冷血

あとみく

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ボート2

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 飛び降りた覚の体がふわりと浮いたところで網膜の映像は一瞬止まり、それからスローモーションで風に流され、モーターだかバーベキューセットだかみたいな山を薙ぎ倒した――のも束の間、まるでドミノ倒しみたいに横のそれが手前にゆっくりと倒れ、上からのぞきこんでいた学はじっとそれを見守ることしかできなかった。暴風のせいで音も振動もつかめないが、物体の位置と力学的な経験則からして、それは間違いなく建物の窓を打っていた。
 学は自身も飛び降りて覚を助け起こすのと、住民か管理者みたいなのに見つかるリスクを天秤にかけ、結局後者を取った。ドミノ倒しに気を取られている間に覚の姿は消えており、ならば命に関わるような怪我もなかったのだろうと考える。最悪、こんな場面であっても猫だけならばどうにかこうにかやり過ごせるだろう。猫に賠償金を請求する輩はいない。
 じっと身を緊張させながら、焦りとともに学は自分を急かし、いくつかの可能性を考えた。一つ、ここが夜間は無人の管理事務所とかなら何事もなく計画は進む。一つ、とはいえ近隣の住民が起き出しては厄介だが、少なくとも外に音は響いていない。一つ、万が一ここの居住者が異変に気づき、起き出したとしても、風で物が倒れたと思うだろうから、覚が見つからなければ振り出しに戻るだけ。一つ、更に万が一、覚が見つかったとしても、持ち前の演技力で何とか切り抜けるだろう――。
 ――のぞきこむ視界が、オレンジに光った。
 理解するのに一瞬の間を要したが、ああ、電気が点いたのだ。ならば選択肢はどれだ。今すぐ取るべき行動は何だ。覚がすでに逃げていればそれでよし。住民が出てこなければそれでよし。どちらにしろ、今下手に動いて学が慣れない屋根から落ちたりしたら目も当てられない。猫ならできる言い訳も学には不可能だ――。
 息をひそめて、明かりが消えるのを待つ。この時ばかりは学も強風をありがたく思い、止むなと願った。風は学の息遣いも、出っ張りをつかむ爪の軋みも、においさえ掻き消してくれる。まさか屋根の上に誰かいるとは思うまいし、火事でも起きない限り、どこか別のところから目ざとく見られて通報されることもないだろう。じっと耐えるだけなど、要求されるタスクが少ないから一晩中だってできる。あの酔っ払いたちのように世間をうまく渡り、いろいろなことを同時並行でやりこなすことはできなかったが、もうあそこへは戻らないのだから、自分の道を行くしかない。
「――おい!」
 学は不思議と、さほどどきりともせず乾いた気持ちで眼球をさまよわせた。空耳ではない。確かに中年男の怒声がした。
「何やってんだ! 何やってんだって訊いてんだよ!」
 外に出てくる影が見え、学は急いで身を引いた。声は続かないが、男が学に気づき、上に向かって叫んだようには聞こえなかった。だとすれば見つかったのは覚だが、やはり腰を打つか骨を折るかして、動けなくなっていたのだろうか。それにしても最悪の結果だ。わざわざこんな最悪に向けて発進することもなかった。どうすればよかったのだろう。強風のせいで見つかりにくいという案に、消極的にせよ賛成した自分がいるのは確かだし、一方的に覚を責められるものでもない。しかし、重ねて、それにしてもわざわざ、手伝いの婆さんや何かじゃなく、荒っぽそうな男が早速出てくることもないじゃないか?
「おい何とか言え! これやったのもお前か! どういうつもりだ!」
 ゆっくり、ぎりぎりまで首を伸ばしてのぞきこむと、寝巻き姿に何か細い棒状のものを持った男、その視線の先にはボート群、そのうちの小さな一艘に、闇に紛れる猫の影。
 どうするべきか、学は思考が止まるが、男の本能的なそれは止まることはなかった。一度屋内に消えたがすぐにそこから一本の光の筋が飛び、照らされた覚の両目がはっきりとそれを反射した。覚は取り乱す様子もなく、ただじっとしていた。
 男はこれ以上すごんでも無駄だと判断したようで、釣り竿らしきものを揺らして今度は直接的な脅しにかかった。狭く入り組んだ場所で猫を追い詰めるのは至難の業だが、相手は揺れる船の上、そこへ強くしなる竿を逆に持って振りかぶるか薙ぐかすれば、たとえ当たらずとも川に落としてしまえる。猫を訴えることはできないが、逆に、猫をどうしようが大した罪にもならない。
 覚が謝ってここを収め、学が始末をつけるとして、壊した物はいったいいくらだろうか。不法侵入、器物損壊、拘束、取り調べ、科料、いやその前に、身元確認、会社に連絡、男が一人砂を抱えて死んだ件――。
 この男にカネを握らせて、すべてをなかったことにできないか。
 覚は動かない。何かを目配せして知らせることも、助けを求めることも、学をおとりにして自分が逃げることもしない。
 さて、どうする。
 いや実際、握らせるようなカネやブツもないのだ。
 男が、竿をぐるりと振り回すようにして、その持ち手が右から左、そして男の腕いっぱいまでかかげられ、それは屋根の上の学の手が届くほどまでやってきた。これに打たれたら覚は痛いだろう。その肉の損傷は無駄な痛みであり、風で折られる木々と同様、天秤のマイナスに載せられるべきものだ。学は目の前ですっと離れかける黒い棒に手を伸ばし、目をつぶって後ろ足を蹴ると、あとはただ衝撃に備えた。いろいろな勘案をやり直すべき、という思いは宙に浮いたまま学だけが重力に従い、膝から男の肩に突っ込むような格好で落ちて、男は手をつくのもままならないで顔から地面にベしゃんと倒れた。
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