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海誓山盟明和暗(不変の誓い)
124:干将莫耶(七)
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十八歳になったある日のこと。宮主は翳黒明を密かに呼びつけた。それは翳黒明だけに翳冥宮の秘密を伝えるため。幼い頃からこういったことは時々あったのだが、大人になった今となっては大概のことは宮主より伝えられたあとだった。
「黒明。いま翳冥宮は真っ二つに分かれておる」
宮主は誰もいない広間へと翳黒明を連れてゆき、鮮やかな敷布の敷かれた床を指し示す。
「父上?」
その意図が分からずに翳黒明は聞き返した。
「……そう遠くないうちに翳冥宮で大きな争いが起こるやもしれぬ。あるいは、ばらばらの翳冥宮の現状を好機と捉え、様々な勢力が狙ってくる可能性もある」
「まさか。そのようなことがあるはずは……」
宮主は静かに首を振る。
「絶対はあり得ない。この床の下には逆極陣が描いてある」
「逆極陣、ですか?」
「そうだ。逆極陣は太極・陰陽の理と真逆の性質を持つ特別な陣であり、我々の祖先がこの地に根を降ろしたとき、万晶鉱と魔界の力を用いて作り出したもの。翳冥宮の一族が持つ陰の力を発動の鍵として、陣により反転・増幅した陰陽の力が激突し凄まじい力を呼び起こすのだ」
何故そのような危険なものを――。翳黒明は宮主に問おうとしたが、彼の切羽詰まった眼差しを見て、それほどの理由があるのだと悟った。
「発動させれば仙界や魔界の者ですら甚大な被害を被るほどの威力となるだろう。陣の発動方法はこれからお前に伝えよう。もしも翳冥宮が戦いの場になるようなことがあったなら、ここへ導き迷わず陣を発動させなさい」
「父上、白暗には伝えなくて良いのですか?」
そのような重要なことを、いくら後を任せるつもりとはいえ自分だけに伝えるのみで良いのだろうかと翳黒明は考えたのだ。少なくとも翳白暗は家族であり、翳黒明と同じ年齢でもある。本当に翳冥宮に危機が訪れたなら、当然弟もその事を伝えられるべきであると翳黒明は考えた。
しかし、やはり宮主は首を振る。
「いまの白暗であれ、かつての穏やかな白暗であれ、この重さをあやつに背負わせるわけにはゆかぬ。宮主には相応の責任がある。その責を負うのには覚悟が必要だ。……黒明。私はその覚悟を、その重さをお前に全て託す。幼い頃より一身にお前が背負ってきたのだから」
そのときの翳黒明は、まだ宮主の言った言葉の意味をそこまで重く捉えてはいなかった。
はじめは翳黒明と翳白暗が拗れただけだったが、気づけば宮主と翳白暗との間には深い溝ができていた。
少しも譲らぬ父に己の我を通そうとする翳白暗。
かつての翳白暗ならば父に楯突くということはしなかった。いまはそのような面影もなく、父が何を言おうが気にする様子はない。そうこうしているうちに、親子の溝は取り返しがつかないほど深くなってゆく。
同時に翳黒明もまたそんな翳白暗に強く出ることができず、取り巻きからは『やはり宮主には相応しくない』などといわれる始末。
それから翳黒明は翳白暗のことが気になって、何度か彼と話をしようと試みたのだが、すげなく断られてしまった。
以前の翳白暗ならば、そのようなことはしなかっただろう。
言葉を重ねれば重ねるほど、目の前にいる己と同じ顔の青年はいったい何者なのかという疑問が湧いてくる。
どうしても、ただ性格が拗れただけとは思えなかったのだ。
もちろん、翳白暗がこうなった原因の一端は自分にある。
あれほど翳冥宮の外の者や門弟たちが噂をしていたにもかかわらず、翳白暗の婚約の話はまるで霧のような実体のない話だった。いや、実際のところ話自体はあったのだが、翳白暗はそれを了承していなかったのだという。
ならば宮主が一人で勝手に話を推し進めてしまった、彼の早とちりだったということか。
翳黒明の後悔は、噂をちゃんと確かめることもせずに翳白暗を責め立ててしまったこと。彼を傷つけてしまったこと。
一度でも腹を割って互いに話をしていたら、そのようなことは防げたかもしれない。だから、翳白暗がこうなった責任の大半は自分に責任がある。
それは承知しているのだ。けれど、些細な仕草や表情や、言動の全てを見て思う。
――あれは白暗であるが、何か別のものなのではないかと。
それは少々言い過ぎかもしれないが、確実に言えることは『生まれ持った性質を短期間に変えることはそう容易くできるものではない』ということだ。
(白暗は何か悪いものに乗っ取られているのだろうか?)
