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第10章 「裏工作」
第72話「票のためにお前のカラダを売ってこい」
しおりを挟む聡はうつろな声で、音也《おとや》に言った。
「おまえが、おふくろの”最後の男”だったんだろう?
息子のおれより、ずっとおふくろに近い場所にいたじゃないか。
たまちゃんの相続財産についても知っていたし、財団法人のことも知っていた。
あの一社《いっしゃ》の家のことも知っていたんじゃないのか」
「一社の家は、俺もしらなかったよ」
と聡の冷静な政治秘書はゆっくりと答えた。
「あの家については、紀沙《きさ》さんは誰にも教えなかったんじゃないかな。
いや、北方《きたかた》先生はご存じだったのかもしれない」
「御稲《みしね》先生と、おふくろと姉妹同然だったからな。
そうだ、御稲先生のことだ――てめえ、よくもあの人に恥かかせやがったな」
聡が詰問《きつもん》するように言うと、音也が黙った。
目を見張るほどにととのっている音也の顔が、さえざえと美しく光る。聡は恋しい男の美貌に視線を奪われながらも、にがにがしく舌打《したう》ちする。
こうなると、この男はテコでもしゃべらない。
沈黙を埋めるべく、聡が躍起《やっき》になってしゃべるしかない。
「よりによって御稲先生に、昔の男の伝手《つて》を使わせるとはな」
あのプライドの高い銀髪のバレリーナ・北方御稲《きたかたみしね》が、どんな気持ちで、かつての恋人の身内《みうち》に頭を下げたのか。
その光景を想像するだけで、聡は息がつまる気がした。
行き場のない怒りは、まっすぐに音也に向かう。
「おまえだって、おふくろが死んでから、おれがどれほど御稲先生に世話になっているのか分かってんだろう。
よくも、そんなことを頼めたな」
「サト、俺はお前の選挙参謀だ」
ざくり、と音也は言ってのけた。
「お前を勝たせるためだけに、俺はいるんだ。必要ならばどんなことでもする」
「……どんな、ことでも?」
「ああ」
口もとの痛みがおさまってきたようで、音也は冷却材代わりにしていたペットボトルのふたをひねって水を飲んだ。
「なんだってやるさ。それが俺の仕事だ」
「じゃあ、票のためにおまえのカラダを売ってこいと言ったら、そんなことでもするのかよ!」
「やるよ」
ぽん、と答えが出た。
ごく簡単に。何でもないかのように。
「やるぜ。それで二千でも三千でも票が取れるのならな」
「オト……おまえ一体、何を言っているんだ」
聡はぼうぜんとして、目の前の親友を眺めた。
急に、音也が見たこともない人間に感じられる。
10年も一緒にいる親友なのに。
コルヌイエホテルの部屋の天井に手が届かないように、楠音也は永遠に聡の手に届かない。
きっと、前世からそう決まっているのだ。
音也は笑った。まだ少し口元が痛むのか、ゆがんだ邪悪な笑い方だった。
「俺は、もともとそういう男だよ。知っているだろう?」
「しらねえよ」
「知らない? お前だって、噂くらいは聞いているはずだ。
そもそも俺みたいな貧乏人が、なぜ名古屋の名門校・西海高校《せいかいこうこう》に入れたと思う?」
「……奨学金《しょうがくきん》があったからだろ」
聡がうかつに答えると、目の前にいる邪悪な男は、この世にありえないほど美しく切《せつ》ない顔で笑って見せた。
「名古屋の富裕層が通う学校に、奨学金制度なんかあるはずないだろう」
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