冷血

あとみく

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侵入2

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 どうしても食欲はわかず、ビタミン剤とカルシウムのタブレットを噛んだ。指を曲げたときに再び皮膚が割れたが、覚の真意の不明さは己自身のそれの前に掠れた。――「どの工場にする」、だって? 憤懣やるかたないくたびれた男だということに異論はないが、窃盗や器物損壊等の犯罪行為を行えばそれが晴れるかといわれれば、答えは断固ノーだ。所詮、復讐したい個人などおらず、この社会自体を否定したとて意味はなく、あの戦争のようなものを引き起こしてすべての幕引きをつけることが出来るわけもないのだから、結果は八方塞がり、それ以上の答えはなかった。そもそもあらかじめ袋小路であるところに生を受けた、否、生というもの自体が袋小路を内包しているのだから、それでもやり過ごしながら口をつぐみ、腹に沈めて生きていくのが生き物の本分というところだろう。
 ――本当に、そうなのだろうか。
 抜け道は皆無か。万に一つの突然変異すらないのか。
 生きとし生けるものみなすべて、「何のために生きている」というどん詰まりの部屋で立ち往生するしかないのか。それを考えるか、考えないかという選択肢しか与えられていないのだろうか。考えるアタマがある俺は、それがあるだけマシなのだろうか――。
 夜道の風は春かと思うような生暖かさで、視界の刺激が少ない分、学の思考は滞りなく進み、景色は順調に後ろへと遠ざかっていった。
 そうしてひたすらに足を動かし、相変わらず無駄な思考群は何の結論も導かなかったが、しかしいつの間にか、今までどっかと居座っていた胸焼けや動悸が戻ってこないことに気がついた。
 ――落ち着いている?
 落ち着く要素などどこにもないのに?
 学はそうして、自らの伸びきったゴムのような心の内が、まだ自分で事態を分解し、何かを変化させるだけの力と機能を有していたことにちょっと驚いた。思考の内側は学自身にも解析不能なブラックボックスの器官で、心拍に直結していることから学はそれを心臓と同義にみなす節もあるのだが、学の論理でいえばそれは思考以前の生の感情であるはずで、またそれそのものが<己>であるはずだった。
 ――己は己に隠されているのか。
 何と不可解な構造だ。いや、しかし得てして暗号化を伴うシステムはそのように機能しているのかもしれない。どんな作業にも一次と二次の要員がいて、その階層をいくつも経ることでエラー率を下げている。心と思考と身体機能という階層でどんなエラーを防いでいるのか、防げているのか不明ではあるが、学はその説でひとまず納得した。なれば心を解析する必要はないし、学に出来るのは思考という二次チェックだけだ。万一心が学を通さず直接に身体を動かすというのであれば、それはもう学の範疇にはない。だから、めくれた皮膚と肉との間にあのざらついた舌がゆっくり押し進んで来たとき、あれは、学の心が直接口を開いたのだ。・・・だとすれば、何はともあれあの言葉が学の本音ということであり、学の枠外のこととはいえ、それは己以外の何者でもない――。
 ――枠外?
 ここで、<枠外>が、顔を出すのか。
 胸の真ん中、この皮膚と肉とあばらの内側に、まずひとつめの<枠外>を抱えていたということか。
 一瞬、視界の両側から暗闇が食い込んで、足を踏みしめた。学は歩を緩めて両手で目元をほぐし、そして浮かんだのは、覚のまっすぐな瞳だった。
 あの男が何を考えているか分からないが、他人どころか自分の心すら分からないのなら同じことだろう。鳥になって上から見たらば、どちらの個体がどちらへ動くかというだけの差だ。ふと、心というのが実はすべて同じ集中サーバに入っている集合的無意識で、しかし学たちは自らをスタンドアロンと思って動いているのなら笑えるな、と思った。だったら身体の機構だけでも大事にしようと思い、学はポケットを探った。鉄分タブレットが残っていたと思ったがなく、あったのは必須アミノ酸カプセルだった。
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