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雪女
山裾の一軒家
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1
肌を刺すように照りつける日差しが、夏本番を高らかに宣言していた。
湿気が立ちのぼり、全身に張りつくような空気。なんだか息苦しささえ感じる。
この町の夏は、たいそう過ごしづらいことで名高い。真夏の最高気温が夕方の全国ニュースに名を連ねるほどだ。
この時季に他県から転勤になる人は、大抵そんな噂を聞き及び、げんなりとした表情でやってくる。そして冬は底冷えのする寒さになるというのだから、転入者には厳しい気候である。
「噂には聞いていましたが、本当に暑いんですね」
本日の来客もまた、そんな客だった。
子連れの女性客。母親は切れ長の目が涼やかなクール系美人だ。長い黒髪を後ろでまとめている。つばの広い帽子に、アームカバー。それに日傘も持っている。これでもか、というくらいに日差しを避けようという心意気が感じられる。
「はい、夏はこんなふうに蒸し暑くなるんですよ」
ご主人が急な転勤になり、この7月から赴任しているという。仕事が忙しく、物件探しがなかなかできないご主人に代わり、部屋の下見をしているのが奥さんの松本春菜。子どもは来年小学校に上がるという女の子で、小春という。
「そうなんですね……。私たち親子は暑いのが得意でなく……。主人だけ単身赴任というのも考えたんですが、やっぱり家族は一緒の方がいいということになりまして」
とはいえ、ここまで暑いのでは話が違う、と言いたげな春菜をよそに、小春は車窓から見えるいつもと違う景色に目を輝かせていた。
「おかあさん! 山の上におうちがある! ねえ、あのおうちがいい!」
「本当だ。素敵ね。これから行くおうちも、山の近くにあるのよ」
「ほんと!? はやく見たいなぁ」
通勤先への近さよりも、住環境を重視したいとの要望を受け、悠弥は山裾の一軒家へと車を走らせていた。
最寄り駅へは徒歩90分。もはや徒歩の距離ではないが、電車が通っていない田舎では、そんな物件も珍しくない。
所有者が住んでいた4DKの平屋を賃貸に出すことになり、今月から募集をはじめた物件だった。他県に住む息子の近くに、新たに居を構えることになったのだという。
築年数は30年を越えるが、水周りのリフォームをしたおかげで、だいぶ見栄えが良い。そのうえ、奥さんが綺麗好きな人だったようで、内装の痛みもあまり見受けられない良物件である。
小さいながらも和風建築といった趣があり、駐車場としても使える庭の端には、小さな池もある。
「お待たせいたしました、到着です」
庭の一角に車を停めると、小春が真っ先に飛び出した。
「すごーい! お庭だぁ!」
はしゃぐ小春を横目に、悠弥は玄関の戸を開ける。手持ちのスリッパを玄関に置き、二人を家の中へ案内する。
「どうぞ、お上りください。ご自由に見ていただいて大丈夫ですよ」
「小春、おいで」
春菜が優しい口調で小春を呼び寄せ、靴をしっかりと揃えさせる。スリッパは小春には大きすぎるので、靴下のまま部屋へあがってもらった。
小春は一目散に廊下を走り抜け、奥の和室へ入っていった。
「あんなにはしゃいで……。ごめんなさい、こんなに広い家は初めてだから、舞い上がっているみたい」
「かなりテンションが上がってますね。大丈夫ですよ。賑やかでも平気なのが、一軒家のいいところですから」
ひとまず春菜をダイニングへ案内し、悠弥は部屋の窓を開けて回った。
日当たりの良い居間は、太陽の光をよく取り込んで温度が上がっている。
