冷血

あとみく

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ボート1

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 新たに分かったことはいくつかある。
 一つ、学は俺よりずっと蟻について詳しいが、実際のところは犬の社会においても推測の域を出ないことが多いということ。一つ、蟻は太古の昔から存在したが、今のようになったのは人間が滅んでからだということ。一つ、コーソクドーロ他、すべての建造物およびその技術を確立したのは人間であり、蟻はそれを引き継いだものの、もっぱら補修と維持しかしていないということ。つまり、まともなベンチと錆びた柵が混在しているのはあくまで蟻の補修範囲次第だったわけで、それが不自然さや歴史に対する曖昧さを生んでいたわけだ。かつての戦争云々、人類云々のどれにも確信と確証が持てないまま、しかし結局は日々あちこちで働いている犬たちが何かをしているんだろうと、思うともなくぼんやり思っていた節がある俺は、世界に対する認識の圧倒的な空白を認めざるを得なかった。
 しかし、だからといってそこにあったのは息をのむような驚異でも、めまいのするような幻惑でもなく、単なる<社会>の延長のようなものだった。日常、反復、仕事、労働――。
 ――面白くないな。
 ふいに訪れる虚無感と諦め、しかし次の瞬間には、それにめげず必死に食らいつこうとする打たれ強さが顔をもたげる。ベールに閉ざされた箱を開けるたびに感じてきたそれは未だに有効で、ならば次の箱を見つけるだけだ。
「何だか、雲行きがあやしいな」
 学の声で空を見上げると確かに、薄オレンジの背景に濃い灰色の雲が流れており、今朝方の快晴はどこへいったという感じになっていた。
「雨が来るかな。予報は――ああ、見なかった」
 学はうなだれたが、俺は「降らないだろ」と言った。湿気のにおいがしないし、気圧もおかしくない。たぶん風だけだろう。
「本当に? きみ、見たのか?」
「予報? それなら見たことないね。大体、見たら楽しくないんだ」
「・・・楽しいって何だ」
 学は、本当に<楽しい>という感情を忘れてしまったみたいに訊いた。ほんの数日ネットワークを見ないだけで冬の嵐も忘れてしまえるのだから、いろいろなものが保証されている人種は気楽なものだ。いや、学はその<枠外>へと出たばかりなのだったか。
「今年は風がいつもより強いよ。・・・そういやさ、昔、ガキの頃、傘で飛ぼうとしたりしたろ。台風の時とかに」
「――いいや」
「えっ、どうして?」
「どうしてって、――外の何か、植え木やら何やら、倒れるんじゃないかって、布団で耳をふさいでいた。いろいろ、無駄に、無理矢理に、利益もないのに、力ずくでもぎとるような行為に賛同できなくて」
 俺は一度痙攣したように目をつぶり、呆れた。行為? 賛同? 犬というのは親の腹にいるときから、自分と風を同等だとでも教えられて生まれてくるのか?
「・・・怖かっただけだろ?」
「大きな音は嫌いだ」
「ああ、それでベルにもビビった?」
「ビビったんじゃない。迅速に行動しただけだ」
「・・・ふうん」
 そうして特にあてもなく道沿いを歩き、先ほどのボートが見える通りに出た。水路の川幅は狭く、建物にはさまれて海風がさらに強く吹き込んでいる。ボートが不規則に軋んで、心地よい音を立てた。ゆっくりでも気持ちがいいし、夜半にかけて吹き荒れるのも心が躍る。学にはこれも耳障りなのだろうか。
 ――吹き荒れる・・・?
「――マナブさん、やっぱりこれに乗ろうか」
「え?」
 俺は声を落として肩を寄せた。周囲に気を配りながら、むしろここでオマワリなんかとすれ違えばいいのにとも思いつつ。
「この分だと今夜は荒れるよ。そしたらちょっとやそっとの音はみんな掻き消される。人の庭に忍び込むのも、船を出すのもやりやすくなる。どうかね」
「・・・どうって」
「行こうよ」
 ほれ、どこに迷うことがある。太平洋に漕ぎ出すわけでなし、ほんの少しのボート遊びだ。コーソクも倉庫も俺が望む<お宝>じゃないかもしれないが、それでも楽しいことを見つけてただ遊べばいい。そのうちにいろんなことを忘れて、次の箱が現れるかもしれない。そうして俺はまた飛び石を跳ねていく。いい加減、ゴールに着きたい欲求不満が雪だるまよりでかくなりながら。

