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帰れよ

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 結果から言えば、たとえ一晩とはいえ、溂と離れ離れになるということは、七緒の理解を超えていたようだった。
 家を出た溂の後を、七緒は、どこまでもついてきた。

 最初は、歩いてついてきた。
 例の、前へつんのめるような歩き方だ。

 空を飛ぶようにできている体は、歩行が得意ではない。
 すぐに溂との間が開いてしまった。

 すると、七緒は、羽を広げた。
 溂の頭上を、低空飛行で、どこまでもついてくる。

 すれ違う人が、目を丸くして見つめている。頭の上に人の姿をした鳥を飛ばせ、俯いて歩く溂の姿を。
 田舎なので、それほど多くの人とすれ違ったわけではないのが、救いだった。

 バスは、時間が正確ではない。時間通りに行ったら、すでに埃を上げて走り去ったあとだった。
 その上、半日に一本しか走っていない。
 だから、歩かざるをえなかった。
 七緒を頭の上に飛ばせて。




 山道に差し掛かった。
 峠を越えれば、単線だけど、鉄道の駅に出る。近道だ。

 このままバス通りを行けば、ずっと舗装された道路で、歩きやすい。だが、山を迂回しているので、距離がある。
 峠越えの近道は、いわゆるけもの道だ。ただし、バス通りを歩くより、ずっと近道になる。

 上を見上げ、溂は叫んだ。
「おおい、ナナ。もう帰れ。こっから先は、森の中だ。お前からは俺の姿が見えなくなる。いいかげんで、帰れよ」

 すでに、木々の梢が、山道を覆い始めていた。ここらの山は、常緑樹なので秋が深まっても葉が落ちることがない。

「たった一晩だって言ったろ? 今夜寝れば、明日の朝、一番で帰ってくるから。おとなしく寺で待ってろ」

 返事はなかった。
 七緒は、高い木の枝に止まって、じっと溂を見下ろしている。
 逆光でよくわからないが、無表情のように感じられた。
 ぼんやりと、考え込んでいるようにも見える。
 この頃七緒は、こういう風に、ぼんやりとしていることが増えた。

「帰れ、って」
 手で追い払う仕草をした。

 七緒は帰ろうとしない。
 少し体をずらせたので、すっとぼけた顔をしているのが見て取れた。
 顔の高さまで持ち上げた羽を、口で繕ったりしている。

「追ってきても無駄だぞ? 電車に乗ったら、お前なんか、追いつけないんだからな」
 言い捨てて、山道を歩き始める。

 七緒は、枝から飛び立とうとしなかった。
 高い場所から、溂を眺めている気配がした。

 溂を見送り、姿が見えなくなったら、寺に戻るのだろう。
 あそこしか、七緒が安心できる場所はないのだから。

 溂は、ほっとした。
 それから、少し、寂しく思った。
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