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第8章「今夜、音也とふたりきり」

第56話「おまえを勝たせなきゃ」

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(Unsplashの@felipepelaquimが撮影)
 
 聡《さとし》は、かすかな新幹線の振動に乗せるように音也《おとや》へ向かって言った。

「おまえ、おれとたまちゃんと結婚させたいのは、ほんとうに選挙のためだけか?」

 音也の目元がゆるむ。艶《つや》のある美しさに、聡はもう、今度こそわが身をそっくり深淵《しんえん》に投げ込みたくなる。

 どうなってもいい。
 選挙も家族もどうだっていい。


 ただひたすらに、音也が欲しい。

 ふわっと、音也の顔が近づいてきた。
 花のような香りのデューンが、聡の喉《のど》をふさいでいく。

 思わず叫ぼうとしたとき、音也の口が、聡の耳にふれた。

 甘くやさしく聡の欲情をそそり立てるように、楠音也《くすのき おとや》は聡の耳をかんだ。

「……おと」

 思わず声を漏らした時、これまでに聞いたこともないような冷たい声が耳元で聞こえた。

「決まってるだろ、選挙のためだ。
 お前を勝たせなきゃ、俺には一円の金も入ってこないんだよ」

 すうっと音也の体温が離れた。
 聡の十年来の親友は、すぐに有能な政治秘書の顔になり、なにごともなかったようにノートパソコンを開いた。

 それから言った。

「新横浜につくまで、邪魔するなよ。俺には仕事があるんですよ、“ボス”」

 がたんっと音を立てて、聡は新幹線のシートのリクライニングを倒した。腕を組み、顔をそむける。

 目の前には、まっくらな新幹線の窓だけが見えた。

 いや、みっともない顔をした聡の向うに、氷を削《けず》り上げたような流麗な横顔を傾けて仕事にはげむ、音也が夜の窓に映っていた。

 この世のものとは思えないほどに、美しい男の姿。
 松ヶ峰聡が、絶望的な恋をしている男の姿だ。



 夜の新幹線は、一秒の遅延もなくひたすらに東京へ向かっている。


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