「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第8章「今夜、音也とふたりきり」

第52話「言いたいことは、山ほどあるが」

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 松ヶ峰聡《まつがみね さとし》は肉厚な184センチの身体で腕を組み、古い洋館の一階で、目の前に座るふたりを見おろしている。

「それで、環ちゃんは捻挫《ねんざ》だけですんだんだな?」
「はい……もうしわけ、ないです」

 肩を落としてすっかりしょぼくれているのは、選挙スタッフである今野哲史《こんのてつし》だ。
 隣には、やや困った様子の妹分《いもうとぶん》、藤島環《ふじしまたまき》がいる。ふっくらした肩をすぼめ、

「ちゃんと距離をはかってから降りればよかったんですが…ごめんなさい、サト兄さん」

 環の右足の包帯を眺めつつ、聡はためいき混じりで言った。

「靴をはいたまま、椎《しい》の木《き》から飛ぶやつがあるかよ、まったく。あれは5メートル近くあるんだぜ」
「すみません」
「まあ、いい。言いたいことが山ほどあるが、今はやめておく。特に今野は、さんざん音也《おとや》からしぼられた後みたいだからな」
「……しぼられました」
「当たり前だ。今夜から、たまちゃんは俺たちといっしょに東京へいくはずだったんだ。すっかり計画変更だ」
「あの」

 環が顔を上げた。

「私、行けます」
「行けるわけがないだろ。
 今回は横井《よこい》のオヤジにくっついて、きみも政治パーティに出る予定だった。ヒールで立てなきゃ意味がない。
 もういい、今回は、君は留守番だ。これにこりて当分おとなしくしていろよ?」

 聡は事務所にしている洋室を歩き回り始めた。

「たまちゃん、俺の荷物はできている?」
「はい。一泊用の準備がしてあります。カバンはお部屋に」
「ありがとう。コン、カバンを車に積んでおけ。名古屋駅まで俺と音也を送ってくれ」
「はい」

 今野が出ていく。
 ちらっと環を見た今野の目つきが、聡には気に入らない。
 気に入らないが、今はどうしようもない。あと二時間で東京へ出発せねばならない。
 
 今野がいなくなったのを確認してから、環に尋ねる。右足首の白い包帯が痛々しい。

「今夜ひとりで、大丈夫か?」
「大丈夫です、ゆっくり歩けば痛みもないんです。
 それより……ほんとうにごめんなさい、サト兄さん。あんなに音也さんとふたりでは行きたくないといっていたのに」

 聡はちょっと渋い顔をした。

「仕方がない。なにかあったら、御稲《みしね》先生に連絡しろ」

 もういちど環の包帯に包まれた右足首を見て、ぽんと環の頭を叩いた。

「二階の部屋まで連れて行ってやるよ。めしはどうした」
「さっき、音也さんが差し入れをしてくれましたから」
「うん。今夜、一晩だけだからな。明日の夜には戻るよ」

 聡は環の身体をちいさな子供のように抱《かか》えあげた。それからくくっと笑う。

「今野をかばって、裏庭の椎の木から飛びおりるとは、たまちゃんも意外とやるよな」
「だっていま、今野さんがケガをしたらサト兄さんが困るでしょう」
「君がケガをしたって困るよ。コンも君も、俺にとっちゃ大事なんだ。そういうことは忘れないでくれ」
「サト兄さん」

 聡に米袋《こめぶくろ》のようにかつがれつつ、巨大な螺旋階段を上がっていきながら、環が言った。

「一晩、音也さんと二人きりでいられますか」

 ひくん、と環の身体の下で、聡の肩がふるえた。
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