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Ⅳ
仏の罰
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月の美しい晩だった。
仰ぎ見る本堂の屋根に、白い鳥の姿があった。
この寺の屋根には、向かって左右に、しゃちほこが置かれている。本当はしゃちほこではなくて、何かの聖獣らしいのだが、溂にはよく理解できていない。なんでも、聖人が徳をなす時に現れるという。
七緒は、右側の聖獣の方を向いて、ぼんやりとしていた。
「なな……」
呼びかけようとして、そのあまりの美しさに、溂は息を呑んだ。
月の光を浴びて、白く輝くようだ。
だが、同時に、どこか寂しげだった。
黒々と横たわる広い屋根には、七緒の他に、誰もいない。はらわたに染み渡るような孤独が、その姿にはあった。
美しさとは、寂しさのことなのだ、と溂は思った。
しばらく、その姿に見とれていた。
ふと、唇が、小さく動いていることに気づいた。
七緒の目線は、聖獣の上辺りに浮いていた。何も見ていないようだ。唇が尖り、先端が、小さく空く。
……そういえば、七緒はよく、こんな風にぼんやりしている。
溂は思った。
ただ、ぼんやりしているだけだと思っていたが……。
溂のポケットには、さっき渋沢からもらった補聴器が入っていた。それを、耳にはめてみた。
しなやかで伸びの良い声が、嫋々と流れてきた。
意味はわからない。でも、誰かを呼んでいるのだと伝わってきた。
誰か……孤独を分かち合ってくれる存在を。
生きてよいのだと、頼もしく肯定してくれる存在を。
歌声が、苦しく辛く、哀しく、押し寄せてきた。それなのに、甘く優しく、懐かしい。
耐えきれないほど孤独なのに、その孤独を美しく彩っている。
胸に深く染み入り、苦しかった。でも、酔うほどに心地いい。
膝の力が抜け、溂はその場に蹲ってしまった。
いつまでも、この歌を聞いていたかった。そして、歌の主を、抱きしめてやりたかった。
足元の砂利が音を立てた。
唐突に、歌が途切れた。
「溂」
人間の言葉が降ってきた。
溂は、顔を上げた。
「降りてこい、七緒」
鳥は羽を広げた。
ばさばさと羽音を立てて、舞い上がる。
溂のすぐ前に降り立った。
「それは、歌か?」
目の前の七緒に向かって、溂は尋ねた。
七緒の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうだよ。聞こえたの、溂」
「うん。聞いた。意味はわからなかったけど」
「ずっと歌ってた。生まれてからずっと。溂の歌を」
溂は、胸を衝かれた。
七緒は、人には歌声を聞かせるくせに、自分には歌ってくれないと思っていた。
でもそれは、違った。
七緒は、ずっと歌っていたのだ。
ただ、溂には聞こえなかっただけ。それでも、七緒は、歌い続けた。
溂を恋する歌を。
もういい、と、溂は思った。
たとえ「運命」が、作られたものであっても。
七緒が自分を好きな理由が、偶然に偶然を重ねた結果であっても。
今、七緒は目の前にいて、溂のことを好きでいてくれる。
これ以上、何も望まない……。
「なな。ごめんな」
溂が言うと、七緒は不安そうな顔をした。
「なにを謝ってる?」
「俺はお前に、嘘をついた」
「うそ?」
「つっ、……番いに、なりたくないって。でも、それ、嘘だった。本当は、」
「溂!」
目の前が真っ白になった。
七緒が溂に飛びついたのだ。白い羽が溂を取り込み、抱きしめた。細かな羽毛が月の光を浴びて飛び散る。
溂は七緒を押しのけようとした。けれど、七緒は溂を離そうとしない。信じられないくらいの馬鹿力だった。
なんとか口と鼻だけ、羽の外へ出した。
「七緒が、好きで好きで、たまらない」
ようやくのことでそれだけ言うと、また、抱きしめられた。
「……え?」
七緒が何か言っている。
ふわふわもふもふとした羽の中で、溂には、よく聞こえない。
「何?」
耳元に唇が寄せられた。熱く、しっとりと湿っている。
甘く耳たぶを噛んで、囁いた。
「……仏の罰」
「お前はっ!」
思わず溂は叫んだ。
境内でしたら、罰が当たる。
確かに前に、そんな風に言ったけど……。
「家に入るぞ。ついてこい」
力いっぱい抗って、白い拘束を解いた。
「今までさんざん人をあおりやがって。このままで済むと思うなよ。朝になるまでモフッってやるからな。覚悟しとけよ」
