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第12章「あれは、夢か?」
第96話『おれが呼ばなければ、きみはぜったいにおれのところへ来てくれない』
しおりを挟む(UnsplashのJennifer Marquezが撮影)
聡運転席に座る井上の端正な美貌を見た。この十五年、ホテルマンとしてしか知らなかった井上を年上の男として見てみた。
美しく有能で、しかし頑固であることをみずからの根本《こんぽん》に置いている手ごわい男が、冷静な手つきでミニ・クラブマンを走らせていた。
「あれは、いたずらなんかじゃなかったでしょう」
井上の完璧な防御壁にわずかでも穴をあけたくて、乱暴に言葉をかさねる。
「絶対に、いたずらなんかじゃなかった。おれは正直にいって、感動しましたよ。
男がひとを本気で好きになるとはどういうことなのか、はじめて形《かたち》として見せてもらいました」
「そういう事ではないんですよ。彼女は、妹の親友です」
「いもうと? 井上さんに妹さんがおられましたか」
「いるんです。血は半分しかつながっていませんし、名前もちがいますが」
モスグリーンのミニ・クラブマンは皇居の堀ぞいを走っていく。
「昨日は、妹が体調を崩しまして。あの部屋で寝込んでおりました。
彼女は妹の看病のためにわざわざ一泊してくれただけなのです。わたくしとは、関わりはございません」
その言葉がうそであることは、井上にも聡にもわかっている。なぜなら、昨夜の井上はコルヌイエホテルの廊下で女性に向かって、こう言ったからだ。
『おれが呼ばなければ、きみはぜったいにおれのところへ来てくれない』
短い言葉の中で井上は、来ないからこそ君が大切だ、と言外に叫んでいた。
ちょうどイギリス車好きの男が、言うことをきかない頑固なイギリス車を手放せないように、井上はあの女性をどうしようもなく愛しているのだ。
身のまわりに無数にいるだろう、扱いやすい日本車のような女性たちに目もくれず。
愛らしいフランス車にも派手なイタリア車にも心を許さず。
井上は、ねじ伏せねば来てもくれないイギリス車のような女性に、どうしようもなく恋をしているのだった。
聡は革シートの上でもぞもぞした。踏み込みすぎたと思った。
井上もどこかで言いすぎたと感じたらしい。
端正な顔に苦笑を浮かべ、窓を少し開けて、聡の母・松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》のことを話しはじめた。
「わたくしはいまだに、紀沙さまが二度とコルヌイエにおいでにならないことが、信じられません。
わたくしだけではなく、すべてのコルヌイエスタッフが信じがたい気持ちでおります。あの方は、ホテルマンにとって宝石のように得《え》がたい方でしたから」
「……ほうせき?」
聡が繰り返すと、井上はほんの少しだけ顔をかたむけて、うなずいた。
「わたくしどもは毎日、何百人というゲストをコルヌイエホテルにお迎えしております。
どのゲストにも、おなじように快適に過ごしていただくのがホテルマンの使命です。
しかし、なかにはご予約のお電話が入った瞬間からコルヌイエ中のスタッフがふるいたつようなお客さまがいらっしゃいます。
紀沙さまはまさしく、そのような、特別なお客さまだったのです」
「スタッフが、ふるいたつ……」
聡の困惑を横目で眺めて、美貌のホテルマンは切れ長の目じりのあたりをうっすらと赤らめた。
「奇妙に、思われるでしょうが。ほんとうにそうだったのですよ」
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