縁側の窓を開けると、ぬるい風が部屋へ滑り込んできた。
悠弥は小春が駆け込んだ奥の座敷に向かう。春菜は物件の図面と見比べながら、入念に台所のチェックをはじめていた。
「おかあさーん! おにー!」
小春が母を呼ぶ声が響く。鬼ごっこでもしたいのかな、と思いつつ部屋の中を覗くと、小春は8帖の和室をぐるぐると、ところ狭しと走り回っていた。
そのままスライディングを決め、両手でなにかをつかむような格好で止まった。
「つかまえた!」
嬉しそうにこちらを見る小春。
自分を見つめていた目が母のそれではなかったことに気付き、恥ずかしそうに目を逸らす。
「あっ……」
緩んだ両手の先から何かを追うように小春の視線が移る。
と同時に、部屋の軋む音が視線と同じ場所で鳴り響く。
ピシッ、パキン。
手元の畳から悠弥の足元を過ぎ、廊下の先へ音が遠ざかる。
「逃げちゃった……」
「何かいたのかな?」
「おに。せっかくつかまえたのになぁ」
残念そうに廊下の先を見つめる。
「おに? 鬼を捕まえたのかい?」
「そう! でもあっちに行っちゃった」
立ち上がり、小さな手で乱れた髪を整える姿は、一丁前の女子といった雰囲気だ。
悠弥はなんだか微笑ましくなって、膝をついて小春と同じ目線で部屋を見渡した。
「もう鬼はいないの?」
「いないよー。逃げちゃったもん。お兄ちゃん、見えないの?」
「見えないなぁ。小春ちゃんには鬼が見えるの?」
「うん。おかあさんも見えるよ」
キョロキョロとあたりを見回し、ターゲットを探す小春。
ピシッ、と悠弥の足元の板が音を立てると、小春の目がきらめいた。
「いたーっ!」
小春は廊下へ飛び出し、大きな足音を立てて玄関の方へ走っていく。
板の軋む音と足音が混ざり、賑やかに遠ざかる。
悠弥はその後ろ姿を見送ってから、座敷の窓を開け放つ。居間の方から風が通り抜けた。
「こらこら! お家の中を走っちゃいけません!」
風の入り口の方から、春菜が小春を叱る声も流れてくる。
「だってー……」
悠弥は引き戸で繋がるもう一部屋の窓も開け、二人のいる居間へと足を向けた。
「ほら、鳴家が怖がっているじゃない。追いかけちゃかわいそうよ」
小春は渋々「はーい」と返事をして、おとなしく縁側で庭を眺めはじめた。
「鳴家って……妖怪の鳴家ですか」
居間へ戻り、悠弥は春菜に声をかけた。
朝霧不動産に勤めてからというもの、悠弥もあやかしについての知識を深めようと書物を読んだり、ネットで調べたりを繰り返していた。
鳴家というのは、家を軋ませるあやかしだと記憶している。他に何をするでもなく、とくに害のないあやかしのはずだ。
「小春ちゃんは妖怪とかそういうのが好きなんですね。漫画とかアニメとか、流行ってますもんね」
春菜も小春のごっこ遊びに付き合っているのだろう。悠弥はそう思っていた。
だが、返ってきた答えは予想していたものと違った。
「ええ、この家には鳴家がいるのですね。最近では鳴家の居る家なんて珍しいですから……。きっと良い家なのでしょう」
それは、あたかも本当に鳴家がここに存在しているかのような言い方だった。
「鳴家がいる……んですか?」
「あら、東雲さんは気づいてなかったんですね。さっき小春が追い掛けまわしてしまったみたいで、こちらに走って逃げてきたんですよ」
小春の夢を壊さないために、ごっこ遊びに付き合えということだろうか。
「小春にも、小さなあやかしたちが見えるんです。私の血を引いているから」
「それって……どういう……?」
悠弥が返答に窮していると、春菜が聞き覚えのある言葉を口にした。
「木の葉払いで保証人は大天狗様。私も昔、別の町でお世話になりました」
それは、あやかしたちのための合言葉。あやかしが人間に混じって暮らすための最初の一歩だ。
