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海誓山盟明和暗(不変の誓い)
121:干将莫耶(四)
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「公子様! 聞きましたか?」
宮主より使いを頼まれた翳黒明が白宵城まで足を運んだ帰りのことだ。土産などを物色していた翳黒明に屋台で細工物を売っている男が話しかけてきた。
「聞いたって、何をだ?」
この男は名を景伯といって、翳黒明たちが幼い頃からの顔見知りだ。白宵城には麓の村では手に入らないような品物も揃っているため、翳冥宮の門弟や宮主たちも昔から頻繁に訪れる。だからこの景伯やここに住む者たちは、翳冥宮の門弟たちをみな自分の親戚かのように翳黒明たちを思っているというわけだ。
「二公子様の婚約の話ですよ! もう、ここいらでは凄い噂になっているんですよ!」
「こ、婚約!?」
あまりに驚いた翳黒明は、持っていた荷物を取り落としてしまった。
「ほら、二公子様は優しくて穏やかでしょう? それで二公子様を見た富豪のお嬢さんが一目ぼれ。お嬢さんの父親は翳冥宮の宮主様にそりゃあもう何度も頭を下げてようやく婚約の話が纏まったって噂ですよ」
「で、でも翳白暗はなんて言ってるんだ……?」
動揺のあまり声が上擦ってしまったが、景伯は気づいていない。得意げに指を立て「それがですね!」と話を続ける。
「噂じゃお嬢様はたいそう気立ても器量も良いって話ですよ! それで、二公子様とお嬢様を合わせたところ……お互い凄くいい雰囲気で、こりゃあもう婚約間違いないっていう噂で持ち切りですよ! ……あっ!? 公子様!? いったいどちらに!?」
気づいたときには翳黒明は走り出していた。それから先のことはあまり覚えていない。無我夢中で走り続け、気づいたときには幼い頃にやってきた崖に一人呆然と立っていた。
眼下の森を臨めば幼かったときの二人のやり取りが鮮明に思い出される。あの花はまだあるのだろうか、そう思って崖下を覗いてみると、花こそないものの確かにそこに草は生えている。恐らく季節が違えば花も咲くだろう。
ぽたり。
滴が一滴、崖下に吸い込まれてゆく。
「雨……?」
頬を伝う感触を覚え、翳黒明は手を触れる。
それは己の流した涙だった。
何故涙が零れたのか、何故こんなに胸が痛むのか、声をあげて叫びたいと思うのか。
わけの分からぬままひとしきり泣きはらしたあとで、何食わぬ顔をして翳黒明は翳冥宮へと戻った。
使いに出たまま随分長い間姿を見せなかったからか、翳冥宮ではちょっとした騒ぎになっていたようだ。翳黒明が戻ってきたのを見つけると、いったい何があったのかとみなに言われたのだが、寄り道をしていただけだと言って誤魔化した。
「まあ! どうしたんですか。公子様」
翳黒明を見つけた愚京は驚いた顔で駆け寄ってくる。彼女とは幼い頃からの付き合いになるが、翳黒明たちがまだ片手を数える頃から既に大人だった。
決して美人とは言い難いのだが、十年ほど経っても当時と変わりない若さを保っている。いつの間にか年の離れた叔母のような存在だった彼女は、翳黒明たちが成長したことで見た目だけに関してのみなら姉と言っても差し支えないだろう。
しかしながら――正直な気持ちを言えばがさつな彼女にこういうときほど会いたくないときはない。
「なんでもない」
「何でもないわけないでしょう? 目が赤いんじゃないですか? 何か悲しいことでもありました?」
まさにいまこの瞬間がそれだ。
翳黒明は苦虫を噛み潰したような顔で「なんでもないって」と愚京を押しのけ部屋に戻ろうとした。……が、そこでふと思い立ち、愚京に振り返る。
「なあ。お前は翳白暗の噂……知ってるか?」
彼女はは「ああ!」とすぐに合点がいったようで、得意げな顔になった。
「もちろんですよ! 二公子様も隅に置けませんね。お相手のお嬢様は大富豪の一人娘で器量も性格も良いって話です。宮主様もお二人が好きあっているのなら悪い話ではないだろうと仰っていたそうですよ?」
と教えてくれた。
