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雪女
雪山の記憶
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4
それは、10年ほど前の冬のこと。
単独で山スキーに臨んだ武史は、吹雪の中で予定のコースをはずれ、遭難状態となっていた。
完全に帰路を見失い、疲労も甚だしい。とうとう身動きも取れなくなってしまった。
木の窪みに身を寄せ、念のためにと持参したツェルトという簡易テントをザックから取り出す。しっかり設営すればテントとして使えるが、吹雪の上、設営する体力も残っていなかった。それをポンチョのようにすっぽりとかぶって寒さを凌いだ。
焦って歩き回ったのがいけなかった。震えがとまらず、体は冷えていくばかり。体が思うように動かなくなり、意識が朦朧としてきたところで、これはもうダメかもしれないな、と諦めの感情が襲ってくる。
寒いのか暑いのかすらわからなくなってきた。それでもじっと眠気に耐えていると、何かの気配が近づいてきたようだった。人か、獣か……。
この状況で眠ってはいけない。頭ではそうわかっていたが、まぶたが重くなり、暗闇に吸い込まれるように意識が遠のいていった。
「大丈夫ですか」
ゆっくり目を開けると、うっすら明るい室内が見えてきた。
「大丈夫ですか、寒くないですか」
目覚めた武史に向けて、薄明かりに照らされた美しい女はもう一度そう言った。
ログハウスだろうか。木目の壁と床。小屋の端までは薄暗くて見渡せない。簡素な作りながら、広さはありそうな部屋だった。
寝かされているのは畳の上だろうか。柔らかくて寝心地が良い。
少なくとも、先ほどまでの凍える寒さからは逃れられたようだ。
武史はこちらを覗き込む女の顔をまじまじと見つめ、瞬きと同時に小さく頷いた。
「よかった。どうぞここで朝までおやすみください。朝になれば、吹雪もおさまりますから」
透き通るような美しい声だった。
女は武史のそばを離れ、窓際の椅子に腰掛けた。
照明らしきものは見当たらないが、ほんのりと明るい室内。暖かいが、ストーブや暖炉も見当たらない。
不思議な空間だった。
黙っているとそのまま眠ってしまいそうだったので、武史はぼんやりとする頭を必死に働かせて、その女に声をかけた。
その声に気付き、女がこちらを振り向いた。
「どうかなさいましたか。痛いところがありますか」
武史の声は言葉になっていなかった。うめくような声を心配して女が近づいてくる。
「大丈夫、です。助けてくれて、ありがとう」
やっと絞り出した声を受け、白い顔の女は、ぽっとその頬を赤くして目をそらした。
あの吹雪の中、この細身の女性が自分をここまで運んだのだろうか。装備の類は置いてきたようだが、大の男をどうしてこの人が運ぶことができたのだろう。
そこまで考えたところで、また眠気が襲ってきた。
「眠っても大丈夫。どうぞおやすみになって。朝になったら起こします」
これは夢なのかもしれない。
武史は目を閉じて、まどろみの中でそう思った。
冷たい手が、頬に触れた。
「ここで私に会ったことは、どうか誰にも言わないでくださいませね」
武史はその手の上に自分の手を重ねた。細くなめらかな白い手。色白で美しい女は、少しだけ頬を染めて優しく微笑んでいた。
「あなたは……」
次に目覚めると、まぶしい朝日が目に飛び込んできた。
昨夜の吹雪から一転、青空に白い雪が美しく映えている。
「ここは……」
昨夜眠りについたはずの小屋の中ではない。屋外である。
意識ははっきりしていた。気を失う前に被ったツェルトもそのまま、ザックも足元に転がっている。
やはり夢でも見ていたのだろうか。
だが不思議なことに、身を寄せたはずの木はそこになく、濡れていたはずの服はすっかり乾いていた。
それに、忘れもしない。
彼女の冷たいけれど柔らかな手の感触。白く美しい顔と、澄んだ水のように透明感のある声。
礼をしなければいけないのに、連絡先はおろか名前すら聞いていない。どうにかしてもう一度会いたいが……。
――私に会ったことは誰にも言わないで――
探そうにも、どうしたら良いものか。そもそも、あれは現実だったのだろうか。
そんな想いをかき消すように、携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
携帯が繋がる場所にいる。