そんなことを考えるが、しかしそれならば宮主すら気づかないというのは不可解な話だ。
ただ、それでも翳黒明は思う。やはり翳白暗の様子はどこか妙だ。
双子であるから分かることがあり、違和感がある。
その原因を突き止めたくて、この現状をどうにかしたくて翳黒明はたびたび翳白暗に話しかけたし、元の彼に戻るよう、できるだけ言葉を選んだ。そのような努力をしたにもかかわらず、結果としては何ら成果がなかったのが口惜しい。
* * *
その日、翳黒明は宮主の代理として書簡を届けるため恒凰宮を訪れていた。それも供の者はなくたった一人で向かって欲しい、誰にも告げず気づかれず翳冥宮を出て欲しいという、かなり異質な頼みごと。ここまで警戒しているのは、よほどの事情があったのだろう。宮主から話を聞いて翳黒明はそう感じた。
翳冥宮と恒凰宮は二つで一つの役目を持っているため、交流も密だ。それも翳白暗の一件が起きてからは暫く交流が途絶えていた。だから、翳黒明が恒凰宮を訪れたのも随分久方ぶりのことだ。
書簡の内容について翳黒明は何も知らなかったのだが、どうやら翳冥宮の内情について何か書かれていたらしい。
「小宮主。翳冥宮はいま、かなり揉めているようだな」
恒凰宮の宮主は書簡を見るなり、眉間にしわを寄せる。その表情からも、一連の翳冥宮での出来事がつづられていたことに間違いはないと翳黒明は確信した。
「お恥ずかしい話ですが……私も弟と諍いになってしまいました。どこかで一歩踏みとどまっていればここまでの事態になることは防げたのではないかと……いまは後悔しきりです」
「私は公子たちが幼い頃を知っています。二人とも仲睦まじく、とても諍いになるとは思えない」
「それだけ大人になったのだと思います」
いまさら慰めの言葉など何にもならない。とはいっても相手は恒凰宮の宮主。失礼になってはいけないと翳黒明は無理に微笑んだ。
「いや、それは違う」
きっぱりと言い切った宮主の言葉に翳黒明は瞠目した。
「違う、とは?」
「もしも二公子がやけを起こしただけならば、わざわざ翳冥宮の宮主が内密にそなたを寄越す必要はなかったはずだ。誰にも気づかれぬように私に報せたということは、それ以上の何かがあったからこそ、宮主は小宮主を遣わしたに違いない」
翳黒明はハッとした。
宮主の言う通りだったからだ。
(なら……なら、何故こんなことになってしまったんだ!?)
調べなければ、すぐに翳冥宮に戻って、原因を突き止めなければ。
恒凰宮の宮主は翳冥宮の件について全面的に協力することを約束してくれた。
あとは事の仔細を突き止めるだけ――。
の、はずだったのだが。
その願いは結局叶うことはなかった。
「大変です! 翳冥宮の小宮主に急ぎお伝えしたい事がございます!」
慌てて入ってきた恒凰宮の門弟は、まだ息も整わぬうちに叫んだ。
「翳冥宮が、翳冥宮が燃えているのです!」
「なんだって!?」
恒凰宮の露台の上から翳冥宮の方向を見れば、確かにはるか遠くで黒煙が上がっているのが見える。
支度を終え次第向かうという宮主に断って、翳黒明は誰よりも先に恒凰宮を飛び出した。
考えなくても分かる。翳冥宮でただならぬ事態が起こったということを。
言いようもないほど膨らんだ不安を堪えながら、休むことなく翳黒明は翳冥宮へと向かった。
翳冥宮に戻ってきた翳黒明が見たのは、崩れた翳冥宮の門と、その傍に停まっているひしゃげた馬車の残骸。馬車は石壁の下敷きになっていて、殆ど原形を留めてはいない。横倒しの車輪の奥に人の手のようなものが見えたが、誰の者かは分からなかった。
(これは……あの富豪の馬車じゃないか?)