「……そうか……有り難う」
聞き終えた翳黒明は自分でも驚くほど落ち込んだ。愚京に礼を言ったあとはふらふらとそのまま自室へと戻る。そして翳黒明は悩んだ。翳白暗にそのことを問うべきか否か。己の気持ちを伝えるべきなのか、と。
生まれてから何をするにも一緒に育って来た。
もしも、仮に翳白暗にそのような想い人ができたとしても、真っ先に自分に相談をするはずではないのか。
何故、このような形で翳白暗の婚約の話を知らねばならなかったのか。
頭の中で悩みは堂々巡り、出口はまったく見えることはない。
ただ、自分は小宮主であり翳白暗の兄である。父が主導としている婚約の話に、兄である自分が突っ込んでいくのも憚られ、ましてや翳白暗も満更でもないという話。
ならば自分が横から何かを言う資格はないのではないだろうか。
そう思い、己のもやもやとした気持ちは胸の内に押し込めることに決めた。
しかし、翳黒明が将来的に翳冥宮の宮主だとしても、仮にも翳白暗は翳冥宮の二公子だ。宮主がそうやすやすと翳白暗の婚約を承諾するものだろうか。
何より翳白暗はこの婚約に乗り気なのか。富豪はどこまで本気だったのか、富豪の娘は翳白暗のことをどれほど思っているのか。
やはり翳黒明の疑問は尽きなかった。
それでも婚約の話に直接かかわりのない翳黒明には知る由もない。
意外なことに翳冥宮はここまで噂好きであったかと驚くほど、瞬く間に翳白暗の婚約のについての話は広がっていた。相手が富豪だということも余計にみなの興味を引いたのかもしれない。どこを歩いても誰かしら話をしているほどだ。
聞こうと思わずとも、聞きたいと思っていなくても、絶え間なく翳黒明の耳に婚約の話題は入ってくる。
――その過程でただ一つだけはっきりしたこと。
それは、婚約者だという富豪の娘は本気であるということ。
先日、件の富豪と富豪の娘がやってきて、婚礼前の挨拶だと相当な金品を積み上げて宮主に献上していたのだ。
富豪は言わずもがな、絵に描いたような成金趣味の男であったが、ちらりと見た娘の顔は確かに美しく、市井の街娘だがそれなりに学はあるそうだ。あのような娘であるならば、翳冥宮の中でも彼女に言い寄る男も多いかもしれない、などと翳黒明は思う。
翳白暗は彼らの向かいに宮主の傍に立っている。娘が頬を染めながら翳白暗に近づいていくと、翳白暗は困ったような顔で微笑んだ。
宮主の表情は終始険しく、いったい何を考えているのか翳黒明には分からない。ただ、少しだけ救われた気がしたのは、さほど宮主が乗り気には思えなかったことだ。
――もしかしたら、噂というのは全てうそかもしれない。
――嘘であるならどんなに良いことか。
割り切ると決めたものの、心の中では絶えずもやもやと鬱屈した気持ちが渦巻いていて、翳黒明もずっとイライラが募っている。
だからこそ宮主の表情を見て、嘘かもしれない、嘘であってほしいなどと女々しく思ってしまうのだ。
しかし、現実に富豪と娘は二人のためにやってきた。明らかに娘は翳白暗に気がある様子。
少なくとも婚約の話は無いというわけではないらしい。
複雑な気持ちを抱えたまま、翳黒明は広間をあとにした。このままずっと彼らを見ていたら、そのうち何か口を出してしまいそうな気がしたからだ。それはさすがにやってはいけないと己に言い聞かせる。
それでもさすがに婚約の話のことを翳白暗に尋ねることは憚られ、悶々とした気持ちを抱えていたところ、翳黒明は見てしまった。
露台にで抱き合う翳白暗と娘の姿。
体中の血が逆流するような感覚を覚え、急速にやってきた吐き気と眩暈でなにも考えられなくなってしまい、翳黒明は慌ててその場を立ち去った。
そのあとはどうしたのか、自分でもまったく覚えていない。気が付くと部屋で寝台に倒れ込むようにして朝を迎えていた。
目覚めはしたが頭も痛く体も思うように動かない。そのまま翳黒明はその日の稽古をすっぽかしてしまった。
もうどうにでもなればいい。
宮主としての責任も何もかも、捨ててしまいたい。いっそこのまま飛び出して、星霓峰の外に行ってしまおうか。
「黒明……?」
