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第8章「今夜、音也とふたりきり」
第54話「あの子なら、良いんだ」
しおりを挟む東京へ向かってひた走る最終便の新幹線のなか、楠音也《くすのき おとや》は口を開いた。
「あの家に、環《たまき》ちゃんがひとりで残っている。だから近寄るなと、今野に言った」
「音也……どういう意味だ」
「今野《こんの》と環ちゃんを、これ以上ちかづけたくない」
それだけ言うと、音也は黙ってしまった。
会話が途切《とぎ》れると、新幹線がたてるかすかな音しか聞こえなくなる。
音也はしばらく、両手を閉じたノートパソコンの上に置いていた。
やがて何か決心したかのようにすこし削《そ》げたような鼻をこすって、聡《さとし》に向きなおった。
「今回のことは、おれの失策だった。
まさか環ちゃんがけがをするとは思っていなかったよ。
くそ、明日はあの場におまえと環ちゃんがそろっていることが大事だったのに」
「なんだって? おれとたまちゃんが揃うことがだいじ?
あのなあ、音也、どういう意味だ」
「サト」
音也が言った。
「俺はな、今回の資金パーティでおまえと環ちゃんをセットで売り込むつもりだったんだ。
地方の名門御曹司《めいもんおんぞうし》と幼なじみのカップル。文句のつけようのない組み合わせだ」
「てめえ……まだそんなたわごとを」
聡が膝の上でこぶしに力を入れたとき、音也が顔を上げてまっすぐに聡を見た。その唇からは、次々とつやめいたバリトンがこぼれてくる。
「あの子なら、良いんだ」
音也の声は人の心に深くしみる声だ。
染み入って、気持ちを揺さぶらずにいられない声。
コップの縁《ふち》にあやうく盛り上がっている水を、ひと突《つ》きであふれさせる声だ。
聡をくるわす声。
だが今は、聞《き》きわけのない子供に言い聞かせるような声音で、
「聡、当選する政治家には、地元に”妻”が必要だ。
地方在住の国会議員は、いったん国会が始まったら長いあいだ地元をあけて東京にいなきゃいけない。
お前が留守にしているあいだに後援会のめんどうをみて、地元でのイベントでお前の名前を売って歩く人が必要なんだ。
政治家の配偶者っていうのは、ただの家族じゃない。議員本人を支えるだけじゃなく、いざとなったら、代わりに泥をかぶるマネージャー役でもある。
誰にでもできる役目じゃない」
「……わかってるよ」
「環ちゃんなら完璧だ。
松ヶ峰《まつがみね》の家内《いえうち》の事情も、後援会のことも、何もかものみ込んでる。
俺はな、亡くなった紀沙《きさ》さんがお前のパートナーとして環ちゃんを育てたんじゃないかと考えている」
聡は、親友が亡き母の名前を口に乗せるのをにがい気持ちで聞いた。
口調がとげとげしくなる。
「おふくろが、お前にそんなことまで言ったのかよ?」
「まさか」
さすがに音也も口をにごした。
「直接、紀沙さんから聞いたわけじゃない」
「どうかな。おまえは、おれ以上に、おふくろからあれこれと打ち明けられていたな?
あの財団法人のことは何なんだ。
おふくろが死ぬ前から、おまえの理事就任は決まっていたそうじゃないか」
「俺だけじゃない。おまえも理事だぜ」
音也は、ちらっと聡を見てからそう答えた。その目つきが聡をいらだたせる。
かすかに青《あお》みがかった楠音也の眼は、話をそらしたい時ほど、物《もの》すさまじいくらいに美しくなる。
他愛《たあい》もなく人を呑み込むことができる、山奥の沼のようだ。
そして今回、飲み込まれそうになっているのはほかならぬ聡だ。
聡はぐっと下腹に力を入れた。
ごまかされたくない、今は。
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