嫌でも記憶に残っている。たびたび翳冥宮を訪れていた、翳白暗と婚約していたという富豪の馬車だ。門の周りにも見知った顔が倒れているが、彼らが既に絶命していることは一目瞭然だった。
(白暗……白暗は!? 父上は!?)
嫌な汗が首筋を伝う。考えが結論に辿り着く前に翳黒明は広間の方へと走り出していた。
「うっ……」
屋内に一歩足を踏み入れた翳黒明は、むせ返るような血の臭いに顔をしかめる。至る所に門弟たちが、折り重なるようにして罪上がっている。そのなかの一人から小さなうめき声が聞こえてきた。
「おい! しっかりしろ! 何があったんだ!?」
翳黒明は息も絶え絶えの門弟を見つけ、助け起こす。彼の傷は深く、翳黒明ではもうどうすることもできない状態で、意識があるのが軌跡であるほどだった。
「二公子が……」
「白暗!?」
力尽きようとしている男の手を翳黒明は握り「死ぬな!」と叫ぶ。しかし瞳の中の光はもう殆ど残っておらず、殆ど執念ともいえる状態で彼は言い残した。
「宮主様を刺して……」
その言葉に翳黒明は息をのむ。続きは……と思ったが既に腕の中の男は息絶えている。
「済まない、あとで戻ってくるから……!」
何一つしてやれないもどかしさに唇を噛み、けれど翳白暗と父のことが気になって、翳黒明は翳冥宮の中を走った。
広間について驚いたのは、富豪と、富豪の娘の死体があったこと。彼らは二人とも何の力も持たぬ、ただの金持ちというだけ。少なくとも理由なくこのような惨たらしい姿になって良いはずがない。
翳黒明は二人の変わり果てた姿を見て、猛烈な不安に襲われた。
(まさか……)
先ほどの死んだ門弟の言葉を思い出す。彼らをこのような状態にしたのは――この先は考えたくはない。
「血迷ったのか! 白暗!」
しかし、答えはすぐに出てしまった。反射的に翳黒明は声の方へと駆け出した。
紛れもない、父の声だったからだ。
「……父上! 白暗!」
叫ぼうとしたが、あまりの光景に翳黒明は言葉がすぐに出てこなかった。叫んだつもりが掠れた声だけが喉の奥からひゅうひゅうという音と共に発せられる。
目の前に広がるのは死体の山。血だまりができるほどの酷い惨状に翳黒明は言葉を失った。
しかし、その向こう側で繰り広げられているのは、宮主と翳白暗の本気の殺し合い。
剣で宮主と互角に戦う翳白暗の姿は、確かに見事なものだった。しかし、その剣には曇りが見える。まっとうなものではないのだ。
対して宮主は腹から血を流している。恐らく先ほど言っていた「突然刺された傷」なのだろう。
(はやく、はやく二人を止めなければ。翳白暗をなんとかしなければ……!)
とにかく何が起こったのかまったく分からない。しかし、翳白暗の暴走を止めなければならないということだけは分かっている。
翳黒明は渾身の力を込めて二人に向かって叫んだ。
「止めるんだ! 白暗!」
しかし皮肉なことに、その瞬間全ての決着がついてしまっていた。
父の口から鮮血が溢れ、そしてその場に崩れ落ちる。翳黒明は咄嗟に駆け寄ろうとしたのだが、翳白暗は倒れた父に対し、とどめの一振りを躊躇なく与えたのだ。
「あ……」
父に走り寄ろうとした翳黒明は、その光景を見て足が動かなくなってしまった。決して怖じ気づいたのではない。あまりのことに驚き、目の前の事実を信じることができず思考が一瞬停止してしまったのだ。
「なんだ、黒明じゃないか。いないからおかしいと思ってたんだ」
そう言って翳黒明を見た翳白暗の表情は身震いするほど冷たく、何の感情も見えなかった。
「白暗! お前……何をやったか分かっているのか!?」
掠れる声でそう叫ぶ。
翳白暗は肩を竦め冷たく笑う。
「何をって……ああ、そう。父上が勝手に決めた自称婚約者? 随分何度も断ったけど、しつこくてイライラしたから殺したよ。仕方ないよね、だって僕の気持ちなんかこれっぽっちも考えないで自分の気持ちばっかり押し付けてくるんだもの」
「な……」
さらりと言ってのける目の前の男は、本当に翳黒明の知る翳白暗なのか?
