つい遊び心で構ってしまったが、その後もしつこく付け回されたので、秘密裏に店自体移転させる羽目になった。直後に他にも店の様子を探っている存在が浮上し、早めに決断できたことはケガの功名であるが。それで諦めると思っていたのだが、甘かったらしい。もともと粘着質な傾向を感じていたが、口止めの効果がありすぎたようだ。
……いつもヤツはやりすぎなんだよ。
「……わかった、注意しよう。加奈が傷つくのは、俺も不本意だ」
「その優しさを、俊に見せてやったらどうなんだ?」
「……あれっきり、手は出していないだろう? それに、勘違いしているようだが、俺はアイツを守ろうとしているんだ。あちらの手に渡ってから覚醒したら、いいように操られるだけだ」
「それが、よく分からないんだよな。そもそも、おまえのいう『研究所』って、あれだろう? 例の『時計塔の地階』関係なんだろ?」
英人の顔色が変わった。「なぜ?」と小さくつぶやく。
「まあ、その小さい頃のことは、まだよく思い出せないんだけど、真矢と別れた後、一時入れられたんだよ。そこに。でも、結局何にも出なかったらしくて、一年でお払い箱……とっとと日本に送られて、あとは、お前のいう『飼い殺し』? な人生さ。でも、一応の安全な生活環境と教育は与えられたんだから、そこまで恨む気持ちもない」
「……そうか、笹木……確か、ちゃちな取引先の一つに、そんな名前があったな。すでに廃業していたと思うが」
「やっぱり、恩を売っておきたい取引相手って、お前の親か。『オミ・インターナショナル』、旧会社名『イガワ貿易』、現在業界第九位の貿易商社。ここ二十年で一気に業績を伸ばした、業界の風雲児、ってやつだろ?」
「ご明察。そこまで調べたんなら上出来だな。さっきの情報の礼に、もう少し教えてやるよ。その躍進力になったのは、とある秘密結社だ。ヤツは、井川鉄臣は、その組織に食い込んで、他社の業績を奪ってシェアを広げた。そのために、自分の部下を犠牲にしたり、役立たずのモルモットを養子にしたりしてな」
「養子……それがお前か?」
「ああ、そして、犠牲になった部下が……真矢だよ」
「……和矢達の、死んでいるはずの父親が所属している商社が『オミ・インターナショナル』か?」
「……そうだ。よくそこに気付いたな」
「親が商社勤めって触れ込みで転校してきたのは、結構知られているみたいだからな。両方にインドを市場にしている商社、なんてキーワードが出てきたら、関係性を疑うだろう?」
「本当に、お前はぼんやりしているように見せて、油断できないな」
「つまり、和矢達は、『あちら』の人間なのか?」
あまりショックを受けた様子がない健太に、英人は軽い苛立ちを覚えて、つい、余計なことまで話してしまう。
「少なくとも、真矢の死後、アイツらを連れ去ったのは、『研究所』の人間だ。ただし、あの組織は、一枚板じゃない。利権のバランスを取りながら、複数の組織が協定を結んで活動してる、複合組織だ」
「お前は、その組織に所属しているんじゃないのか?」
「そうだな。『オミ・インターナショナル』のトップは、今も井川鉄臣だが、それは俺の知っている男じゃない。食い込むつもりが、逆に食われたのさ。今や、組織の傀儡企業だ」
「……」
「組織のことは、僕よりも詳しい人間がいる。そちらに訊いたらどうだ?」
「え?」
「僕よりも親しいだろう? 元国際ジャーナリスト、遠野弓子。組織の真相に迫ったがために、新聞社を干されたが、まだ牙は残っているかな?」
やっと、ショックを受けた健太の表情が見られたことに溜飲が下がり、英人は、にやり、と皮肉げに笑った。
英人は、一人余韻を楽しんでいた。
初めて触れた、加奈の手。冷たい風にさらされ、冷え切ったその手を握り締めると、次第に熱を帯びて。
加奈に触れるのは、正直怖い。むやみに触れて、傷つけてしまわないか、壊してしまわないか、いつも恐れている。
最初の動機は、遠野和矢への当てつけだった、と思う。
唯一の、親しい同級生の少女。
そう聞いて、悪戯心で、近づいた、と思う。
メールを返してもらい、約束した喫茶店で、再会した時も、まだそんな気持ちが残ってていたと思う。けれど、一杯目のお茶を飲み終わる頃には、その笑顔が、ちょっと困ったように眉を顰める顔が、甘いものが好きだと聞いて少し驚いた顔が、色々な表情が、胸を打った。二杯目のお茶を半分飲み終わる頃には、もう彼女に夢中になっていた。懸命に掻き口説いて、次の約束を取り付けた。
まだ、荒々しい自分に支配される時はあったが、彼女を思うその瞬間だけは、彼女と過ごすその時間だけは、凪いだ自分になれた。
時々おびえるような表情を見せる加奈を慮って、無理強いはしないように心掛けた。
それでも、近付きたくて、思い切って遠出に誘うと、了承してくれた。舞い上がった気持ちに後押しされ、初めて手を握り、彼女も拒むことなく、思いを返してくれた。
……決意したはずなのに。希望を持てば持つだけ、その後に来る絶望は大きい。
だから、決して期待も希望も持たない。
大切な存在は、作らない、と。
そう思いながらも、手に入れてしまった<大切なもの>を、もう手離すことはできない。ならば、奪われないように守るだけだ。
……招かれざる客が来たようだ。
「隠れてないで、出てきたらどうだ?」
英人が声をかけると、路地から健太が顔を出した。
「相変わらず、鋭いな」
「そんな風に言うほど、まだほとんど思い出していないんだろう? 毎回毎回、人の恋路を邪魔するのが趣味なのか? おまけに、今日も彼女連れで」
「それもお互い様だろう? 毎度毎度、デレデレして。本当に、人が変わったように豹変するよな」
