「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

文字の大きさ
54 / 164
第8章「今夜、音也とふたりきり」

第53話「力わざの刃物のような若い獣」

しおりを挟む
(StockSnapによるPixabayからの画像)

 
 聡《さとし》は、肩にかつぎあげた環《たまき》を落とさないようにゆっくりと階段を上がっていった。

 大正時代に建てられた古い洋館である松ヶ峰邸《まつがみねてい》には、二階に上がるための巨大ならせん階段がある。
 ゆるく、らせん状にうねっている階段はただでさえ上がりにくいのに、いま聡の肩の上に乗っかっている藤島環はぽっちゃりめの体型だ。
 落としたくない。

 ようやく階段を上がりきり、聡は環の部屋の前でそっと妹分《いもうとぶん》を肩からおろした。
 環は部屋の扉の前で、もう一度、

「ただ東京へおともするだけなら、できますよ。そうすれば、サト兄さんと音也《おとや》さんのってことにならないでしょう?」

 聡は低く笑った。

「大丈夫だ。俺を甘く見るなよ? もうじき衆議院議員になる男だぜ」
「わかっています。選挙については心配していません。
 心配なのはーー」

 環は言葉を切り、聡を見たが、それ以上は言わずに部屋に入った。
 重い扉が閉まる。
 聡はしばらく扉の前に立ち、ぼんやりと自分のつま先を眺めた。

 恋をするとは、自分よりも大切なものができてしまうことだ。
 そして今の聡にとっては、大切なものは楠音也《くすのき おとや》ただ一人なのだった。

 聡の有能な政治秘書。

 最愛の「秘書」だ。
 音也を連れて、今夜、聡は東京へ向かう。

★★★ 

 22時12分、名古屋発、東京行きの新幹線。
 最終ののぞみに聡と音也は乗り込んだ。
 乗るとすぐに音也はカバンからノートパソコンを取り出し、仕事を始めた。

 聡は隣に座る男の気配に全身の毛を逆立《さかだ》てながら、座っている。

 新幹線は、平日の最終便だけあって客も少ない。
 この車両には聡たちともう一人ビジネスマンらしき男が座っているだけだ。

 すぐ横にいる、音也の匂いが聡にひたひたと近づいてくる。

 花のような香りのするトワレ、『デューン』。
 そのにおいが聡に、駅での風景を思い出させた。

 聡の選挙スタッフである今野と、音也の会話だ。

 30分ほど前に、音也と聡は今野に車を運転させて名古屋駅へ来た。
 駅の新幹線改札口に一番近いのは、太閤通口《たいこうどおりぐち》という出口だ。名古屋駅の駅裏にあたり、夜になると人通りが少ない。
 音也は駅の近くに車をとめさせ、今野が荷物を降ろすスキに短く二言・三言だけ話しかけた。
 ほんの数秒のことだ。

 しかし音也の話を聞いた後、今野の態度が目に見えて変わった。

 あのにぎやかな男が押し黙り、蒼白な顔のままカバンを車から降ろした。
 聡の眼には、それまで頼りなく見えていた今野の身体が、ぎわり、と二倍にも三倍にもふくらんで見えた。

 いつもの今野の陽気でおちゃらけた雰囲気はどこにもなく、そこには刃肉《はにく》の厚い短剣のような、まがまがしささえ感じさせた。
 骨も筋《すじ》も一気に叩き切る、力《ちから》わざの刃物のような若い獣《けだもの》だ。


 今、暗夜を走る新幹線のなかで聡は、今野の変わりように首をひねる。それから隣に座る端麗な男の顔を見た。
 音也が、膝に乗せたノートパソコンから視線もはずさずに言った。

「なんだ。腹でもへったか、聡」
「すかねえよ。なあ、お前、さっき駅で今野に何をいったんだよ」
「今野に? 明日の仕事を伝えたんだ」
「……明日の今野は休みだろ。あいつは俺の事務所に来てから、ほとんど休んでいないから」

 ふう、と音也はため息をついてパソコンのキーボード上で忙しく動かしていた指を止めた。それから聡の顔を見る。

 なめらかな額、力のありすぎる目元、薄く形の良い唇。
 かつて学生モデルとして知られた楠音也の美貌が、よりいっそう美しく、つやめいて聡の目の前にあった。

 聞きわけのない駄犬《だけん》を見るような目つきで。
 音也のバリトンが短く答えた。

「環ちゃんに近づくなと、そう命じたんだ」

 ひくりと、聡の眉が跳ね上がる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。

窓のない部屋の、陽だまりみたいな君

MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。 そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。 ​そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。 完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。 ​「五分だけ、ここにいさせてくれないか」 ​一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。 次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。 住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」 不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。 待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。 しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。 「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」 記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

処理中です...