ずんずんと、後をも見ずに、歩きだす。
仰ぎ見る本堂の屋根に、白い鳥の姿があった。
この寺の屋根には、向かって左右に、しゃちほこが置かれている。本当はしゃちほこではなくて、何かの聖獣らしいのだが、溂にはよく理解できていない。なんでも、聖人が徳をなす時に現れるという。
七緒は、右側の聖獣の方を向いて、ぼんやりとしていた。
「なな……」
呼びかけようとして、そのあまりの美しさに、溂は息を呑んだ。
月の光を浴びて、白く輝くようだ。
だが、同時に、どこか寂しげだった。
黒々と横たわる広い屋根には、七緒の他に、誰もいない。はらわたに染み渡るような孤独が、その姿にはあった。
美しさとは、寂しさのことなのだ、と溂は思った。
しばらく、その姿に見とれていた。
ふと、唇が、小さく動いていることに気づいた。
七緒の目線は、聖獣の上辺りに浮いていた。何も見ていないようだ。唇が尖り、先端が、小さく空く。
……そういえば、七緒はよく、こんな風にぼんやりしている。
溂は思った。
ただ、ぼんやりしているだけだと思っていたが……。
溂のポケットには、さっき渋沢からもらった補聴器が入っていた。それを、耳にはめてみた。
しなやかで伸びの良い声が、嫋々と流れてきた。
意味はわからない。でも、誰かを呼んでいるのだと伝わってきた。
誰か……孤独を分かち合ってくれる存在を。
生きてよいのだと、頼もしく肯定してくれる存在を。
歌声が、苦しく辛く、哀しく、押し寄せてきた。それなのに、甘く優しく、懐かしい。
耐えきれないほど孤独なのに、その孤独を美しく彩っている。
胸に深く染み入り、苦しかった。でも、酔うほどに心地いい。
膝の力が抜け、溂はその場に蹲ってしまった。
いつまでも、この歌を聞いていたかった。そして、歌の主を、抱きしめてやりたかった。
足元の砂利が音を立てた。
唐突に、歌が途切れた。
「溂」
人間の言葉が降ってきた。
溂は、顔を上げた。
「降りてこい、七緒」
鳥は羽を広げた。
ばさばさと羽音を立てて、舞い上がる。
溂のすぐ前に降り立った。
「それは、歌か?」
目の前の七緒に向かって、溂は尋ねた。
七緒の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうだよ。聞こえたの、溂」
「うん。聞いた。意味はわからなかったけど」
「ずっと歌ってた。生まれてからずっと。溂の歌を」
溂は、胸を衝かれた。
七緒は、人には歌声を聞かせるくせに、自分には歌ってくれないと思っていた。
でもそれは、違った。
七緒は、ずっと歌っていたのだ。
ただ、溂には聞こえなかっただけ。それでも、七緒は、歌い続けた。
溂を恋する歌を。
もういい、と、溂は思った。
たとえ「運命」が、作られたものであっても。
七緒が自分を好きな理由が、偶然に偶然を重ねた結果であっても。
今、七緒は目の前にいて、溂のことを好きでいてくれる。
これ以上、何も望まない……。
「なな。ごめんな」
溂が言うと、七緒は不安そうな顔をした。
「なにを謝ってる?」
「俺はお前に、嘘をついた」
「うそ?」
「つっ、……番いに、なりたくないって。でも、それ、嘘だった。本当は、」
「溂!」
目の前が真っ白になった。
七緒が溂に飛びついたのだ。白い羽が溂を取り込み、抱きしめた。細かな羽毛が月の光を浴びて飛び散る。
溂は七緒を押しのけようとした。けれど、七緒は溂を離そうとしない。信じられないくらいの馬鹿力だった。
なんとか口と鼻だけ、羽の外へ出した。
「七緒が、好きで好きで、たまらない」
ようやくのことでそれだけ言うと、また、抱きしめられた。
「……え?」
七緒が何か言っている。
ふわふわもふもふとした羽の中で、溂には、よく聞こえない。
「何?」
耳元に唇が寄せられた。熱く、しっとりと湿っている。
甘く耳たぶを噛んで、囁いた。
「……仏の罰」
「お前はっ!」
思わず溂は叫んだ。
境内でしたら、罰が当たる。
確かに前に、そんな風に言ったけど……。
「家に入るぞ。ついてこい」
力いっぱい抗って、白い拘束を解いた。
「今までさんざん人をあおりやがって。このままで済むと思うなよ。朝になるまでモフッってやるからな。覚悟しとけよ」
ずんずんと、後をも見ずに、歩きだす。
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