とても翳黒明には信じることができなかった。
「そうしたら父上が凄い怒ってきたから、ちょっと剣で刺してやったんだ。……あとはもう、次々にみんなが僕に向かってくるから片っ端から殺しちゃった。だって、仕方ないよね? あいつらから先に攻撃してきたんだから」
「分かっているのか……? 自分が何をしでかしたのか。父上を殺す必要はあったのか? 翳冥宮のみんなを殺す必要があったのか? それに……お前が望まなかったとしても、婚約が望まぬものだったとしても、彼女や彼女の父親は何の力も持たない弱い人間だ。彼らを殺す必要が!?」
「ああもう、うるさいなあ」
上擦りながらまくし立てた翳黒明を遮るように、心底煩いという様子で翳白暗は言った。
「僕がなんで宮主になりたかったか、黒明にはわかる?」
翳黒明は答えられない。
「宮主になったら、欲しいものが手に入れられると思ったからだ。僕は望んでも何一つ手に入れることができなかった。要らないものばかり押し付けられる。だから、僕は僕の欲しかったものを手に入れるために……」
「その結果が、この惨状なのか!?」
今度は翳白暗の言葉を遮って、翳黒明が叫んだ。
「宮主なんてもういない。翳冥宮は終わりだ!」
「なんで? 僕が宮主になれば解決するでしょ?」
翳黒明は翳白暗を見る。
翳冥宮に来る前までは様々なことを考えていた。これからのこと、翳冥宮のこと。それに、翳白暗のこと。
――でも、もうどうでもいい。
もはや翳白暗の罪をこれ以上増やすことはできない。兄である己が翳白暗の暴挙を終わらせなければならないのだ。
涙を拭い、翳黒明は吼えた。
「黒明。いま翳冥宮は真っ二つに分かれておる」
宮主は誰もいない広間へと翳黒明を連れてゆき、鮮やかな敷布の敷かれた床を指し示す。
「父上?」
その意図が分からずに翳黒明は聞き返した。
「……そう遠くないうちに翳冥宮で大きな争いが起こるやもしれぬ。あるいは、ばらばらの翳冥宮の現状を好機と捉え、様々な勢力が狙ってくる可能性もある」
「まさか。そのようなことがあるはずは……」
宮主は静かに首を振る。
「絶対はあり得ない。この床の下には逆極陣が描いてある」
「逆極陣、ですか?」
「そうだ。逆極陣は太極・陰陽の理と真逆の性質を持つ特別な陣であり、我々の祖先がこの地に根を降ろしたとき、万晶鉱と魔界の力を用いて作り出したもの。翳冥宮の一族が持つ陰の力を発動の鍵として、陣により反転・増幅した陰陽の力が激突し凄まじい力を呼び起こすのだ」
何故そのような危険なものを――。翳黒明は宮主に問おうとしたが、彼の切羽詰まった眼差しを見て、それほどの理由があるのだと悟った。
「発動させれば仙界や魔界の者ですら甚大な被害を被るほどの威力となるだろう。陣の発動方法はこれからお前に伝えよう。もしも翳冥宮が戦いの場になるようなことがあったなら、ここへ導き迷わず陣を発動させなさい」
「父上、白暗には伝えなくて良いのですか?」
そのような重要なことを、いくら後を任せるつもりとはいえ自分だけに伝えるのみで良いのだろうかと翳黒明は考えたのだ。少なくとも翳白暗は家族であり、翳黒明と同じ年齢でもある。本当に翳冥宮に危機が訪れたなら、当然弟もその事を伝えられるべきであると翳黒明は考えた。
しかし、やはり宮主は首を振る。
「いまの白暗であれ、かつての穏やかな白暗であれ、この重さをあやつに背負わせるわけにはゆかぬ。宮主には相応の責任がある。その責を負うのには覚悟が必要だ。……黒明。私はその覚悟を、その重さをお前に全て託す。幼い頃より一身にお前が背負ってきたのだから」
そのときの翳黒明は、まだ宮主の言った言葉の意味をそこまで重く捉えてはいなかった。
はじめは翳黒明と翳白暗が拗れただけだったが、気づけば宮主と翳白暗との間には深い溝ができていた。
少しも譲らぬ父に己の我を通そうとする翳白暗。
かつての翳白暗ならば父に楯突くということはしなかった。いまはそのような面影もなく、父が何を言おうが気にする様子はない。そうこうしているうちに、親子の溝は取り返しがつかないほど深くなってゆく。
