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第5章「母の遺したもの・藤島環」
第36話「七億円」
しおりを挟む(UnsplashのAhtziri Lagardeが撮影)
弁護士の三木は軽く咳《せき》ばらいをしてから話しはじめた。
「ふたりとも知ってのとおり、松ヶ峰家の資産は先代の松ヶ峰恒夫《まつがみね つねお》さんが亡くなられたときに、2歳の聡くんがすべて相続した。
紀沙さんは先のことを見越《みこ》して、ご自分の相続権を放棄して聡くんひとりが相続人になるように手配されたんだ。
だから今日の話は、紀沙さんの個人資産だけのことです」
「あのとき、2歳のおれに何もかもを継がせるとは、おふくろは頭が良かったね。あのおふくろの血が身体に入っていないことは、おれにとっての悲劇だよ」
聡はふざけて言った。
聡と紀沙のあいだに血縁関係は、ない。
なぜなら聡は、先代当主・恒夫と愛人のあいだに生まれた子供だからだ。
生後すぐに松ヶ峰本家に引き取られ、恒夫と紀沙の子どもとして養子縁組をしたために、生母の記憶はまったくない。
生母は金沢に住んで早くに亡くなったというが、聡は顔も知らないし、紀沙の息子で十分に幸福だった。
三木は淡々と話を続けた。
「紀沙さんの個人遺産はおもに不動産と現金だ。
金額はそこの一覧表にまとめました。不動産の査定は時価だから、少し目減《めべ》りしているよ」
「この景気だから仕方がないですね」
聡は書類をぺらぺらめくった。
正直なところ数字の羅列《られつ》を見ても、さっぱりわからない。三木は書類を環にも差し出し、
「現金のほとんどは投資信託になっている」
「それも、おれが引き受けなきゃいけない金ですか?」
「いや、だいじょうぶ。君が管理しなきゃいけない金じゃないよ」
三木は環に向かい、噛《か》んで含めるように話しはじめた。
「環ちゃん。ここからが紀沙さんのご遺言でね。
信託にしてある7億円を使って、財団法人を起こして欲しいというんだ。
その財団法人の主な理事には、環ちゃんが指名されている」
「ざいだんほうじん?」
聡と環は、二人そろって三木に尋ねかえした。三木は二人を見まわし、あらためて説明をはじめた。
「今は、個人でも一般財団法人の設立が可能だ。設立にあたっては特に官庁の認可は必要ないし、設立後も監督官庁はない。法的な条件さえ満たせば登記だけで設立できる。
ただし設立時に300万円の基金と6人の職員が必要になる」
「作るのは簡単だな。だがおふくろはその財団法人で、たまちゃんに何をしろっていうんです?」
聡が尋ねると、三木は薄く笑って環を見た。
「財団は、紀沙さんの所有していたする書画骨董《しょがこっとう》コレクションを管理するのが仕事だ。
そして環ちゃんがこの財団の主任理事として活動することを条件に、紀沙さんは、7億円の投資信託を遺贈しておられるんだ」
「ななおく……」
藤島環は顔を蒼白にしてつぶやいた。
「紀沙さんの、最後の希望だ。受けてくれるとありがたいよ、環ちゃん」
三木はゆっくりと、松ヶ峰紀沙が残したふたりの子供を見まわしていった。
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