上 下
141 / 164
第16章「風の行方を追え」

第138話「麒麟の羽根音」

しおりを挟む


 
 夜の『ブルーチューリップ』で、聡が、ゆっくりと愛撫を始める。
 音也は何も言わなかった。ただ聡が指で鎖骨や咽喉《のど》や胸を撫でるのを、じっと耐えている。
 そっと、音也の胸に口をつけた。

 ひくっと、音也がふるえる。
 かまわずに、10日前のコルヌイエホテルでできなかったことを次々にやってみた。

 しずかな、何もない静かな部屋で、音也の身体が静かに跳ねる。
 聡は、ゆっくりと指をすべりこませた。その瞬間だけ、音也の身体がはっきりとうねった。

「……は、サト……」
「どこが、佳《い》いんだ? おれはこういうのは初めてだから、よくわからねえよ」
「よ……せ」
「馬鹿。ここまできて、やめられっかよ」

 聡は笑って、音也を大正時代に作られたタイルの上にやわらかく倒した。その間も、指をそっと動かし続けている。

「お前の佳《い》い場所は、おれが覚《おぼ》えておかなくちゃ、だめだろ。
 ……こういう時、やらしい顔をするんだな、おまえ」
「10日前の、お前ほどじゃないよ」

 音也は美貌を快楽でゆがめて言い放った。

「コルヌイエで、きが、くるうかとおもった。指と舌でふれるだけで、あれほど気持ちよくなれるなんて知らなかった。たかが、あれで」
「たかが? おれはもう、意識が飛びそうだったぜ」

 そしていま、指と舌の愛撫でしびれそうになっているのも、聡のほうだ。
 音也も眉をひそめて悦楽に耐えているが、愛撫を与えているはずの聡のほうがもうあふれ出しそうになるほどに、張りつめている。

「声、だせよ音也」

 音也は聡の肉の厚い身体の下で、チッと舌打ちした。

「お前が出さないのに……どうして俺が、声を出さなきゃいけないんだ」
「聞きたいからだよ」
「いやだ」
「強情だな」

 くっと、聡は指を曲げてみた。音也が、明らかに快楽に耐えかねて声をもらした。
 吐息のような。
 息を集めたら『さとし』という音にしかならない、ため息だ。
 聡はゆっくりと身体を倒してささやいた。

「おれの、名を呼べ。おれだけを呼べ」

 暴君の言葉に、いまだけは音也がすなおに従う。

「さと……さ……さと」

 いとしいひとの呼吸音が、なにもない『ブルーチューリップ』に満ちていく。
 温かくやわらかく、聡を狂おしく駆り立てる何かが、からっぽの部屋の中にあふれていく。

 それを愛と呼ぶには聡はまだ、ものを知らなさすぎる。
 だが、それを欲情と呼ぶには、聡はもう深すぎるところまで踏み込んでしまった。
 愛情と欲情がいりまじり、長い指となって、いとしいひとの愛情をさぐっている。
 熱と愉悦がいりまじり、音也の皮膚の上に星のかけらのように散りしきる。

「さとし」

 聡の下で、生まれて初めて本気で惚れた男がしなやかな身体を揉みしぼり、切ない息をたてていた。

「聡。助けてくれ。おれがもう、どこにもいかなくてすむように。おまえがおれを、ここにつなぎとめてくれ」

 ほほ笑みながら聡は音也を見おろした。
 耳のどこかで、音を立てて流れゆく川の動きと、水の流れに乗るブロンズ製の麒麟《きりん》の羽根音《はねおと》が聞こえている。
しおりを挟む

処理中です...