「お世話に……って、まさかあなたは……」
春菜はにっこりと微笑むと、
「ええ。私は雪女ですから」
さらりとそう言ってのけた。
春奈から部屋探しで最初に提示された条件は、閑静な場所で、できるだけ涼しいところというものだった。ちょうどオーナーから、この一軒家の媒介を依頼されたばかりのタイミングで、山裾のこの立地も条件にピッタリだと思った。
なるほど雪女なら、たしかに涼しい場所を好みそうだ。というか、雪山以外で雪女が存在できるというのが意外である。
「いや……まさか松本さんがあやかしだとは思いませんでした……」
悠弥は、あやかしに対してかなり鈍感だと周りから言われている。
朝霧不動産の跡取り娘の遥は、相手があやかしだと第一印象でわかると言うが、未だに悠弥には判断ができない。
とはいえ、悠弥は、自分くらい鈍感なのが普通なのではないかとも思っている。周りには、あやかしに縁のあるものが多いため、勘が鋭い方が当たり前のように思われがちだが。
「とうにお気づきかと思っていました。朝霧不動産は木の葉払いの物件を扱っているって、地元で聞いてきたんです」
あやかし向け物件を紹介する不動産屋は、各地にあるらしい。遥が以前ちらりとそんな話をしていた。
「では……ご主人も雪女……あ、男性だから雪女ってことはないか……」
転勤でこちらに来るというのだから、ずいぶん人間社会に溶け込んだあやかしなのだろう。
春菜はくすりと笑う。
「いいえ。夫は人間ですよ」
「あ、なるほど。そうなんですね……」
納得したように言ってみたものの、内心は疑問に満ちていた。
奥さんが雪女で、旦那さんは人間。ということは、小春はあやかしのハーフということになる。いや、そもそもあやかしとの間に子をもうけるなんてことが可能なのだろうか。もしかしたら、どちらかの連れ子かもしれない。
小春は再び鳴家を見つけたらしく、じっと縁側の隅を見つめていた。
「家族の中で私だけが暑さが大の苦手でして……。小春は人間の血も引いていますから、少々の暑さやお風呂くらいなら大丈夫みたいですけれど」
当の小春は日差しの降り注ぐ縁側で、今度は鳴家を追いかけず、手招きをして呼び寄せようと試みているようだ。
「小春にはまだ、ちゃんと話をしていないんです。それと……夫にも」
小春に事実を告げるのは、もう少し大きくなってからでもいいだろう。悠弥もそこは納得できた。だが……。
「ご主人は春奈さんが雪女だと知らずにご結婚されたんですか?」
春菜は目を伏せ、小さく頷いた。
「私から真実を話すことはできません。そして、彼がもしも気づいてそれを口にすれば、もはや共に暮らすわけにはいかないのです。それが、雪女の理ですから」
雪女の物語とは、どんなものだったか。悠弥はずいぶん昔に聞いた昔話を思い出そうとした。雪深い山に現れ、人間を凍りつかせて殺してしまう雪女。運良く生き延びた人間の話があったような気がする。
「ですから……夫には私が雪女であることは内緒にしておいてください」
小春が再び鳴家を捕まえたらしく、嬉しそうに声を上げる。
「つかまえたぁー!」
ピシピシっと縁側の床が軋む音を立て、静かになる。
離してあげなさい、と春菜が声をかけると、小春はその両手を開いて何かを手放す仕草をした。
床から壁へ、小さな足音がする。鳴家は小春の手から無事逃げ出したらしい。
「ねぇ、ごめんなさい。もうつかまないよ。だからいっしょにあそぼうよー」
縁側の隅、天井の方に向けて小春が声をかけている。
春菜はその様子に微笑むと、悠弥と目を合わせた。
「小春もこの家が気に入ったみたい。明日、夫が休みなのでもう一度一緒に見学をしてから契約をお願いしたいんですけれど……」
