オリエント撤退

せりもも

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17 エル=アリシュ条約

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 ガザで上陸した一行は、そこから馬で、大宰相グラン・ビジエのテントへ向かった。フランスとトルコの講和条約には、フランスの全権大使の他、トルコの大宰相の署名が必要だったからだ。

 俺は一番後ろから、列について行った。バキルはラクダに乗るが、フェリポーは乗馬の方が巧みだ。

 到着したキャンプ地は、棘のついた鎖で囲われていた。大砲を乗せた馬車やラバやラクダがあちこちを走り回っている。
 辺りは騒然としていた。

 遠くから独特の節回しが、地を這うがごとく流れてきた。辺りを見回すと、一塊の女たちがこちらを睨んでいた。彼女たちの体全体から、フランス将校に向けた激しい敵意と憎悪が感じられる。

「百通りの呪いをかけられた気分だ」
ドゼがぼやいた。

 少し遅れて歩いていた俺は、ふと、地面に秩序なく槍が尽きさしてあるのに気がついた。何気なく近づき、上を見上げた。

 はじめは何かわからなかった。近づき、しげしげと眺めると……、

 衝撃だった。
 空に向けられた槍の穂先には……干からびた首が刺さっている。それが、いくつもいくつも。

「フランス兵の首だな。彼らが本当に欲しかったのはボナパルトの首だったろうに」
 声を出せずにいる俺に近づき、シドニーがつぶやいた。

 彼は振り返り、同じように立ち止まり、干からびた首を凝視しているフランス側の全権大使たちに向き合った。
「ここでは、西欧の常識は通用しません。このような混沌の中で、青い軍服(青はフランス将校の軍服の色)を着た者の命は保証できません。いかなる衝突や混乱も、我々全員を危険にさらすことになる。肝に銘じておいて下さい」



 大宰相のキャンプ地では、ひどい知らせが待ち受けていた。
 トルコ軍が、エル=アリシュのフランス側の要塞に侵入、武力で占領したというのだ※。それも、ティグル号で、フランスとトルコの代表により、休戦が定められた後のことだ。

 「地中海に面したエル=アリシュの港が、前から欲しかったのだ。フランス軍が撤退するという知らせは、当時はまだ、儂のところまで届いていなかった」
 トルコの大宰相グラン・ビジエは、けろりとして言い放った。

 トルコの横暴は、フランスとしては、より有利な条件を引き出す好機といえた。ドゼはこの機会を捕えようとした。
 しかし、あろうことか、トルコ側は、フランスを敗戦国扱いしようとした。

「ロシアとイギリスはトルコの味方だ。フランス軍は孤立し、敗北した。エジプトのフランス軍は、すべての武器を放棄すべきである」
 そう言い放ったのは、ティグル号で交渉役を担ったトルコの大臣だった。すでに20日近く、シドニー・スミスやドゼらフランスの全権大使と共に過ごしている。

 この侮辱的な言葉に、ドゼの顔は赤らんだ。
「あり得ない。フランス軍は、断じてトルコに敗北したわけではない」
「何を言うか。フランス兵は、わがトルコ軍の捕虜である」

「そういう話ではなかったはずだ。スミス代将!」
ドゼはシドニー・スミスを睨みつけた。
「これは、名誉ある撤退ではなかったのか。貴方は、我々を騙したのだな?」

 さっとドゼは立ち上がった。呆気に取られているもう一人の大使、プシエルグを残したまま、テントから出て行く。
 テントの外で聞き耳を立てていた副官と俺の脇を通り抜け、ずんずんと前へ進んでいく。俺とドゼの副官は顔を見合わせた。

 再び天幕が揺れ、シドニー・スミスが走り出てきた。
「待ってくれ、ドゼ将軍! 一人で外へ出たら危険だ!」

「侮辱されるくらいなら死を選ぶ!」
振り返ってドゼが叫ぶ。
 シドニーも負けてはいない。
「頭を冷やせ! 言ったろ。君だけの問題じゃない! このような未開の民族の中での単独行動は、君の部下を含め、我々全員が危険に晒される」
「フランス人なら、自分の身くらい自分で守れるさ!」

 再び、俺と副官のサヴァリは顔を見合わせた。サヴァリは胸を張り、ドゼの後を追った。
 その後をシドニーが追いすがる。俺も後に続いた。

「エル=アリシュ要塞にトルコ軍が攻め入ったことは、私だって衝撃です。トルコ側とは、ティグル号の中で、あんなに協調的に話し合ってきたというのに! これは裏切りだ。このままでは、トルコ側に温かい気持ちで接することなどできません。貴方の気持はよくわかる」

 ぴたりとドゼの足が止まった。
「スミス代将、貴方はフランスの味方をするのか? 同盟国のトルコではなく?」

「当たり前です」
スミスは言った。
「私は、勇敢なフランス軍の名誉ある撤退を望んでいます」

 深いため息をドゼがついた。
「よかろう。テントへ戻ろう」




 しかし、ことは悪い方へ傾くばかりだった。
 エル=アリシュ要塞攻撃を楯に、撤退に有利な条件を引き出すどころか、トルコ側の言い分を受け容れ、一日も早く撤退できるようにせよとの指令が、フランス軍総司令官のクレベールから届いたのだ。

