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第12章「あれは、夢か?」
第92話「明星と金星」
しおりを挟む(UnsplashのResat Kuleliが撮影)
都内有数の高級ホテル・コルヌイエのレセプションカウンターを預かるホテルマン・井上《いのうえ》は、29歳になる優美かつ端正な男である。
今もゆったりとメインロビーを横切ってくるだけで、ロビーにいる女性ゲストからの視線が集まった。
しかし女性よりも、つねに仕事だけを優先させてきた男は、ゲストからの視線くらいではびくともしない。
井上はまっすぐに聡のもとへやって来て、切れ長の目をシルバーフレームの奥で光らせてから、笑いかけた。
「松ヶ峰様。今回もご利用、ありがとうございました」
井上は昨夜とは違うダークスーツをしなやかに着こなし、完璧な角度で手をそろえて聡の前に立った。その声は、やや甘いテノールだ。
「予定より早いご出発は……なにか、ございましたか」
「いいえ、思ったよりも用が早くすみましたから。このまま名古屋へ帰ります」
「さようでございますか……あ」
と、井上はかすかな声でつぶやいてから、きれいな角度でお辞儀《じぎ》をした。
「このたびはお母さまのこと、まことにご愁傷《しゅうしょう》さまでございました。
わたくしも本来ならば、ご葬儀に参列せねばなりませんのに、弔電だけで失礼させていただきました」
「そうだ。そのお礼をいわなくちゃいけなかったんだ。
その節は、ごていねいな弔電と花を、ありがとうございました。いただいた花のなかに、母の好きなものがが入っていたそうで。家族が喜んでいました」
「白のスイートピーは、ことのほか紀沙さまがお好みの花でしたので……コルヌイエにご宿泊いただくたびに、スイートに飾らせていただいておりました。
それにしても、あの大輪の花のような方がお亡くなりになったとは。
ご家族さまは、さぞお嘆きでしょう。
あらためてお悔やみ申し上げます」
井上は冷たく輝くシルバーフレームの眼鏡をなおし、かすかなため息をはいた。
その様子はまるで映画のスチール写真のようで、聡はこんな時なのに見とれてしまった。
同じ美男と言っても、井上と音也とではまるで印象が違う。
井上が夜のはじめに輝く明星だとしたら、音也の美しさは夜じゅう光り続ける金星のような明るさを持つ。
そして音也が聡の手の届く限りのところにある星だとしても、星はほんの数時間前に聡にふれて、消えた。
音也の指と、舌と吐息は聡にふれて、熱を引き出し、その熱をそっくり飲み込んでから消えてしまった。
記憶が鮮明なぶんだけ、聡の切なさは、咽喉元にせりあがってくる。
ふっと、聡は自分の目に涙の薄い膜が張っていくのがわかった。
音也には、忘れろと言われた。
でも、忘れられない。
「松ヶ峰様?」
井上から声をかけられて、思わず聡ははっとした。
目の前には、見るものがからめ取られずにいられないほどの端正な顔があった。
「お疲れのようですね」
聡はあいまいに笑い、
「すみません。今村先生のの政治資金パーティが無事に終わって、気が抜けたみたいです。
とはいえ、井上さんだってゆうべおそくまで働いていたのに」
ふっと、井上は眉をひそめた。
明星にかすかな雲がかかったように輝きが減《げん》じ、どこかから鋭い角度を持った風が吹いてきたのを、聡は感じる。
井上の甘いテノールが、甘くない音程で尋ねた。
「わたくしは昨日、休みをいただいておりましたが……どこかでお目にかかりましたでしょうか」
「え。あ……あっ」
聡は、蒼白になった。
そうだ。
あの深夜の女性との時間は、井上にとって漏れてはならない秘密だったのだ。
「あの、あの、あの」
呼吸のたびに、聡はしどろもどろになっていく。
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