「かしこまりました。では、この家は押さえておきます。ご契約の件はお任せください」
肌を刺すように照りつける日差しが、夏本番を高らかに宣言していた。
湿気が立ちのぼり、全身に張りつくような空気。なんだか息苦しささえ感じる。
この町の夏は、たいそう過ごしづらいことで名高い。真夏の最高気温が夕方の全国ニュースに名を連ねるほどだ。
この時季に他県から転勤になる人は、大抵そんな噂を聞き及び、げんなりとした表情でやってくる。そして冬は底冷えのする寒さになるというのだから、転入者には厳しい気候である。
「噂には聞いていましたが、本当に暑いんですね」
本日の来客もまた、そんな客だった。
子連れの女性客。母親は切れ長の目が涼やかなクール系美人だ。長い黒髪を後ろでまとめている。つばの広い帽子に、アームカバー。それに日傘も持っている。これでもか、というくらいに日差しを避けようという心意気が感じられる。
「はい、夏はこんなふうに蒸し暑くなるんですよ」
ご主人が急な転勤になり、この7月から赴任しているという。仕事が忙しく、物件探しがなかなかできないご主人に代わり、部屋の下見をしているのが奥さんの松本春菜。子どもは来年小学校に上がるという女の子で、小春という。
「そうなんですね……。私たち親子は暑いのが得意でなく……。主人だけ単身赴任というのも考えたんですが、やっぱり家族は一緒の方がいいということになりまして」
とはいえ、ここまで暑いのでは話が違う、と言いたげな春菜をよそに、小春は車窓から見えるいつもと違う景色に目を輝かせていた。
「おかあさん! 山の上におうちがある! ねえ、あのおうちがいい!」
「本当だ。素敵ね。これから行くおうちも、山の近くにあるのよ」
「ほんと!? はやく見たいなぁ」
通勤先への近さよりも、住環境を重視したいとの要望を受け、悠弥は山裾の一軒家へと車を走らせていた。
最寄り駅へは徒歩90分。もはや徒歩の距離ではないが、電車が通っていない田舎では、そんな物件も珍しくない。
所有者が住んでいた4DKの平屋を賃貸に出すことになり、今月から募集をはじめた物件だった。他県に住む息子の近くに、新たに居を構えることになったのだという。
築年数は30年を越えるが、水周りのリフォームをしたおかげで、だいぶ見栄えが良い。そのうえ、奥さんが綺麗好きな人だったようで、内装の痛みもあまり見受けられない良物件である。
小さいながらも和風建築といった趣があり、駐車場としても使える庭の端には、小さな池もある。
「お待たせいたしました、到着です」
庭の一角に車を停めると、小春が真っ先に飛び出した。
「すごーい! お庭だぁ!」
はしゃぐ小春を横目に、悠弥は玄関の戸を開ける。手持ちのスリッパを玄関に置き、二人を家の中へ案内する。
「どうぞ、お上りください。ご自由に見ていただいて大丈夫ですよ」
「小春、おいで」
春菜が優しい口調で小春を呼び寄せ、靴をしっかりと揃えさせる。スリッパは小春には大きすぎるので、靴下のまま部屋へあがってもらった。
小春は一目散に廊下を走り抜け、奥の和室へ入っていった。
「あんなにはしゃいで……。ごめんなさい、こんなに広い家は初めてだから、舞い上がっているみたい」
「かなりテンションが上がってますね。大丈夫ですよ。賑やかでも平気なのが、一軒家のいいところですから」
ひとまず春菜をダイニングへ案内し、悠弥は部屋の窓を開けて回った。
日当たりの良い居間は、太陽の光をよく取り込んで温度が上がっている。
縁側の窓を開けると、ぬるい風が部屋へ滑り込んできた。
悠弥は小春が駆け込んだ奥の座敷に向かう。春菜は物件の図面と見比べながら、入念に台所のチェックをはじめていた。
