58 / 58
終
火種
しおりを挟む
「和矢は、まだ日本にとどまるようだね?」
夕日が差しこむ、僧房の最も奥まった一室。
豪奢ではないが、手入れの行き届いたテラコッタの壁は、夕日を受けて赤みを増している。その窓辺に腰かけ、部屋の主は、ふとつぶやいた。
流暢な日本語で言葉を紡ぐ時、それは、主が人払いを望む時。
心得たように、側仕え達は、席を辞す。残されたのは、この場で主以外に最も日本語に長けた、側近中の側近である、僧形の若い男性のみ。定時よりも早い時刻に呼び出されたのは、この報告を促すためだったのだろう。
「はい。和矢様の意志を汲み、最大限の猶予を求める、と唐沢斎、直々に」
「和矢と同じ年だったね。なかなか良い友を得たようだ」
「友、でございますか?」
「ああ、あの者は、忠誠心では動かないからね。興味関心が持てなければ、即刻送り返して厄介払いしたことだろう。まずは、第一関門突破、というところかな」
「日本一の暗殺者集団の総領の関心、ですか。それが我らに与する条件でしたね。なるほど」
「今は暗殺よりも諜報や護衛が主だというがね。それに、暗殺者集団、は聞こえが悪い。日本では、『隠密』とか『忍び』と呼ぶらしいよ。和矢が喜びそうな言葉だね」
「それは、いわゆる『ニンジャ』というものでしたね。今はもう失われた存在だと聞きましたが」
「だからこその『忍び』なんだよ」
「……申し訳ございません。日本語の言い回しはまだまだ難しいものが多くて」
「いいんだよ、サッティヤが覚える必要はない。ああ、でも和矢とこういう、他愛もない話をしたかったな。そうすれば、ここを出て、日本に行きたいなんて、言わなかったかもしれないのに」
「それは、どうでしょうか? 若者は、一度は世間に出てみたいと思うものです」
「はは、まだ君だって、十分若いじゃないか。ムルガンやエイトとそう違わないはずだ。ねえ、フォー?」
「……その名で呼ぶのはおやめください。もう捨てた呼び名です」
「そうだね。そのまま使っているのは、エイトくらいなものか。あの男も芸がないな。何もそのまま名前にしなくてよいものを」
「むしろ、だからなのでは? 我ら『ロスト』にとって、あの頃の呼び名は、忌まわしい思い出でしかありませんから」
「……僕がもう少し早く目覚めていれば、エイトにもあんなツライ思いをさせずに済んだのにね」
「いえ、最初の目覚めで、我らの解放を命じていただけただけでもありがたいことです。そのうえ、わたくしには、新たな名前もいただきました」
「サッティヤーストラ。我ながら、いい名前を付けただろう? アストラよりもサッティヤを通称にすればよかったのに」
「若輩者のわたくしが、真理などと、あまりにもおこがましく……」
サッティヤは真理、真実を、アストラは、星、光または矢を意味する。
それを繋げて呼ぶと、サッティヤーストラとなる。
通称アストラ師の本名である。いや、厳密には本名ではなく、主から与えられた名前。
以前は四番、失われた能力者の、四番目の能力者候補の子供。さらにその前の、本来の名前は、すでに分からない。
もしかしたら、名付け自体、されなかったのかもしれない。
だから、今のこの名が、主……我が君から与えられたこの名が、本名だと思うことに決めている。
「ところで、どうも西に、不穏な気配があるね。東に西にと、慌ただしいことだ」
「西……『黄昏の薔薇』でございますか? それとも『時計塔の地階』?」
「『地階』、の方かな? どうも、あの団体は昔から落ち着きがない。影にいるよりも、表の名誉を欲しがる者が多いせいかな。……何だか、きな臭いことになりそうだよ」
ため息をつきながら、軽く瞼を伏せる姿、その精巧で線の細い、だが凛とした佇まいは、老いを知らぬかのように、出会った時のままである。その麗しい顔は、愁いを帯びてなお美しく、見る者の心を捕えて離さない。
日没が近づき、室内はどんどん闇が濃くなる。人払いを解いて、灯りの準備を側仕えに命じなければ……そう思いつつも、その美貌に魅入られるように、アストラ師は身動きできない。
しかし、どれほどその美麗に花を添えようとも、やはり主の物思いは取り除くべきである。取り除かねばならない。
全ては、我が君の心の安寧のために。
アストラ師は――主と同じ意味の名を与えられた、サッティヤーストラは、そう決意する。
主が心を砕き守ってきた思いを知りもせず、自由を求めて東に旅立っていった二人のアストラ――和矢と美矢に思いをはせる。その身勝手さに、軽い怒り覚え。
その奥底でジリジリと燻ぶる、羨望と嫉妬の火種には、気付くことなく。
――――日沈む国から、日出ずる国へ、争いの火種が向かう、そう遠くない未来にこの時気付いていたのかどうか……二人の姿は、夕闇に溶けるように、沈んでいった。
第一部 完