助かったのだ、と自覚したのは、その電話で母親の声を聞いたときだった。
それは、10年ほど前の冬のこと。
単独で山スキーに臨んだ武史は、吹雪の中で予定のコースをはずれ、遭難状態となっていた。
完全に帰路を見失い、疲労も甚だしい。とうとう身動きも取れなくなってしまった。
木の窪みに身を寄せ、念のためにと持参したツェルトという簡易テントをザックから取り出す。しっかり設営すればテントとして使えるが、吹雪の上、設営する体力も残っていなかった。それをポンチョのようにすっぽりとかぶって寒さを凌いだ。
焦って歩き回ったのがいけなかった。震えがとまらず、体は冷えていくばかり。体が思うように動かなくなり、意識が朦朧としてきたところで、これはもうダメかもしれないな、と諦めの感情が襲ってくる。
寒いのか暑いのかすらわからなくなってきた。それでもじっと眠気に耐えていると、何かの気配が近づいてきたようだった。人か、獣か……。
この状況で眠ってはいけない。頭ではそうわかっていたが、まぶたが重くなり、暗闇に吸い込まれるように意識が遠のいていった。
「大丈夫ですか」
ゆっくり目を開けると、うっすら明るい室内が見えてきた。
「大丈夫ですか、寒くないですか」
目覚めた武史に向けて、薄明かりに照らされた美しい女はもう一度そう言った。
ログハウスだろうか。木目の壁と床。小屋の端までは薄暗くて見渡せない。簡素な作りながら、広さはありそうな部屋だった。
寝かされているのは畳の上だろうか。柔らかくて寝心地が良い。
少なくとも、先ほどまでの凍える寒さからは逃れられたようだ。
武史はこちらを覗き込む女の顔をまじまじと見つめ、瞬きと同時に小さく頷いた。
「よかった。どうぞここで朝までおやすみください。朝になれば、吹雪もおさまりますから」
透き通るような美しい声だった。
女は武史のそばを離れ、窓際の椅子に腰掛けた。
照明らしきものは見当たらないが、ほんのりと明るい室内。暖かいが、ストーブや暖炉も見当たらない。
不思議な空間だった。
黙っているとそのまま眠ってしまいそうだったので、武史はぼんやりとする頭を必死に働かせて、その女に声をかけた。
その声に気付き、女がこちらを振り向いた。
「どうかなさいましたか。痛いところがありますか」
武史の声は言葉になっていなかった。うめくような声を心配して女が近づいてくる。
「大丈夫、です。助けてくれて、ありがとう」
やっと絞り出した声を受け、白い顔の女は、ぽっとその頬を赤くして目をそらした。
あの吹雪の中、この細身の女性が自分をここまで運んだのだろうか。装備の類は置いてきたようだが、大の男をどうしてこの人が運ぶことができたのだろう。
そこまで考えたところで、また眠気が襲ってきた。
「眠っても大丈夫。どうぞおやすみになって。朝になったら起こします」
これは夢なのかもしれない。
武史は目を閉じて、まどろみの中でそう思った。
冷たい手が、頬に触れた。
「ここで私に会ったことは、どうか誰にも言わないでくださいませね」
武史はその手の上に自分の手を重ねた。細くなめらかな白い手。色白で美しい女は、少しだけ頬を染めて優しく微笑んでいた。
「あなたは……」
次に目覚めると、まぶしい朝日が目に飛び込んできた。
昨夜の吹雪から一転、青空に白い雪が美しく映えている。
「ここは……」
昨夜眠りについたはずの小屋の中ではない。屋外である。
意識ははっきりしていた。気を失う前に被ったツェルトもそのまま、ザックも足元に転がっている。
やはり夢でも見ていたのだろうか。
だが不思議なことに、身を寄せたはずの木はそこになく、濡れていたはずの服はすっかり乾いていた。
それに、忘れもしない。
彼女の冷たいけれど柔らかな手の感触。白く美しい顔と、澄んだ水のように透明感のある声。
礼をしなければいけないのに、連絡先はおろか名前すら聞いていない。どうにかしてもう一度会いたいが……。
――私に会ったことは誰にも言わないで――
探そうにも、どうしたら良いものか。そもそも、あれは現実だったのだろうか。
そんな想いをかき消すように、携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
携帯が繋がる場所にいる。
助かったのだ、と自覚したのは、その電話で母親の声を聞いたときだった。
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