「おかあさーん! おにー!」
小春が母を呼ぶ声が響く。鬼ごっこでもしたいのかな、と思いつつ部屋の中を覗くと、小春は8帖の和室をぐるぐると、ところ狭しと走り回っていた。
そのままスライディングを決め、両手でなにかをつかむような格好で止まった。
「つかまえた!」
嬉しそうにこちらを見る小春。
自分を見つめていた目が母のそれではなかったことに気付き、恥ずかしそうに目を逸らす。
「あっ……」
緩んだ両手の先から何かを追うように小春の視線が移る。
と同時に、部屋の軋む音が視線と同じ場所で鳴り響く。
ピシッ、パキン。
手元の畳から悠弥の足元を過ぎ、廊下の先へ音が遠ざかる。
「逃げちゃった……」
「何かいたのかな?」
「おに。せっかくつかまえたのになぁ」
残念そうに廊下の先を見つめる。
「おに? 鬼を捕まえたのかい?」
「そう! でもあっちに行っちゃった」
立ち上がり、小さな手で乱れた髪を整える姿は、一丁前の女子といった雰囲気だ。
悠弥はなんだか微笑ましくなって、膝をついて小春と同じ目線で部屋を見渡した。
「もう鬼はいないの?」
「いないよー。逃げちゃったもん。お兄ちゃん、見えないの?」
「見えないなぁ。小春ちゃんには鬼が見えるの?」
「うん。おかあさんも見えるよ」
キョロキョロとあたりを見回し、ターゲットを探す小春。
ピシッ、と悠弥の足元の板が音を立てると、小春の目がきらめいた。
「いたーっ!」
小春は廊下へ飛び出し、大きな足音を立てて玄関の方へ走っていく。
板の軋む音と足音が混ざり、賑やかに遠ざかる。
悠弥はその後ろ姿を見送ってから、座敷の窓を開け放つ。居間の方から風が通り抜けた。
「こらこら! お家の中を走っちゃいけません!」
風の入り口の方から、春菜が小春を叱る声も流れてくる。
「だってー……」
悠弥は引き戸で繋がるもう一部屋の窓も開け、二人のいる居間へと足を向けた。
「ほら、鳴家が怖がっているじゃない。追いかけちゃかわいそうよ」
小春は渋々「はーい」と返事をして、おとなしく縁側で庭を眺めはじめた。
「鳴家って……妖怪の鳴家ですか」
居間へ戻り、悠弥は春菜に声をかけた。
朝霧不動産に勤めてからというもの、悠弥もあやかしについての知識を深めようと書物を読んだり、ネットで調べたりを繰り返していた。
鳴家というのは、家を軋ませるあやかしだと記憶している。他に何をするでもなく、とくに害のないあやかしのはずだ。
「小春ちゃんは妖怪とかそういうのが好きなんですね。漫画とかアニメとか、流行ってますもんね」
春菜も小春のごっこ遊びに付き合っているのだろう。悠弥はそう思っていた。
だが、返ってきた答えは予想していたものと違った。
「ええ、この家には鳴家がいるのですね。最近では鳴家の居る家なんて珍しいですから……。きっと良い家なのでしょう」
それは、あたかも本当に鳴家がここに存在しているかのような言い方だった。
「鳴家がいる……んですか?」
「あら、東雲さんは気づいてなかったんですね。さっき小春が追い掛けまわしてしまったみたいで、こちらに走って逃げてきたんですよ」
小春の夢を壊さないために、ごっこ遊びに付き合えということだろうか。
「小春にも、小さなあやかしたちが見えるんです。私の血を引いているから」
「それって……どういう……?」
悠弥が返答に窮していると、春菜が聞き覚えのある言葉を口にした。
「木の葉払いで保証人は大天狗様。私も昔、別の町でお世話になりました」
それは、あやかしたちのための合言葉。あやかしが人間に混じって暮らすための最初の一歩だ。
「お世話に……って、まさかあなたは……」
春菜はにっこりと微笑むと、
「ええ。私は雪女ですから」