そんなことをぐるぐると考えていると、とつぜん翳白暗の声がしたので翳黒明は驚きのあまり飛び上がった。稽古にも来なかった翳黒明のことを心配したのか、翳白暗が部屋に尋ねてきたのだ。
まだ頭痛も吐き気も収まりきっていなかったため、体勢を崩して寝台から転げ落ちそうになる。
「黒明!」
慌てて入った翳白暗が、咄嗟に翳黒明を抱き留める。同じ容貌をしていても、力は圧倒的に翳白暗のほうが少ない。ともすると二人そろって倒れてしまいそうだったが、なんとか翳白暗は踏ん張って耐えた。
「顔色が悪い……どうしたの!?」
翳白暗の泣きそうな瞳が向けられて翳黒明はぎくりとする。幼い頃から彼に向けられてきた泣き虫の翳白暗を思い出したからだ。
「何でもない……」
本当のことも言えず、翳黒明は咄嗟に翳白暗を押しやった。
「何もないわけないよ、昨日もなんだか変だった。露台に入るのかと思ったら急いで走っていくし……いったいどうしたの?」
昨日の出来事が未だ信じられない翳黒明だったが、翳白暗には逃げかえるところを見られてしまっていたらしい。
「お、お前に関係ないだろ!」
翳黒明は驚き、しかしどう答えていいか困った末にそう言い放つ。翳白暗は暫く目を見開いたまま翳黒明を見ていたが、彼が振り向かないことを悟ったようで、やがて静かに部屋を後にした。
翳白暗の足音が遠ざかってゆくのを聞きながら、翳黒明はもう一度寝台に倒れ込む。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からない。
ただ、もし理由を話そうとすればとめどなく翳白暗に心の内をぶつけてしまいそうな気がして、恐ろしかった。
取り繕ったうまい言い訳の一つでも言うことができれば良かったかもしれない。しかし器用な対応ができるほどには、まだ翳黒明は大人ではなかったのだ。
幼い頃の約束だけをよすがにして勝手に一人裏切られたような気持ちになっている自分。そんな自分が恥ずかしくて情けなくて……一人悶々と繰り返しているのがとても惨めに思えた。
翳冥宮を継ぐべく、立派な公子であれと日々努力をしてきたはずの己であったが、こんなにも容易く心を乱されてしまう。本当に脆くて情けないものだと翳黒明は痛感した。
宮主より使いを頼まれた翳黒明が白宵城まで足を運んだ帰りのことだ。土産などを物色していた翳黒明に屋台で細工物を売っている男が話しかけてきた。
「聞いたって、何をだ?」
この男は名を景伯といって、翳黒明たちが幼い頃からの顔見知りだ。白宵城には麓の村では手に入らないような品物も揃っているため、翳冥宮の門弟や宮主たちも昔から頻繁に訪れる。だからこの景伯やここに住む者たちは、翳冥宮の門弟たちをみな自分の親戚かのように翳黒明たちを思っているというわけだ。
「二公子様の婚約の話ですよ! もう、ここいらでは凄い噂になっているんですよ!」
「こ、婚約!?」
あまりに驚いた翳黒明は、持っていた荷物を取り落としてしまった。
「ほら、二公子様は優しくて穏やかでしょう? それで二公子様を見た富豪のお嬢さんが一目ぼれ。お嬢さんの父親は翳冥宮の宮主様にそりゃあもう何度も頭を下げてようやく婚約の話が纏まったって噂ですよ」
「で、でも翳白暗はなんて言ってるんだ……?」
動揺のあまり声が上擦ってしまったが、景伯は気づいていない。得意げに指を立て「それがですね!」と話を続ける。
「噂じゃお嬢様はたいそう気立ても器量も良いって話ですよ! それで、二公子様とお嬢様を合わせたところ……お互い凄くいい雰囲気で、こりゃあもう婚約間違いないっていう噂で持ち切りですよ! ……あっ!? 公子様!? いったいどちらに!?」
気づいたときには翳黒明は走り出していた。それから先のことはあまり覚えていない。無我夢中で走り続け、気づいたときには幼い頃にやってきた崖に一人呆然と立っていた。
眼下の森を臨めば幼かったときの二人のやり取りが鮮明に思い出される。あの花はまだあるのだろうか、そう思って崖下を覗いてみると、花こそないものの確かにそこに草は生えている。恐らく季節が違えば花も咲くだろう。
ぽたり。
滴が一滴、崖下に吸い込まれてゆく。
「雨……?」
頬を伝う感触を覚え、翳黒明は手を触れる。