「信じられない」
自分たちのテントに戻り、ドゼは嘆いた。
「これでは名誉もくそもないじゃないか」

そこへ、シドニー・スミスがやってきた。
「大変です。今、トルコの大宰相グラン・ビジエのところで聞いてきたのですが、ボナパルトがクーデターを起こしたらしいですよ」(※)

「クーデター!? どういうことだ?」
「総裁政府を倒して、自らが実権を握ったということですよ。民意ではなく、武器の力でね!」

 ドゼの顔色が変わった。もとから血色の悪かった顔が、どす黒くなっている。
「それはいつ?」
「昨年の11月ですから……2ヶ月ほど前のことですね」
 フランスでの政変が、トルコにいるシドニー・スミスの元に届くまでにそれだけの日数がかかったのだ。
「私はティグル号で言いましたよね。ボナパルトが求めているのは独裁だ」
 得意げにシドニーが指摘する。

「シドニー・スミス代将」
ドゼは言った。改まった声だった。
「状況はめまぐるしく変転している。エル=アリシュ条約に署名する前に、エジプト総司令官クレベールと連絡を取る時間をくれ」


 不満げなシドニーがテントを出て行くと、俺はドゼに向き合った。
 「シドニーの提案しているのは、名誉ある撤退だぞ。彼の厚意を無視して、撤退に反対する気か?」

 ドゼは俯いた。
「なあ、君。バキル。じゃなくて、フェリポー。帰国に際してボナパルトは俺に伝言を残したんだよ。11月ブリュメールになったら帰ってこいって」

「ブリュメール……」
ボナパルトがクーデターを起こした月だ。

「俺はまた、彼の偉大な事業に参画し損なったのだろうか」
「馬鹿な! クーデターだぞ? あんたはエジプトに足止めしてくれたクレベールに感謝すべきだ。武力による政権奪取になんか加担したら、全ヨーロッパからも、後世からも非難されることになるんだぞ」

 激しい憤りを俺は感じた。ドゼはボナパルトのことを、ちっともわかってない。あの男の、悪魔のような非道さを。
 だが俺の怒りは届かないようだった。青ざめた顔をして、ドゼは首を横に振るばかりだ。

「問題は、だ。クレベールがエジプト撤退を相談しているのは、総裁政府だということだ。ボナパルトは撤退するなという指示を残した。そのボナパルトが政権を奪取したとなると……」




 詳細を確認し、講和条約へ署名してもよいのかと念を押す為に、ドゼは副官サヴァリをサルヘイ(エジプト北東部沿岸。トルコの大宰相のキャンプ地に近い)のクレベールの元へ走らせた。

 間もなくサヴァリが戻ってきた。
 エジプト撤退の責任が、自分一人に降りかかってこないように、クレベールは軍議を開いたという。
 サヴァリは、クレベールを支持するという、3人の師団長と6人の旅団長の署名入りの審議書を持参していた。
 

「私が出発しようとしたら、ダヴー准将が私を物陰に呼んで言いました」
 ひそひそとサヴァリが囁く。テントの外で、俺は聞き耳を立てた。
「ダヴー准将は撤退に反対です。彼は、トルコと断固戦うという意志を持つ者は自分だけではないと言っています」

「ここにダヴーの名前がある」
 審議書の一番下の署名欄を指し、ドゼは指摘した。
「もう遅い。なんてこった。賽は投げられた。悲しみはもう十分すぎるほどだが、それは俺のせいじゃない」

 ドゼは、審議書を火中に投じた。
 撤退は、ボナパルトの意志に反した行いだ。クレベールが撤退に乗り気なのは仕方がない。だが、彼を支持したことがわかったら、署名した諸将たちにも累が及ぶ。

「そもそも本国からの補給もないまま、どこまで戦えるか……」


 こうしてドゼは、エル=アリシュの講和条約にフランス全権大使として署名した。


 すぐに大宰相グラン・ビジエから、ガザからの清らかな水の入った水差しと12個のカルビルリンゴ(古い品種のリンゴ)、そして、慣習として賄賂が届けられた。ドゼは水とリンゴだけを受け取った。







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※1
実はトルコ軍をエル=アリシュ要塞に引き上げたのはフランスの守備兵でした。過酷な状況での戦いに、彼らはうんざりしていました。結果、トルコ軍との友好どころか彼らは惨殺されてしまうわけですが。そのあまりの残虐さに、居合わせたイギリス軍は敵であるにも関わらず人道の立場からフランス兵を救助しました。


※2
これがボナパルトのブリュメールのクーデターです。
大宰相のテントに齎された最初の情報はデマかもしれないと疑われていたようですが、その後シドニー・スミスはボナパルトのクーデターに関するヨーロッパの新聞をいくつか、ドゼに渡しています。




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