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第18章「コルヌイエホテルにて」
第158話「あれは、ああいう女だったから」
しおりを挟む(UnsplashのKamyar Ghalamchiが撮影)
城見龍里《しろみりゅうり》は、ゆっくりと話しはじめた。日本庭園を流れおちる大滝の水音のあいまに、低い声が聞こえてくる。
深い深い悔恨《かいこん》のふちから、どうしても這い上がれない人の声だ。
「紀沙《きさ》は、聡くんに対して責任を感じていた。
松ヶ峰氏も彼の愛人も早くに亡くなって、聡くんを育てる人間は紀沙しかいなかったからだ。
聡くんが大人になって、国会議員として席を得るまでは、松ヶ峰の家から出られないと、いつも言っていた。
あれは、ああいう女だったから」
『あれは、ああいう女だったから』
城見の愛情のすべては、この一言につまっているように聞こえた。
「だが、紀沙は君を手放すつもりも、なかった。どうあっても手元に置いて育てると決めていた。
だから鬱病《うつびょう》になったと言いふらし、北方《きたかた》の別荘に身をひそめ、君を生んだ」
「……私は、生後半年で松ヶ峰の家にまいりました」
混乱したままの環が言う。
「おばは、軽井沢での静養をもっと早く切り上げたはずです。
では、生まれたばかりの赤ん坊を誰が世話をしたんですか。
誰も知らない『藤島夫妻』ですか」
城見はかすかに夕暮れの気配がただよい始めた日本庭園を見わたした。
「これは、君の知らないことにしておいてほしいんだが、『藤島夫妻』とは、北方と、その当時、彼女が付き合っていた男のことだ。
北方は昔から、紀沙のためなら何でもやった。
生まれたばかりの君の戸籍を作るために、つき合っていた男と一時的に籍を入れ、自分の名前を法的に変えることまで平気でやった。
『北方御稲』は今、法律上は『御稲』ではないはずだ。離婚で北方に戻ったが、あのとき名前を変えたままだから。
北方は、君を『藤島環』としてに紀沙に渡すまで君の世話をして、松ヶ峰邸へ引き取られた時点で円満離婚したよ。
ああいうときの北方は、とにかく手ぎわがいいんだ」
環はもう、声を失っていた。
自分のために組み立てられた詳細なたくらみが、夕暮の庭園の中で次々とあらわになっていく。
森のように深い日本庭園の木立ちのすきまから、紀沙の顔が見えかくれするようだ。
環にはなにも言わず、だまって愛してくれた母親の顔が。
「俺は、紀沙が欲しかった」
滝の音にまぎれて、ふたたび城見の声が聞こえてくる。
「紀沙も、生まれたばかりの君も欲しかった。
君が生まれてしばらくしてから、俺の仕事も安定してきた。だから何度も言ったんだ。君と聡くんをつれて香港にきたらいいって」
しかしそれは、紀沙には、できないことだった。
名古屋で四代続く政治家の家系・松ヶ峰本家の総領《そうりょう》を、一族の期待を一身に背負った一人息子を、国外に連れていくことはできない。
同時に、幼い聡くんを捨てて香港へ来ることも、できなかった。
なぜなら、紀沙は『松ヶ峰紀沙』だったからだ」
環はうなずいた。
そうだ。紀沙は、地方財閥の家名と財産と責任を負っている人間だった。
松ヶ峰の名前と財産を、聡にそっくり譲り渡すまでは、紀沙はただの紀沙になれなかったのだ。
だから。
複雑な手順を踏んで、環を私生児ではなく『藤島家』の娘とし、あらためて手元に引き取った。
血はつながらないが法的には家族であるひとり息子と、血はつながっているが法的には家族ではない娘を手元で育てた。
その秘密を守りきるために、城見龍里とは二度と会わない道を選んだのだ。
「……おばは、毎月あなたに何を送っていたのですか」
環は答えが分かっているような気がしながらも、尋ねてみた。
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