「人が変わったように、か。ま、相手次第で人は変わるさ。女嫌いのスカンダが、今は彼女に夢中だからな」
ムルガンが成長しスカンダとして軍神になったが、女性に興味がない、というより女性嫌いだった、と伝えられている(ただし別の逸話では妻が二人いる)。
「神話と俺個人を混同しないでくれよ。俺は、あくまでも人間なんだ」
「……どこまで分かっているんだ?」
インド神話の知識はあるらしいことを知って、からかっただけだったのに、健太の返答はそれ以上の何かを知っていることを示していた。
「いや、分かってないけど? ただ、俺は名前だけじゃなくて、俺の中の何かがムルガンにつながっていて。俊の中の何かがシヴァにつながっている。それは確かなんだ」
そう、確信をもって話す健太は、自分の感覚だけで、その事実を受け入れてしまっているらしい。
「お前はそこに疑問を持たないのか。……単細胞は強いな」
「考えすぎるよりいいだろ? 考えたって状況が変わらないなら、その状況でベストを尽くすしかないんだよ」
「少しは考えろよ。……まあ、昔から、お前は適応力だけは高かったからな」
どんな侮蔑の言葉をかけられても、笑顔を絶やさなかったイェット。
その笑顔に、強さに、あの頃の自分は、確かに救われていたのだ。その本質が変わっていないことに安心し……変わらないことを、妬ましく思う。
「まあ、それが取り柄だしな。それより、お前、気を付けた方がいいぞ。妙な女が、お前たちをすごい形相でにらんでいたからな」
「心配してくれるのか? 僕の味方をする気になったのか?」
「なわけないだろ。ただ、真実が心配しているからな。お前はどうだっていいけど、加奈さんが傷ついたら、真実が悲しむ」
「ご忠告痛み入るよ。お前にしては上出来の彼女だな」
「ああ、そうだよ。最高の彼女だよ。……真実はその女を『マリカ』って呼んでいたが。心当たりがあるなら、自分で何とかしろよ」
「『マリカ』? ……ああ、なるほど」
記憶の片隅からその名を拾い出し、すでに忘れ去っていた存在に、忌々しさを感じる。
つい遊び心で構ってしまったが、その後もしつこく付け回されたので、秘密裏に店自体移転させる羽目になった。直後に他にも店の様子を探っている存在が浮上し、早めに決断できたことはケガの功名であるが。それで諦めると思っていたのだが、甘かったらしい。もともと粘着質な傾向を感じていたが、口止めの効果がありすぎたようだ。
……いつもヤツはやりすぎなんだよ。
「……わかった、注意しよう。加奈が傷つくのは、俺も不本意だ」
「その優しさを、俊に見せてやったらどうなんだ?」
「……あれっきり、手は出していないだろう? それに、勘違いしているようだが、俺はアイツを守ろうとしているんだ。あちらの手に渡ってから覚醒したら、いいように操られるだけだ」
「それが、よく分からないんだよな。そもそも、おまえのいう『研究所』って、あれだろう? 例の『時計塔の地階』関係なんだろ?」
英人の顔色が変わった。「なぜ?」と小さくつぶやく。
「まあ、その小さい頃のことは、まだよく思い出せないんだけど、真矢と別れた後、一時入れられたんだよ。そこに。でも、結局何にも出なかったらしくて、一年でお払い箱……とっとと日本に送られて、あとは、お前のいう『飼い殺し』? な人生さ。でも、一応の安全な生活環境と教育は与えられたんだから、そこまで恨む気持ちもない」
「……そうか、笹木……確か、ちゃちな取引先の一つに、そんな名前があったな。すでに廃業していたと思うが」
「やっぱり、恩を売っておきたい取引相手って、お前の親か。『オミ・インターナショナル』、旧会社名『イガワ貿易』、現在業界第九位の貿易商社。ここ二十年で一気に業績を伸ばした、業界の風雲児、ってやつだろ?」
「ご明察。そこまで調べたんなら上出来だな。さっきの情報の礼に、もう少し教えてやるよ。その躍進力になったのは、とある秘密結社だ。ヤツは、井川鉄臣は、その組織に食い込んで、他社の業績を奪ってシェアを広げた。そのために、自分の部下を犠牲にしたり、役立たずのモルモットを養子にしたりしてな」
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「親が商社勤めって触れ込みで転校してきたのは、結構知られているみたいだからな。両方にインドを市場にしている商社、なんてキーワードが出てきたら、関係性を疑うだろう?」
「本当に、お前はぼんやりしているように見せて、油断できないな」
「つまり、和矢達は、『あちら』の人間なのか?」
あまりショックを受けた様子がない健太に、英人は軽い苛立ちを覚えて、つい、余計なことまで話してしまう。
「少なくとも、真矢の死後、アイツらを連れ去ったのは、『研究所』の人間だ。ただし、あの組織は、一枚板じゃない。利権のバランスを取りながら、複数の組織が協定を結んで活動してる、複合組織だ」
「お前は、その組織に所属しているんじゃないのか?」
「そうだな。『オミ・インターナショナル』のトップは、今も井川鉄臣だが、それは俺の知っている男じゃない。食い込むつもりが、逆に食われたのさ。今や、組織の傀儡企業だ」
「……」
「組織のことは、僕よりも詳しい人間がいる。そちらに訊いたらどうだ?」
「え?」
「僕よりも親しいだろう? 元国際ジャーナリスト、遠野弓子。組織の真相に迫ったがために、新聞社を干されたが、まだ牙は残っているかな?」
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