 本当にオマワリが来たら確実に職質をかけられるだろう建物の陰で並んで乾燥肉を食い、風と闇と街の静まり具合を見計らった。途中で一度、忘年会とやらの帰りなのか、酔っぱらいの一団らしきわめき声がこちらまで飛んできて、いわく、お前さ、だから女は男を見る目がないんだよ。自分でどうしょもないやつばっか選んで、メソメソ泣きやがってさ。いや、でもそんな相談受けるなんてすごいじゃないすか。信用されてんすよ。あのね、だから馬鹿だっていうわけ。こっちは見境なく食っちゃって、あとは捨てるだけなんだから・・・アハハ! どこまでが後輩への見栄か分かりはしないが、こちらはアハハの笑いも出なかった。異性を見下し、同性に虚勢を張るのは息をするより自然だとしても、いったい他にやることはないのか。聞いていれば去年も一昨年も、たぶんウン万年前から同じ会話をしている。いい加減飽きないか。それ以上やることがなくて退屈しないのか。
 声のする方に顎をしゃくり、肩をすくめてみせると、学は宙を見つめたまま「ああ、うん」とうなずいた。
「うんって?」
「くだらないって言いたいんだろ?」
「そうさ」
「まともに聞くなよ。意味はないんだ」
「それは分かってる」
「ああいうことを言うのを<込みの>給料なんだよ。別に、肩を持つわけじゃないし、半分は本人の本性なんだろうが、いつの間にかみんなああなるんだ。誰それと誰それがどうしたって話題をみんなで一周させて、その一員であることの目的と意味とがごっちゃになる」
「あんたもそう?」
「いや、もっと、俺は更に下等だよ。それすらできなかったんだから」
「それ、上等とは思わないわけ」
 学はそれには答えず、ふんと薄く笑うにとどめた。俺なら何の根拠がなくとも自分を上等だと思うが。
「俺なら、集団には好きに言わしとくけどさ、一対一になったらどんなやつ相手でも、まさか、負ける気はしないね」
「へえ、威勢がいい」
「いや別に、タイマンのことじゃなくてさ。そうじゃなくて」
「要するに、自分のフィールドを張れるというわけだ」
「ううん――」
 俺が言いたかったのは、たとえどんなくだらないやつ相手でも俺の好奇心センサーは最低限動くし、そうとなればあとは箱を開けるお楽しみだということであって、学の言わんとする優劣づけみたいなことは眼中にないのだが、しかしよく考えてみれば、そこにそれほどの差はないのかもしれなかった。どちらにしても俺が楽しむ側で、相手が餌だ。
「きみは誰かと話すのにそれほど抵抗がないんだろうね。そのことは尊敬するし、美徳だと思う。俺などは、人を人とも思わないってやつで、たぶん人格や心じゃなく機構の一部としか思っていないんだ。いつの間にか周りの全員がアンドロイドと入れ替わっていて、気がつかないなんてSFがあるが、きっとまさにそうなんだろう」
「俺がロボットだって?」
「たとえだよ。でも、結局は機械と心とを見分ける術はない」
「――ううん、それは、見分けなきゃならんのか?」
「全員が機械なら何かを説明してまわる必要がなくなるし、あれこれ気を揉まなくて済む。でも疑わしいならしなくちゃならない」
「機械なら機械で、それらしさを楽しむまでだよ。楽しめりゃそれでいい。結局感じるのは自分なんだから」
「きみは今、楽しんでるのか?」
「うん、そうだね、きっとそう」
「そうか」
「これからもっと楽しくなるよ。なんたって俺、ボート乗りは初めてだ」
「・・・俺だってそんなにない。こんな風の中、本当に出せるんだろうか」
「不安はよそへ置いてさ、これが楽しいかもしれないって思ったら、まあ大体は楽しいもんだよ」
「前向きだな」
「いや、後ろ向きさ」
「なぜ」
「そりゃ、仕方なしに楽しくしてるからさ。こんな風な子ども騙しで楽しくするのは気晴らしと暇つぶしで、本当はそうじゃないものを待ってる。だからしばらくは楽しい時期が続くだろうよ」
 カシャ、カシャ、カシャン・・・カシャシャ・・・と、どこかの立入禁止の低い柱の鎖が金属音を響かせて、その音の間隔が広くなり、鎖が宙に浮く期間が長くなってきて、俺はそれを決行の合図とした。並んで路地を歩き、十字路では飛ばされそうになりながら、ボート事務所風の建物を目指す。俺が先に隣の一軒家の門扉にのぼり、学に手を貸しながら屋根伝いを行った。自分では聞こえない足音が屋内ではどう響いているか分からないが、多少のことでは、わざわざ窓を開けて確かめることもしないだろう。
 時折何度か学は身振り手振りでだめだとか危ないとかを俺に伝えてきたが、俺はうんうんうなずいて前を向き、すべて無視した。まったく、こんなことをするのに段取りも上手い下手もあるもんか。思うに、学が気にしているのは危険ではなくむしろこの期に及んで<体裁>ってやつで、それは俺が最も嫌うものの一つでもあった。俺だって誰かに見られながら下手をこくのは嫌だが、しかし、本当にそちらへ手を伸ばすのであれば、どんな目だろうとほんの少しでも気にかけたら終わりだし、そうしてはならない、そうするものではないという感覚は不思議に確固としたものだった。風や嵐や、巨大なもの、圧倒的なものは周りのすべてを吹き飛ばして俺をそこへ連れて行ってくれる。そのための準備と覚悟ならいつだってできている。さあ、裏庭には夕方までなかった何かの機材が積まれており、その上には飛び降りられない。向かい風の中、その奥まで飛ぶしかない。飛べ、飛べ、今だ。待ち受けるのが何だろうが、この体で味わってやれ!
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