さらりとそう言ってのけた。
春奈から部屋探しで最初に提示された条件は、閑静な場所で、できるだけ涼しいところというものだった。ちょうどオーナーから、この一軒家の媒介を依頼されたばかりのタイミングで、山裾のこの立地も条件にピッタリだと思った。
なるほど雪女なら、たしかに涼しい場所を好みそうだ。というか、雪山以外で雪女が存在できるというのが意外である。
「いや……まさか松本さんがあやかしだとは思いませんでした……」
悠弥は、あやかしに対してかなり鈍感だと周りから言われている。
朝霧不動産の跡取り娘の遥は、相手があやかしだと第一印象でわかると言うが、未だに悠弥には判断ができない。
とはいえ、悠弥は、自分くらい鈍感なのが普通なのではないかとも思っている。周りには、あやかしに縁のあるものが多いため、勘が鋭い方が当たり前のように思われがちだが。
「とうにお気づきかと思っていました。朝霧不動産は木の葉払いの物件を扱っているって、地元で聞いてきたんです」
あやかし向け物件を紹介する不動産屋は、各地にあるらしい。遥が以前ちらりとそんな話をしていた。
「では……ご主人も雪女……あ、男性だから雪女ってことはないか……」
転勤でこちらに来るというのだから、ずいぶん人間社会に溶け込んだあやかしなのだろう。
春菜はくすりと笑う。
「いいえ。夫は人間ですよ」
「あ、なるほど。そうなんですね……」
納得したように言ってみたものの、内心は疑問に満ちていた。
奥さんが雪女で、旦那さんは人間。ということは、小春はあやかしのハーフということになる。いや、そもそもあやかしとの間に子をもうけるなんてことが可能なのだろうか。もしかしたら、どちらかの連れ子かもしれない。
小春は再び鳴家を見つけたらしく、じっと縁側の隅を見つめていた。
「家族の中で私だけが暑さが大の苦手でして……。小春は人間の血も引いていますから、少々の暑さやお風呂くらいなら大丈夫みたいですけれど」
当の小春は日差しの降り注ぐ縁側で、今度は鳴家を追いかけず、手招きをして呼び寄せようと試みているようだ。
「小春にはまだ、ちゃんと話をしていないんです。それと……夫にも」
小春に事実を告げるのは、もう少し大きくなってからでもいいだろう。悠弥もそこは納得できた。だが……。
「ご主人は春奈さんが雪女だと知らずにご結婚されたんですか?」
春菜は目を伏せ、小さく頷いた。
「私から真実を話すことはできません。そして、彼がもしも気づいてそれを口にすれば、もはや共に暮らすわけにはいかないのです。それが、雪女の理ですから」
雪女の物語とは、どんなものだったか。悠弥はずいぶん昔に聞いた昔話を思い出そうとした。雪深い山に現れ、人間を凍りつかせて殺してしまう雪女。運良く生き延びた人間の話があったような気がする。
「ですから……夫には私が雪女であることは内緒にしておいてください」
小春が再び鳴家を捕まえたらしく、嬉しそうに声を上げる。
「つかまえたぁー!」
ピシピシっと縁側の床が軋む音を立て、静かになる。
離してあげなさい、と春菜が声をかけると、小春はその両手を開いて何かを手放す仕草をした。
床から壁へ、小さな足音がする。鳴家は小春の手から無事逃げ出したらしい。
「ねぇ、ごめんなさい。もうつかまないよ。だからいっしょにあそぼうよー」
縁側の隅、天井の方に向けて小春が声をかけている。
春菜はその様子に微笑むと、悠弥と目を合わせた。
「小春もこの家が気に入ったみたい。明日、夫が休みなのでもう一度一緒に見学をしてから契約をお願いしたいんですけれど……」
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