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第5章「母の遺したもの・藤島環」
第41話「母の、最後の男だとしても」
しおりを挟むその家は高台にあって、敷地が南に向かってやや傾斜していた。道に面して生垣《いけがき》があり、二階建ての家の屋根がのぞいている。
「普通の家だな」
「ええ。敷地は90坪あるみたいですね。このあたりで90坪の一戸建てと言ったら、ひと財産なんだそうですよ」
「へえ」
聡は環の顔を見た。
「『ひと財産』だなんて言葉、よく知っていたな、たまちゃん」
環はふっくらした頬をわずかに赤らめ
「あの、先日いっしょにこちらに来た時に、今野《こんの》さんがそうおっしゃっていて」
「ああそう……『今野』ね」
少し腹立たしく思いながら、聡は門扉《もんぴ》を押して敷地に入っていった。
狭いながらも玄関までの庭はよく手入れがされ、松ヶ峰邸《まつがみねてい》と同じくエメラルドグリーンの芝生が光っていた。
玄関に着くと、環が手ぎわよく鍵をあける。聡はからっぽの家に足を踏み入れた。
「……おっと、何だこりゃ??」
空っぽの家、というのは正確ではないかもしれない。
目が慣れてくると、玄関がまるで客を迎えるように整えられているのが分かった。
棚の上にはガラスの花器があり、あふれるほどの生花が飾られていた。
環が先にあがり、すばやくスリッパをそろえて聡の前に出した。
「このお花は、業者さんに頼んで配達していただいています。近所のお花屋さんが花器と鍵を預かっていて、週に一回、アレンジメントを取り換えているんだそうです。この家の家計簿に支払い記録があります」
「おふくろは花が好きだったからな……家の中を見ようか」
環は聡の前に立ち、
「二階が、アトリエになっているんです」
階段を上がる音が、うつろに反響した。やはり『空っぽ』の家だ。
「ここ、収納になっているんだな」
階段横の扉を見て、聡が言う。環が扉を開いて見せた。
「リネン入れです。シーツやテーブルクロスですね」
「これ、ウチにあるのと同じものか?」
「ええ、『リベコ』のものですね。ベルギーのリネンブランドで、
本家にあるものと同じです」
棚にはほんのりクリーム色をした布が、ぎっしりと積み上げられている。
なるほど。たしかに、この家は松ヶ峰紀沙が手をかけた場所らしい。
「たいした量だな。いったい、何枚あるんだ?」
聡がつぶやくと、環は、
「シーツも枕カバーもクロスもすべて30セットあります。
リネンだけではないんです。キッチンには土鍋からフライパン、蒸し器までそろっていて、明日からでも暮らせます。
あの、紀沙《きさ》おばさまは、ここで暮らすおつもりだったんでしょうか?」
「……どうかな。俺には、別の目的があったような気がするよ。
たとえば、将来きみが暮らすための家、みたいにな」
「おばさまは、そこまで考えていらして……」
階段の上で、環はほろりと涙をこぼした。
ふっくらした環の頬に、四月の午後の光を集めた涙の粒がこぼれてゆく。
ぎっしりと詰め込まれたアイリッシュリネンの山を眺めて、松ヶ峰聡はひそかにこぶしを握り締めた。
この子は、聡が守らねば。
聡の母がたったひとり遺《のこ》した少女は、聡が守るべき家族だ。
音也のろくでもない選挙戦略に、環《たまき》を巻き込むなど、言語道断だ。まして、聡と結婚させるなんて……。
聡の人生は音也が好きにすればいい。だが環の人生には指一本ふれさせまい。
たとえ音也が、聡の母の『最後の男』であり、すべての遺志を受け継いでいるとしても。
そこだけは、譲れない。
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