それは己の流した涙だった。
何故涙が零れたのか、何故こんなに胸が痛むのか、声をあげて叫びたいと思うのか。
わけの分からぬままひとしきり泣きはらしたあとで、何食わぬ顔をして翳黒明は翳冥宮へと戻った。
使いに出たまま随分長い間姿を見せなかったからか、翳冥宮ではちょっとした騒ぎになっていたようだ。翳黒明が戻ってきたのを見つけると、いったい何があったのかとみなに言われたのだが、寄り道をしていただけだと言って誤魔化した。
「まあ! どうしたんですか。公子様」
翳黒明を見つけた愚京は驚いた顔で駆け寄ってくる。彼女とは幼い頃からの付き合いになるが、翳黒明たちがまだ片手を数える頃から既に大人だった。
決して美人とは言い難いのだが、十年ほど経っても当時と変わりない若さを保っている。いつの間にか年の離れた叔母のような存在だった彼女は、翳黒明たちが成長したことで見た目だけに関してのみなら姉と言っても差し支えないだろう。
しかしながら――正直な気持ちを言えばがさつな彼女にこういうときほど会いたくないときはない。
「なんでもない」
「何でもないわけないでしょう? 目が赤いんじゃないですか? 何か悲しいことでもありました?」
まさにいまこの瞬間がそれだ。
翳黒明は苦虫を噛み潰したような顔で「なんでもないって」と愚京を押しのけ部屋に戻ろうとした。……が、そこでふと思い立ち、愚京に振り返る。
「なあ。お前は翳白暗の噂……知ってるか?」
彼女はは「ああ!」とすぐに合点がいったようで、得意げな顔になった。
「もちろんですよ! 二公子様も隅に置けませんね。お相手のお嬢様は大富豪の一人娘で器量も性格も良いって話です。宮主様もお二人が好きあっているのなら悪い話ではないだろうと仰っていたそうですよ?」
と教えてくれた。
「……そうか……有り難う」
聞き終えた翳黒明は自分でも驚くほど落ち込んだ。愚京に礼を言ったあとはふらふらとそのまま自室へと戻る。そして翳黒明は悩んだ。翳白暗にそのことを問うべきか否か。己の気持ちを伝えるべきなのか、と。
生まれてから何をするにも一緒に育って来た。
もしも、仮に翳白暗にそのような想い人ができたとしても、真っ先に自分に相談をするはずではないのか。
何故、このような形で翳白暗の婚約の話を知らねばならなかったのか。
頭の中で悩みは堂々巡り、出口はまったく見えることはない。
ただ、自分は小宮主であり翳白暗の兄である。父が主導としている婚約の話に、兄である自分が突っ込んでいくのも憚られ、ましてや翳白暗も満更でもないという話。
ならば自分が横から何かを言う資格はないのではないだろうか。
そう思い、己のもやもやとした気持ちは胸の内に押し込めることに決めた。
しかし、翳黒明が将来的に翳冥宮の宮主だとしても、仮にも翳白暗は翳冥宮の二公子だ。宮主がそうやすやすと翳白暗の婚約を承諾するものだろうか。
何より翳白暗はこの婚約に乗り気なのか。富豪はどこまで本気だったのか、富豪の娘は翳白暗のことをどれほど思っているのか。
やはり翳黒明の疑問は尽きなかった。
それでも婚約の話に直接かかわりのない翳黒明には知る由もない。
意外なことに翳冥宮はここまで噂好きであったかと驚くほど、瞬く間に翳白暗の婚約のについての話は広がっていた。相手が富豪だということも余計にみなの興味を引いたのかもしれない。どこを歩いても誰かしら話をしているほどだ。
聞こうと思わずとも、聞きたいと思っていなくても、絶え間なく翳黒明の耳に婚約の話題は入ってくる。
――その過程でただ一つだけはっきりしたこと。
それは、婚約者だという富豪の娘は本気であるということ。
先日、件の富豪と富豪の娘がやってきて、婚礼前の挨拶だと相当な金品を積み上げて宮主に献上していたのだ。
富豪は言わずもがな、絵に描いたような成金趣味の男であったが、ちらりと見た娘の顔は確かに美しく、市井の街娘だがそれなりに学はあるそうだ。あのような娘であるならば、翳冥宮の中でも彼女に言い寄る男も多いかもしれない、などと翳黒明は思う。
翳白暗は彼らの向かいに宮主の傍に立っている。娘が頬を染めながら翳白暗に近づいていくと、翳白暗は困ったような顔で微笑んだ。