同時に翳黒明もまたそんな翳白暗に強く出ることができず、取り巻きからは『やはり宮主には相応しくない』などといわれる始末。
それから翳黒明は翳白暗のことが気になって、何度か彼と話をしようと試みたのだが、すげなく断られてしまった。
以前の翳白暗ならば、そのようなことはしなかっただろう。
言葉を重ねれば重ねるほど、目の前にいる己と同じ顔の青年はいったい何者なのかという疑問が湧いてくる。
どうしても、ただ性格が拗れただけとは思えなかったのだ。
もちろん、翳白暗がこうなった原因の一端は自分にある。
あれほど翳冥宮の外の者や門弟たちが噂をしていたにもかかわらず、翳白暗の婚約の話はまるで霧のような実体のない話だった。いや、実際のところ話自体はあったのだが、翳白暗はそれを了承していなかったのだという。
ならば宮主が一人で勝手に話を推し進めてしまった、彼の早とちりだったということか。
翳黒明の後悔は、噂をちゃんと確かめることもせずに翳白暗を責め立ててしまったこと。彼を傷つけてしまったこと。
一度でも腹を割って互いに話をしていたら、そのようなことは防げたかもしれない。だから、翳白暗がこうなった責任の大半は自分に責任がある。
それは承知しているのだ。けれど、些細な仕草や表情や、言動の全てを見て思う。
――あれは白暗であるが、何か別のものなのではないかと。
それは少々言い過ぎかもしれないが、確実に言えることは『生まれ持った性質を短期間に変えることはそう容易くできるものではない』ということだ。
(白暗は何か悪いものに乗っ取られているのだろうか?)
そんなことを考えるが、しかしそれならば宮主すら気づかないというのは不可解な話だ。
ただ、それでも翳黒明は思う。やはり翳白暗の様子はどこか妙だ。
双子であるから分かることがあり、違和感がある。
その原因を突き止めたくて、この現状をどうにかしたくて翳黒明はたびたび翳白暗に話しかけたし、元の彼に戻るよう、できるだけ言葉を選んだ。そのような努力をしたにもかかわらず、結果としては何ら成果がなかったのが口惜しい。
* * *
その日、翳黒明は宮主の代理として書簡を届けるため恒凰宮を訪れていた。それも供の者はなくたった一人で向かって欲しい、誰にも告げず気づかれず翳冥宮を出て欲しいという、かなり異質な頼みごと。ここまで警戒しているのは、よほどの事情があったのだろう。宮主から話を聞いて翳黒明はそう感じた。
翳冥宮と恒凰宮は二つで一つの役目を持っているため、交流も密だ。それも翳白暗の一件が起きてからは暫く交流が途絶えていた。だから、翳黒明が恒凰宮を訪れたのも随分久方ぶりのことだ。
書簡の内容について翳黒明は何も知らなかったのだが、どうやら翳冥宮の内情について何か書かれていたらしい。
「小宮主。翳冥宮はいま、かなり揉めているようだな」
恒凰宮の宮主は書簡を見るなり、眉間にしわを寄せる。その表情からも、一連の翳冥宮での出来事がつづられていたことに間違いはないと翳黒明は確信した。
「お恥ずかしい話ですが……私も弟と諍いになってしまいました。どこかで一歩踏みとどまっていればここまでの事態になることは防げたのではないかと……いまは後悔しきりです」
「私は公子たちが幼い頃を知っています。二人とも仲睦まじく、とても諍いになるとは思えない」
「それだけ大人になったのだと思います」
いまさら慰めの言葉など何にもならない。とはいっても相手は恒凰宮の宮主。失礼になってはいけないと翳黒明は無理に微笑んだ。
「いや、それは違う」
きっぱりと言い切った宮主の言葉に翳黒明は瞠目した。
「違う、とは?」
「もしも二公子がやけを起こしただけならば、わざわざ翳冥宮の宮主が内密にそなたを寄越す必要はなかったはずだ。誰にも気づかれぬように私に報せたということは、それ以上の何かがあったからこそ、宮主は小宮主を遣わしたに違いない」
翳黒明はハッとした。
宮主の言う通りだったからだ。
(なら……なら、何故こんなことになってしまったんだ!?)
