「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第10章 「裏工作」

第74話「新月がかすかに夜を照らす」

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(UnsplashのRyan Hollowayが撮影)

 コルヌイエホテルのスイートに、音也《おとや》のバリトンが柔らかく響いた。その音は聡《さとし》の耳になだらかに入ってい来るが、脳は内容を理解していない。

 ……こいつは、15やそこらで、生きていくために身体を売っていた。
 それを知りもしないで、おれはのんきな顔で、こいつとつるんでいた。

 責められるべきは、音也ではなく聡ではないのか?

 名古屋という豊穣な地方で、王侯貴族のように金の繭《まゆ》につつまれ、ぬくぬくと生きてきた松ヶ峰家《まつがみねけ》の御曹司《おんぞうし》。
 それが松ヶ峰聡だ。
 聡がしだいにうつむくなか、音也は淡々と話しはじめた。

「お前のお母さん・紀沙《きさ》さんが、俺に奨学金の代わりの金をくれたんだ。いや、金額で言えば奨学金以上にくれたよ。
 おかげで俺は名古屋の名門校、西海《せいかい》高校を卒業できたし、東京の大学にも行けた」
「大学? まさかその金も、おふくろが」
「用意してもらった。まあ、一種の”取引”だったからな」
「……じじい理事の代わりに、おまえは、おふくろと寝てたのかよ」

 聡がそう叫ぶと、音也は少しびっくりした顔をした。

「バカ、セックスじゃないよ。
 紀沙さんはいずれおまえの下について、おまえのために働くやつが欲しかったんだ。未来のために投資したんだよ」
「おれの、みらい?」
「そう。つまり紀沙さんは、松ヶ峰聡の初選挙で自分の代わりに動く男がほしかったんだ。
 ただの男じゃないぜ。
 選挙について裏も表も知りつくし、いざとなったら汚い手を平気で打てる人間を手に入れることが、紀沙さんのねらいだったんだ。
 だからあの人は、西海高校の学費をそっくり肩代わりしてくれた。
 卒業後は俺を東京の大学へ行かせ、知り合いの議員事務所で無給スタッフとして働かせた。
 俺はそこで、選挙や事務所運営の裏表ぜんぶについて徹底的に叩き込まれたよ」
「……おれのためか」

 聡は、コルヌイエホテルの柔らかいベッドの座り込んだ。

 今さらながらに、松ヶ峰紀沙という女の権謀術数《けんぼうじゅっすう》の深さに圧倒される。

 何も知らないうちに、何もかもが用意されていた。
 すべては聡のために。
 すべては松ヶ峰のために。

「なにもかも、俺のためだったのか」

 聡が可憐な小鳥のようにつぶやき続けるのを、音也は複雑な目の色で見ていた。

「正直、うらやましかったぜ」
「なにが?」
「お前と紀沙さん。血もつながらないくせに、仲の良い母子だったからな」

 ベッドに座ったままの聡が見上げると、安っぽいグレーのスーツを着たモデルのように美麗な男がにがい顔で笑っていた。

 ……いや違う。
 困っている顔ではない。

 ふと聡の目の前に、昨夜このスイートルームの向かい側で廊下に立っていた女性の姿が浮かんだ。柳《やなぎ》の若木《わかぎ》のような、しなやかな女性。
 そして向かい合っていた、美貌のホテルスタッフ・井上の甘やかな、狂おしいような表情。


 今の音也は、あの時の井上と同じ表情をしている。

 困った顔ではなく。
 切《せつ》ない恋をしている男の顔だ。
 死ぬまで隠しきるつもりの恋を、背負《せお》っている男の顔。


 聡はささやくように尋ねた。

「おまえ、うちのおふくろに惚れていたな?」

 すると音也は、新月《しんげつ》がかすかに夜を照らすように笑った。

「バカ。紀沙さんじゃねえよ」

 音也は足音さえもたてずに、しずかにベッドに座る聡の前に立った。

「俺が惚れているのは、お前だよ、聡」
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