宮主の表情は終始険しく、いったい何を考えているのか翳黒明には分からない。ただ、少しだけ救われた気がしたのは、さほど宮主が乗り気には思えなかったことだ。
――もしかしたら、噂というのは全てうそかもしれない。
――嘘であるならどんなに良いことか。
割り切ると決めたものの、心の中では絶えずもやもやと鬱屈した気持ちが渦巻いていて、翳黒明もずっとイライラが募っている。
だからこそ宮主の表情を見て、嘘かもしれない、嘘であってほしいなどと女々しく思ってしまうのだ。
しかし、現実に富豪と娘は二人のためにやってきた。明らかに娘は翳白暗に気がある様子。
少なくとも婚約の話は無いというわけではないらしい。
複雑な気持ちを抱えたまま、翳黒明は広間をあとにした。このままずっと彼らを見ていたら、そのうち何か口を出してしまいそうな気がしたからだ。それはさすがにやってはいけないと己に言い聞かせる。
それでもさすがに婚約の話のことを翳白暗に尋ねることは憚られ、悶々とした気持ちを抱えていたところ、翳黒明は見てしまった。
露台にで抱き合う翳白暗と娘の姿。
体中の血が逆流するような感覚を覚え、急速にやってきた吐き気と眩暈でなにも考えられなくなってしまい、翳黒明は慌ててその場を立ち去った。
そのあとはどうしたのか、自分でもまったく覚えていない。気が付くと部屋で寝台に倒れ込むようにして朝を迎えていた。
目覚めはしたが頭も痛く体も思うように動かない。そのまま翳黒明はその日の稽古をすっぽかしてしまった。
もうどうにでもなればいい。
宮主としての責任も何もかも、捨ててしまいたい。いっそこのまま飛び出して、星霓峰の外に行ってしまおうか。
「黒明……?」
そんなことをぐるぐると考えていると、とつぜん翳白暗の声がしたので翳黒明は驚きのあまり飛び上がった。稽古にも来なかった翳黒明のことを心配したのか、翳白暗が部屋に尋ねてきたのだ。
まだ頭痛も吐き気も収まりきっていなかったため、体勢を崩して寝台から転げ落ちそうになる。
「黒明!」
慌てて入った翳白暗が、咄嗟に翳黒明を抱き留める。同じ容貌をしていても、力は圧倒的に翳白暗のほうが少ない。ともすると二人そろって倒れてしまいそうだったが、なんとか翳白暗は踏ん張って耐えた。
「顔色が悪い……どうしたの!?」
翳白暗の泣きそうな瞳が向けられて翳黒明はぎくりとする。幼い頃から彼に向けられてきた泣き虫の翳白暗を思い出したからだ。
「何でもない……」
本当のことも言えず、翳黒明は咄嗟に翳白暗を押しやった。
「何もないわけないよ、昨日もなんだか変だった。露台に入るのかと思ったら急いで走っていくし……いったいどうしたの?」
昨日の出来事が未だ信じられない翳黒明だったが、翳白暗には逃げかえるところを見られてしまっていたらしい。
「お、お前に関係ないだろ!」
翳黒明は驚き、しかしどう答えていいか困った末にそう言い放つ。翳白暗は暫く目を見開いたまま翳黒明を見ていたが、彼が振り向かないことを悟ったようで、やがて静かに部屋を後にした。
翳白暗の足音が遠ざかってゆくのを聞きながら、翳黒明はもう一度寝台に倒れ込む。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からない。
ただ、もし理由を話そうとすればとめどなく翳白暗に心の内をぶつけてしまいそうな気がして、恐ろしかった。
取り繕ったうまい言い訳の一つでも言うことができれば良かったかもしれない。しかし器用な対応ができるほどには、まだ翳黒明は大人ではなかったのだ。
幼い頃の約束だけをよすがにして勝手に一人裏切られたような気持ちになっている自分。そんな自分が恥ずかしくて情けなくて……一人悶々と繰り返しているのがとても惨めに思えた。
翳冥宮を継ぐべく、立派な公子であれと日々努力をしてきたはずの己であったが、こんなにも容易く心を乱されてしまう。本当に脆くて情けないものだと翳黒明は痛感した。
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