調べなければ、すぐに翳冥宮に戻って、原因を突き止めなければ。
恒凰宮の宮主は翳冥宮の件について全面的に協力することを約束してくれた。
あとは事の仔細を突き止めるだけ――。
の、はずだったのだが。
その願いは結局叶うことはなかった。
「大変です! 翳冥宮の小宮主に急ぎお伝えしたい事がございます!」
慌てて入ってきた恒凰宮の門弟は、まだ息も整わぬうちに叫んだ。
「翳冥宮が、翳冥宮が燃えているのです!」
「なんだって!?」
恒凰宮の露台の上から翳冥宮の方向を見れば、確かにはるか遠くで黒煙が上がっているのが見える。
支度を終え次第向かうという宮主に断って、翳黒明は誰よりも先に恒凰宮を飛び出した。
考えなくても分かる。翳冥宮でただならぬ事態が起こったということを。
言いようもないほど膨らんだ不安を堪えながら、休むことなく翳黒明は翳冥宮へと向かった。
翳冥宮に戻ってきた翳黒明が見たのは、崩れた翳冥宮の門と、その傍に停まっているひしゃげた馬車の残骸。馬車は石壁の下敷きになっていて、殆ど原形を留めてはいない。横倒しの車輪の奥に人の手のようなものが見えたが、誰の者かは分からなかった。
(これは……あの富豪の馬車じゃないか?)
嫌でも記憶に残っている。たびたび翳冥宮を訪れていた、翳白暗と婚約していたという富豪の馬車だ。門の周りにも見知った顔が倒れているが、彼らが既に絶命していることは一目瞭然だった。
(白暗……白暗は!? 父上は!?)
嫌な汗が首筋を伝う。考えが結論に辿り着く前に翳黒明は広間の方へと走り出していた。
「うっ……」
屋内に一歩足を踏み入れた翳黒明は、むせ返るような血の臭いに顔をしかめる。至る所に門弟たちが、折り重なるようにして罪上がっている。そのなかの一人から小さなうめき声が聞こえてきた。
「おい! しっかりしろ! 何があったんだ!?」
翳黒明は息も絶え絶えの門弟を見つけ、助け起こす。彼の傷は深く、翳黒明ではもうどうすることもできない状態で、意識があるのが軌跡であるほどだった。
「二公子が……」
「白暗!?」
力尽きようとしている男の手を翳黒明は握り「死ぬな!」と叫ぶ。しかし瞳の中の光はもう殆ど残っておらず、殆ど執念ともいえる状態で彼は言い残した。
「宮主様を刺して……」
その言葉に翳黒明は息をのむ。続きは……と思ったが既に腕の中の男は息絶えている。
「済まない、あとで戻ってくるから……!」
何一つしてやれないもどかしさに唇を噛み、けれど翳白暗と父のことが気になって、翳黒明は翳冥宮の中を走った。
広間について驚いたのは、富豪と、富豪の娘の死体があったこと。彼らは二人とも何の力も持たぬ、ただの金持ちというだけ。少なくとも理由なくこのような惨たらしい姿になって良いはずがない。
翳黒明は二人の変わり果てた姿を見て、猛烈な不安に襲われた。
(まさか……)
先ほどの死んだ門弟の言葉を思い出す。彼らをこのような状態にしたのは――この先は考えたくはない。
「血迷ったのか! 白暗!」
しかし、答えはすぐに出てしまった。反射的に翳黒明は声の方へと駆け出した。
紛れもない、父の声だったからだ。
「……父上! 白暗!」
叫ぼうとしたが、あまりの光景に翳黒明は言葉がすぐに出てこなかった。叫んだつもりが掠れた声だけが喉の奥からひゅうひゅうという音と共に発せられる。
目の前に広がるのは死体の山。血だまりができるほどの酷い惨状に翳黒明は言葉を失った。
しかし、その向こう側で繰り広げられているのは、宮主と翳白暗の本気の殺し合い。
剣で宮主と互角に戦う翳白暗の姿は、確かに見事なものだった。しかし、その剣には曇りが見える。まっとうなものではないのだ。
対して宮主は腹から血を流している。恐らく先ほど言っていた「突然刺された傷」なのだろう。
(はやく、はやく二人を止めなければ。翳白暗をなんとかしなければ……!)
