「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

第6章「東京 コルヌイエホテル」

第44話「なにも言わずに来週」

（UnsplashのAnton Shakirovが撮影）

　
　5月の連休が終わると、名古屋は一気に夏の気配になる。
　アスファルトが溶けそうな暑さを前にして、町じゅうのせわしなさも、上昇する。

　松ヶ峰聡《まつがみね　さとし》は名古屋生まれの名古屋育ちだ。夏の殺人的な暑さも冬の湿った寒気も、うんざりするが嫌いではない。
　それは、東京とも大阪ともちがう『巨大な田舎』である名古屋特有の、自然に引きずられるような四季の移《うつ》り変《か》わりだからだ。

　いま、聡は大正時代に建てられた古い洋館・松ヶ峰《まつがみね》邸の自室から、金色に輝く夕暮れの風景を眺めている。
　とんとん、という慎《つつ》ましい足音が、らせん階段を上ってくる音が聞こえた。この軽さは環《まき》のものだ。
　すぐにひかえめな、ノックの音がした。

「サト兄さん？　お呼びですか」

　聡はひょいと出窓《でまど》から飛びおりて、寝室と書斎の二間が続いている自室を横切った。重いドアを開ける。

「お呼びしたよ。早く入ってくれ、たまちゃん。
　おれがここにいるってことを、音也《おとや》に見つかりたくないんだ」

　環は不思議そうに寄《よ》せ木細工《ぎざいく》の廊下に突っ立ち、

「音也さんにみつかりたくない？　どうしてですか」
「ド叱られるんだ。ホントはもう、商店街の夏祭り準備にいってなくちゃいけないから」

　聡は非公式とはいえ、すでに衆院選への出馬を表明している立候補予定者だ。
　選挙準備に奔走している秘書の楠音也《くすのき　おとや》と同じく、あらゆる場所へ行き、あらゆる人に会って顔と名前を売り歩くのが使命だ。

　ほんとうは、初夏の夕方に自分の寝室にいるひまなどない。
　環はじろっと聡を見て、

「では、早く用をすませて商店街へ行ってください」
「うん、まあね」

　グズグズと言いしぶっていると、ついにおとなしい環が眉間にうっすらと皺《しわ》を立てはじめた。
　聡はに時間稼《じかんかせ》ぎをあきらめ、いきなり環に向かって頭を下げた。

「悪い！　なにも言わずに来週、いっしょに東京に行ってくれ、たまちゃん」
「はあ？」

　藤島環のふっくらとした丸い顔が、たちまちびっくりしたように伸びあがった。

「東京？　なぜ……あっ、幹事長先生とお会いするんですね？
　でもいったい、なぜ私がそこへ同行するんですか？」

　環の疑問は当然だ。
　だが、それにたいする『適切な回答』をいう勇気がない聡は、ただ黙って、環を拝んでいるだけだ。

「たのむ！　だまって一緒にコルヌイエホテルで泊ってくれ……音也も一緒なんだ……」