fétiche(フェティッシュ) 〜欲望を満たすもの〜

久遠ユウ(くおんゆう)

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過去の過ち

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「……惨すぎる。いったい千乃が何をしたと言うんだっ。なぜあいつばかりが酷い目に遭う。いや……俺もその内の一人だ。俺が、俺までが、なんてことを千乃にっ」
 八束が全て話し終えると、藤永は静かに涙を流し、自身に制裁を与えるかのよう、こぶしで何度も大腿部を痛めつけた。
 かいつまんで聞かされた八束の話は、藤永の想像を何倍も超える内容だった。

 千乃の過去に目を背けることもできず、瞼を固く閉じるしか怒りを閉じ込める術は見つからなかった。
 卑劣な行為を受ける千乃を想像してしまうと、涙が出そうでたまらなくなる。
 自分もそこに加担している人間の一人だというのに、後悔で押し潰されそうだなんて、反省を口にすることすら許されない。

「最愛の母親と弟を目の前で失くし、実の父親には存在を無視され、義理の母親に身体的な虐待がほぼ日常に行われていた。そのうえ、俺の妻の:自尽(じじん)に、あの子を巻き込んでしまったんですよ……」

「俺も変わらない、千乃に顔向けできないことをしたんだ。仁杉家の連中と何ら変わらない。刑事失格の人間なんだ、俺は」
 千乃の些細な出来心を棚に上げ、弟を守ろうとした裏で、嫉妬にかられた欲望を千乃にぶつけてしまった。自分が知らなかったとは言え、不当なやり口で。
 今更ながら、自分の腐った根性に反吐が出そうになる。

「藤永さんの話し、千乃から少し聞いてます。でもあいつはあなたのことを一度たりとも悪くは言わなかった。妻の時もそうだ、自分が悪いと。側にいたのに助けられなくてごめんって言うんだ」
 八束の遠い目を見ていると、幼い千乃の痛々しい笑顔を思い浮かべているのだろうと思えた。それは藤永も同じ思いだったからだ。

「俺は嫉妬したんだ」
「嫉妬? 誰にですか」
 八束の質問に苦笑しながら「弟に」と、藤永は苦笑した。
「もしかして、藤永さんは──」
「その時は分からなかった。弟にしたことに腹が立った、それは事実だ。けど、なんであんなに怒りが湧いたのか、自分でもわからなかったよ。でも千乃と久しぶりに会って、変わらないあいつと話せて楽しかった。いい年して浮かれてたよ」
「藤永さん……」

「過去にしたことを無かったことには出来ない。だがこの先、千乃に何かあれば助けてやりたいって思うし、出来るなら側にいたい」
 胸の中で占める揺るがない思い。それが遅すぎた自覚であっても、千乃を守りたいし、とことん甘やかしたい。藤永は、さっきまで見せていた弱気な表情を一変し、意を決したように八束を見た。

「あなたの気持ち、俺はよくわかります。俺も、酷いことを千乃にしましたから。けれど、ひとつだけホッとしました。千乃がその、レイプ……されたこと、あなたが男達に指示したんじゃなくて」
 八束の言葉が杭のように胸に刺さる。藤永は涙が止まらず、両手で隠すように顔を覆って嗚咽した。

「嶺澤さん、俺はあなたに約束しますよ。一生、俺が千乃を守る。今、連絡も取れず、その原因を作った自分がこんなことを言うのは烏滸がましいのはわかっている。でも、絶対に千乃を見つけて、生涯、あいつを何モノからも守って見せる」
 誓いのような宣言をして、藤永は真っ直ぐ八束を見た。

「……藤永さん、千乃は子どもの頃、一時的にPTSDを発症しました。心的外傷後ストレス障害は、深刻な症状なんですよ。原因になった体験が、いつどんなタイミングでフラッシュバックするかわからない。今まで生きてきた、安心で安全な人生が一転して脅かされるんです」
 八束が何を言いたいのかわかる。藤永は涙も拭わず、真剣な顔で聞いていた。

「PTSDの患者は常に警戒心を持っていて、子どもの頃の千乃にはそれが顕著に見られた。俺が大学生の千乃に再会するまでも、きっと色々あったはずです。でも、縷紅草で色んな悩みを持つお客を知って、症状は軽くなっていった。虐待されて入院していたときなんかは、俺が診察する度に身構えて、特に首に触れると過剰反応を起こしていた。危険がないか絶えず警戒し、リラックス出来ない。それを千乃は時間をかけて克服したんです。だから、藤永さん。あなたが千乃を守るというなら、どうか、どうか平穏な日常を送れるようにしてやって欲しい」

 テーブルに額を擦り付け、八束が頭を下げてくる。

「頭を上げてください。俺達は同じ罪を持った人間です。それに、あなたは千乃を救ってくれたんですよ。小さな千乃のそばにいたのがあなたで本当によかった。それだけでも、千乃の幸せだ思います」
 他人からすれば時が経つと薄れる記憶でも、当事者は罪を一生忘れてはいけない。ましてや、被害を被った人間は生きていく限り、心に負った傷を抱えて生きていかなければならないのだ。

 一緒に食事をすること、側にいてくれる幸せ。
 そんな些細なことが嬉しいんだと、千乃は言う。
 だったら、それ以上の幸せを与えてやる。
 もう二度と千乃が闇に攫われないように、いつでも笑っていられるよう、藤永は全身に力を込めて固く誓った。

「これからどうするんですか、藤永さん。千乃の捜索を俺は一番に望んでますが」
「これから由元のアトリエに行ってくる。奴がすんなり姿を現すとは思わないけどな。家宅捜査でも出来れば、千乃のがいるか確認できるんだが。ヤツに令状をとる理由が今のところはないんだ」
「何か俺にも出来る事あれば言って下さい。何でもします、千乃は俺にとっても大事な人間なんだ」

 温厚そうに見えた今までの八束と違い、鬼気迫る表情が過去に救命医として、最前線で活躍していた姿を彷彿させた。
「嶺澤さんはこの店で千乃を待っていて下さい。もしかしたら、これは取り越し苦労で、ひょっこり帰ってくるかもしれません。でも、そうじゃなければ俺が必ず連れ戻しますから」

 カフェで柊と初めて出会った時、千乃は何故か不穏な表情だった。
 その時はただ芸術家と言う非凡な人間を前に、緊張していただけだろうと軽く思ってしまったことが悔やまれる。

 千乃は本能で何か感じていたのだろうか……。

「藤永さん、頼みがあります。状況が変わったら連絡をくれませんか。あなたが無理なら伏見君からでもいい。どうかお願いします。俺はいつだって動けるように待機していますから」
 八束が再び頭を下げるから、居た堪れなくなった藤永は冷め切ってしまったお茶を流し込んだ。
 
「あなたのそのバイタリティは、救命医だった過去があるからですね。きっと嶺沢さんはいい医者だったんでしょう。医療業界ももったいないことをしたもんだ」
「藤永さんでも冗談を言うんですね」
「たまには……な」
 贖罪を模索する男二人が口角を上げ、微かな笑いを作ったとき、藤永のスマホが鳴った。

「伏見か。ああ、じゃ俺がそっちへ行く。車で待機してろ」
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