とにかく何が起こったのかまったく分からない。しかし、翳白暗の暴走を止めなければならないということだけは分かっている。
翳黒明は渾身の力を込めて二人に向かって叫んだ。
「止めるんだ! 白暗!」
しかし皮肉なことに、その瞬間全ての決着がついてしまっていた。
父の口から鮮血が溢れ、そしてその場に崩れ落ちる。翳黒明は咄嗟に駆け寄ろうとしたのだが、翳白暗は倒れた父に対し、とどめの一振りを躊躇なく与えたのだ。
「あ……」
父に走り寄ろうとした翳黒明は、その光景を見て足が動かなくなってしまった。決して怖じ気づいたのではない。あまりのことに驚き、目の前の事実を信じることができず思考が一瞬停止してしまったのだ。
「なんだ、黒明じゃないか。いないからおかしいと思ってたんだ」
そう言って翳黒明を見た翳白暗の表情は身震いするほど冷たく、何の感情も見えなかった。
「白暗! お前……何をやったか分かっているのか!?」
掠れる声でそう叫ぶ。
翳白暗は肩を竦め冷たく笑う。
「何をって……ああ、そう。父上が勝手に決めた自称婚約者? 随分何度も断ったけど、しつこくてイライラしたから殺したよ。仕方ないよね、だって僕の気持ちなんかこれっぽっちも考えないで自分の気持ちばっかり押し付けてくるんだもの」
「な……」
さらりと言ってのける目の前の男は、本当に翳黒明の知る翳白暗なのか?
とても翳黒明には信じることができなかった。
「そうしたら父上が凄い怒ってきたから、ちょっと剣で刺してやったんだ。……あとはもう、次々にみんなが僕に向かってくるから片っ端から殺しちゃった。だって、仕方ないよね? あいつらから先に攻撃してきたんだから」
「分かっているのか……? 自分が何をしでかしたのか。父上を殺す必要はあったのか? 翳冥宮のみんなを殺す必要があったのか? それに……お前が望まなかったとしても、婚約が望まぬものだったとしても、彼女や彼女の父親は何の力も持たない弱い人間だ。彼らを殺す必要が!?」
「ああもう、うるさいなあ」
上擦りながらまくし立てた翳黒明を遮るように、心底煩いという様子で翳白暗は言った。
「僕がなんで宮主になりたかったか、黒明にはわかる?」
翳黒明は答えられない。
「宮主になったら、欲しいものが手に入れられると思ったからだ。僕は望んでも何一つ手に入れることができなかった。要らないものばかり押し付けられる。だから、僕は僕の欲しかったものを手に入れるために……」
「その結果が、この惨状なのか!?」
今度は翳白暗の言葉を遮って、翳黒明が叫んだ。
「宮主なんてもういない。翳冥宮は終わりだ!」
「なんで? 僕が宮主になれば解決するでしょ?」
翳黒明は翳白暗を見る。
翳冥宮に来る前までは様々なことを考えていた。これからのこと、翳冥宮のこと。それに、翳白暗のこと。
――でも、もうどうでもいい。
もはや翳白暗の罪をこれ以上増やすことはできない。兄である己が翳白暗の暴挙を終わらせなければならないのだ。
涙を拭い、翳黒明は吼えた。
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