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第2章「白日の影のごとく」
第15話「寄ってたかって、俺を政治家に」
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(UnsplashのDeepak Rautelaが撮影)
北方御稲は、一本のシガリロを吸うのに十五分から二十分をかける。
シガリロというのはごくごく細い葉巻で、紙巻きたばこのように忙しく吸わず、ゆっくりと煙を口の中で転がして吸う。
肺の中まで煙を吸い込まずに、口の中で楽しんだ後、ふわっと口か鼻から吐き出すから時間がかかるのだ。
聡の記憶にある限り、御稲はずっとシガリロを吸っている。
ふだんは身体がいくつあっても足りないほどに忙しい女が、シガリロを吸うときだけは座ったまま動かない。
吸っているあいだは電話にも出ず、人が来ても応対しない。
『たとえ隣家が火事になっても、これが終わるまではあんたは逃げないつもりでしょう?』
聡の母は、ふざけて言ったことがある。
母と御稲は有名私立学校の小学部からずっと一緒の幼なじみだ。言う方も聞く方も、遠慮が要らない関係だった。
どういう経緯で御稲がこんな煙草を吸い始めたのか、聡も知らない。
いずれ、御稲の数多い男たちのだれかが持ち込んだものだろう。
聡の記憶にあるかぎり、四十代から五十代にかけての御稲には、常に異国情緒のある男たちがいた。
年上の男、若い男、年齢の知れない男。
御稲はどの男もまるで手の中のシガリロのようにのんびりと娯しみ、味わいおえると未練もなく捨てた。
吸い終わったシガリロを始末するように。
御稲がシガリロのように断ち切らなかった人間関係は、松ヶ峰紀沙だけかもしれない。
そして御稲は、紀沙が本気で心を許していた唯一の友人だったのだ。
「――聡」
と御稲が呼んだ。
「あの子は、紀沙が死んでからちゃんと泣いたかい?」
「環ちゃんのことですか?
ええと、精進落《しょうじんお》としの時に少し泣いていました。それ以来、おれの前では泣きません」
御稲の引き締まった顔が、かすかにゆがんだ。
「困った子だね。オヤが死んだんだ。ちっとくらいタガをはずして泣いてもいいのにね」
「しっかり者なんですよ、おれの妹分はね」
「ばか」
御稲は男のように細い葉巻をくわえたまま、言い返した。
「お前が頼りないから、環は泣けない。そんなことにも気づかずに、政治家になろうっていうのかね」
聡はむっとして、
「どうせおれは、政治家になんか向いていません。
向いていないっていうものを、みんなで寄ってたかって政治家にしようとしている途中ですよ」
「それが、選ばれた人間の責任だとは思わないのか」
とんと、御稲のしなやかな指がシガリロをとって灰皿に置いた。
「お前は悪い子じゃない、聡。
今度の選挙だって一生懸命につとめているつもりなんだろう。
しかしね、人の気持ちに鈍感っていうのは、お山の大将になろうって男には致命傷だよ」
政治家を『お山の大将』という言い草に思わず聡は笑った。しかし御稲は鋭い表情をピクリともゆるめずに、
「大将は、かついでくれる人がいてナンボだ。用意された神輿にだまって乗っかってるだけじゃ、お前は一ミリだって成長しないよ。
人って言うのは、てっぺんが気を使って金を使って手間を使って、それでようやく動いてくれるもんだ」
「御稲先生、くわしいですね」
聡が驚いてそう言うと、御稲は顔を上げてゆるく立ちのぼるシガリロの煙を眺めていった。
「昔ね、お山の大将になりたいって男としばらく一緒に暮していたのさ」
「知りませんでした」
「お前が知っているものかよ。生まれる前の話だ」
「ショックだな。おれの知らない御稲先生の男がいたなんて。そのひと、今はどうしているんです?」
聡の言葉を受けて、北方御稲の瞳がきらりと光った。
「とっくに死んだよ」
北方御稲は、一本のシガリロを吸うのに十五分から二十分をかける。
シガリロというのはごくごく細い葉巻で、紙巻きたばこのように忙しく吸わず、ゆっくりと煙を口の中で転がして吸う。
肺の中まで煙を吸い込まずに、口の中で楽しんだ後、ふわっと口か鼻から吐き出すから時間がかかるのだ。
聡の記憶にある限り、御稲はずっとシガリロを吸っている。
ふだんは身体がいくつあっても足りないほどに忙しい女が、シガリロを吸うときだけは座ったまま動かない。
吸っているあいだは電話にも出ず、人が来ても応対しない。
『たとえ隣家が火事になっても、これが終わるまではあんたは逃げないつもりでしょう?』
聡の母は、ふざけて言ったことがある。
母と御稲は有名私立学校の小学部からずっと一緒の幼なじみだ。言う方も聞く方も、遠慮が要らない関係だった。
どういう経緯で御稲がこんな煙草を吸い始めたのか、聡も知らない。
いずれ、御稲の数多い男たちのだれかが持ち込んだものだろう。
聡の記憶にあるかぎり、四十代から五十代にかけての御稲には、常に異国情緒のある男たちがいた。
年上の男、若い男、年齢の知れない男。
御稲はどの男もまるで手の中のシガリロのようにのんびりと娯しみ、味わいおえると未練もなく捨てた。
吸い終わったシガリロを始末するように。
御稲がシガリロのように断ち切らなかった人間関係は、松ヶ峰紀沙だけかもしれない。
そして御稲は、紀沙が本気で心を許していた唯一の友人だったのだ。
「――聡」
と御稲が呼んだ。
「あの子は、紀沙が死んでからちゃんと泣いたかい?」
「環ちゃんのことですか?
ええと、精進落《しょうじんお》としの時に少し泣いていました。それ以来、おれの前では泣きません」
御稲の引き締まった顔が、かすかにゆがんだ。
「困った子だね。オヤが死んだんだ。ちっとくらいタガをはずして泣いてもいいのにね」
「しっかり者なんですよ、おれの妹分はね」
「ばか」
御稲は男のように細い葉巻をくわえたまま、言い返した。
「お前が頼りないから、環は泣けない。そんなことにも気づかずに、政治家になろうっていうのかね」
聡はむっとして、
「どうせおれは、政治家になんか向いていません。
向いていないっていうものを、みんなで寄ってたかって政治家にしようとしている途中ですよ」
「それが、選ばれた人間の責任だとは思わないのか」
とんと、御稲のしなやかな指がシガリロをとって灰皿に置いた。
「お前は悪い子じゃない、聡。
今度の選挙だって一生懸命につとめているつもりなんだろう。
しかしね、人の気持ちに鈍感っていうのは、お山の大将になろうって男には致命傷だよ」
政治家を『お山の大将』という言い草に思わず聡は笑った。しかし御稲は鋭い表情をピクリともゆるめずに、
「大将は、かついでくれる人がいてナンボだ。用意された神輿にだまって乗っかってるだけじゃ、お前は一ミリだって成長しないよ。
人って言うのは、てっぺんが気を使って金を使って手間を使って、それでようやく動いてくれるもんだ」
「御稲先生、くわしいですね」
聡が驚いてそう言うと、御稲は顔を上げてゆるく立ちのぼるシガリロの煙を眺めていった。
「昔ね、お山の大将になりたいって男としばらく一緒に暮していたのさ」
「知りませんでした」
「お前が知っているものかよ。生まれる前の話だ」
「ショックだな。おれの知らない御稲先生の男がいたなんて。そのひと、今はどうしているんです?」
聡の言葉を受けて、北方御稲の瞳がきらりと光った。
「とっくに死んだよ」
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