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第14章「惚れているからこそ、探さない」
第117話「バレエ『カルメン』」
しおりを挟む(UnsplashのOlivia Blissが撮影)
翌日、聡と環《たまき》が芸術大劇場の客席扉を開けたとき、北方御稲《きたかたみしね》はまぶしいステージの真正面、闇に沈む客席側に立っていた。
舞台ではバレリーナたちが並び、リハーサル中だ。今朝とつぜん御稲から連絡が入り、劇場へ来るように指示されたのだ。
御稲は170センチ近い長身をすっくりと立て、厳しい声をステージ上のダンサーに投げつけていた。
「違うちがう! 何度言わせるんだ、『出《で》』のタイミングは、タ、タン、の『タ』を待ってちゃ遅いんだ。音が出る半音前《はんおんまえ》に、ドンとくるんだ」
御稲はかろやかにステージ脇の階段を上がり、音声スタッフに音を要求した。
華やかなビゼーのオペラ『カルメン』の前奏が流れはじめる。
62才の御稲は、とてもその年齢には見えないしなやかさで、ステージの端《はし》に立った。
ただ立っているだけなのに、そこにだけ、きらびやかなスポットライトがあたっているようだ。
曲に合わせて、御稲の顔があがる。
そして『音が出る半音前』、という聡には訳が分からないタイミングで、トッと足が板を踏んだ。
その瞬間、華やかなバレエの幕が開いたようだった。
北方御稲《きたかたみしね》のようなバレエダンサーにしか作りえない空間ときらびやかさ。
年齢とも美醜とも関わりなく、長年にわたってみずからの身体をいじめ抜き、技術を叩き込んできたダンサーだけに許された動作が、御稲の痩身から放たれていた。
文句なく、美しい。
そしてそれ以上に迫力がある。
「御稲先生が度と舞台に立たれないなんて、本当にもったいない……」
聡の隣で、環がつぶやいた。
聡は苦笑《にがわら》いをして、
「そうだな。しかし、あのひとには美意識があるからな。御稲先生自身が、人前《ひとまえ》で踊ることを自分に許さないんだろう」
環は、聡の言葉を聞いているのかいないのか、返事もしないでステージ上で若いバレエダンサーに細かい指示を与えている御稲のしなやかな姿を見つめていた。
そう言えば、と聡は思う。
北方御稲は、ことのほか藤島環をかわいがっている。
聡の亡母・松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》は、親を亡《な》くした赤ん坊の環を手元に引き取り、娘同様に育てた。北方は、紀沙と同じくらいに環をかわいがっている。
時には厳しいこともいうが、その厳しさは聡に対するものとはまったく違う。
愛情が、にじみ出している厳しさだ。
この子は、そういう子なんだろうか、と聡は考えた。
松ヶ峰紀沙が多大な時間と膨大なカネをつぎ込んで惜《お》しくないと思った少女。
たぐいまれなバレエダンサーがあふれるほどの愛情をそそいでまだ足りない、と思うような少女。
そしてひとりの男に『何があってもあきらめねえ』とまで言わせた若い女だ。
聡自身も最後に残った家族として、環には保護欲と愛情を感じる。
不思議な子だな、と聡は闇の中であごをなでながら考えた。
特に美しくも目立《めだ》つところのないのだが、柔らかさで、まわりの人間を無条件にいやしてしまう。あの音也《おとや》でさえ、環を妹のようにかわいがっている。
音也の事を考えて、聡は口中に嫌《いや》な味を感じたように、顔をしかめた。
昨日の午後、東京で、聡の身体に甘すぎる愉悦を残したきり、姿を消した音也。
その音也がしでかしたことの後始末《あとしまつ》のために、今日の聡は北方御稲のもとにやってきたのだ。
それを環に言うつもりはないが、北方には聡自身で謝罪せねば、聡のほうこそ自分で自分をゆるせない。
銀髪のシルフィードに、かつての男の家族に対して、頭を下げさせた音也。
その行為は、純粋に聡に対する北方の愛情から出たものだろう。
日の謝罪は、聡が背負わねばならない愛情の代償だ。
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