夕日が差しこむ、僧房の最も奥まった一室。
豪奢ではないが、手入れの行き届いたテラコッタの壁は、夕日を受けて赤みを増している。その窓辺に腰かけ、部屋の主は、ふとつぶやいた。
流暢な日本語で言葉を紡ぐ時、それは、主が人払いを望む時。
心得たように、側仕え達は、席を辞す。残されたのは、この場で主以外に最も日本語に長けた、側近中の側近である、僧形の若い男性のみ。定時よりも早い時刻に呼び出されたのは、この報告を促すためだったのだろう。
「はい。和矢様の意志を汲み、最大限の猶予を求める、と唐沢斎、直々に」
「和矢と同じ年だったね。なかなか良い友を得たようだ」
「友、でございますか?」
「ああ、あの者は、忠誠心では動かないからね。興味関心が持てなければ、即刻送り返して厄介払いしたことだろう。まずは、第一関門突破、というところかな」
「日本一の暗殺者集団の総領の関心、ですか。それが我らに与する条件でしたね。なるほど」
「今は暗殺よりも諜報や護衛が主だというがね。それに、暗殺者集団、は聞こえが悪い。日本では、『隠密』とか『忍び』と呼ぶらしいよ。和矢が喜びそうな言葉だね」
「それは、いわゆる『ニンジャ』というものでしたね。今はもう失われた存在だと聞きましたが」
「だからこその『忍び』なんだよ」
「……申し訳ございません。日本語の言い回しはまだまだ難しいものが多くて」
「いいんだよ、サッティヤが覚える必要はない。ああ、でも和矢とこういう、他愛もない話をしたかったな。そうすれば、ここを出て、日本に行きたいなんて、言わなかったかもしれないのに」
「それは、どうでしょうか? 若者は、一度は世間に出てみたいと思うものです」
「はは、まだ君だって、十分若いじゃないか。ムルガンやエイトとそう違わないはずだ。ねえ、フォー?」
「……その名で呼ぶのはおやめください。もう捨てた呼び名です」
「そうだね。そのまま使っているのは、エイトくらいなものか。あの男も芸がないな。何もそのまま名前にしなくてよいものを」
「むしろ、だからなのでは? 我ら『ロスト』にとって、あの頃の呼び名は、忌まわしい思い出でしかありませんから」
「……僕がもう少し早く目覚めていれば、エイトにもあんなツライ思いをさせずに済んだのにね」
「いえ、最初の目覚めで、我らの解放を命じていただけただけでもありがたいことです。そのうえ、わたくしには、新たな名前もいただきました」
「サッティヤーストラ。我ながら、いい名前を付けただろう? アストラよりもサッティヤを通称にすればよかったのに」
「若輩者のわたくしが、真理などと、あまりにもおこがましく……」
サッティヤは真理、真実を、アストラは、星、光または矢を意味する。
それを繋げて呼ぶと、サッティヤーストラとなる。
通称アストラ師の本名である。いや、厳密には本名ではなく、主から与えられた名前。
以前は四番、失われた能力者の、四番目の能力者候補の子供。さらにその前の、本来の名前は、すでに分からない。
もしかしたら、名付け自体、されなかったのかもしれない。
だから、今のこの名が、主……我が君から与えられたこの名が、本名だと思うことに決めている。
「ところで、どうも西に、不穏な気配があるね。東に西にと、慌ただしいことだ」
「西……『黄昏の薔薇』でございますか? それとも『時計塔の地階』?」
「『地階』、の方かな? どうも、あの団体は昔から落ち着きがない。影にいるよりも、表の名誉を欲しがる者が多いせいかな。……何だか、きな臭いことになりそうだよ」
ため息をつきながら、軽く瞼を伏せる姿、その精巧で線の細い、だが凛とした佇まいは、老いを知らぬかのように、出会った時のままである。その麗しい顔は、愁いを帯びてなお美しく、見る者の心を捕えて離さない。
日没が近づき、室内はどんどん闇が濃くなる。人払いを解いて、灯りの準備を側仕えに命じなければ……そう思いつつも、その美貌に魅入られるように、アストラ師は身動きできない。
しかし、どれほどその美麗に花を添えようとも、やはり主の物思いは取り除くべきである。取り除かねばならない。
全ては、我が君の心の安寧のために。
アストラ師は――主と同じ意味の名を与えられた、サッティヤーストラは、そう決意する。
主が心を砕き守ってきた思いを知りもせず、自由を求めて東に旅立っていった二人のアストラ――和矢と美矢に思いをはせる。その身勝手さに、軽い怒り覚え。
その奥底でジリジリと燻ぶる、羨望と嫉妬の火種には、気付くことなく。
――――日沈む国から、日出ずる国へ、争いの火種が向かう、そう遠くない未来にこの時気付いていたのかどうか……二人の姿は、夕闇に溶けるように、沈んでいった。
第一部 完
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる