27 / 35
ボート2
しおりを挟む
飛び降りた覚の体がふわりと浮いたところで網膜の映像は一瞬止まり、それからスローモーションで風に流され、モーターだかバーベキューセットだかみたいな山を薙ぎ倒した――のも束の間、まるでドミノ倒しみたいに横のそれが手前にゆっくりと倒れ、上からのぞきこんでいた学はじっとそれを見守ることしかできなかった。暴風のせいで音も振動もつかめないが、物体の位置と力学的な経験則からして、それは間違いなく建物の窓を打っていた。
学は自身も飛び降りて覚を助け起こすのと、住民か管理者みたいなのに見つかるリスクを天秤にかけ、結局後者を取った。ドミノ倒しに気を取られている間に覚の姿は消えており、ならば命に関わるような怪我もなかったのだろうと考える。最悪、こんな場面であっても猫だけならばどうにかこうにかやり過ごせるだろう。猫に賠償金を請求する輩はいない。
じっと身を緊張させながら、焦りとともに学は自分を急かし、いくつかの可能性を考えた。一つ、ここが夜間は無人の管理事務所とかなら何事もなく計画は進む。一つ、とはいえ近隣の住民が起き出しては厄介だが、少なくとも外に音は響いていない。一つ、万が一ここの居住者が異変に気づき、起き出したとしても、風で物が倒れたと思うだろうから、覚が見つからなければ振り出しに戻るだけ。一つ、更に万が一、覚が見つかったとしても、持ち前の演技力で何とか切り抜けるだろう――。
――のぞきこむ視界が、オレンジに光った。
理解するのに一瞬の間を要したが、ああ、電気が点いたのだ。ならば選択肢はどれだ。今すぐ取るべき行動は何だ。覚がすでに逃げていればそれでよし。住民が出てこなければそれでよし。どちらにしろ、今下手に動いて学が慣れない屋根から落ちたりしたら目も当てられない。猫ならできる言い訳も学には不可能だ――。
息をひそめて、明かりが消えるのを待つ。この時ばかりは学も強風をありがたく思い、止むなと願った。風は学の息遣いも、出っ張りをつかむ爪の軋みも、においさえ掻き消してくれる。まさか屋根の上に誰かいるとは思うまいし、火事でも起きない限り、どこか別のところから目ざとく見られて通報されることもないだろう。じっと耐えるだけなど、要求されるタスクが少ないから一晩中だってできる。あの酔っ払いたちのように世間をうまく渡り、いろいろなことを同時並行でやりこなすことはできなかったが、もうあそこへは戻らないのだから、自分の道を行くしかない。
「――おい!」
学は不思議と、さほどどきりともせず乾いた気持ちで眼球をさまよわせた。空耳ではない。確かに中年男の怒声がした。
「何やってんだ! 何やってんだって訊いてんだよ!」
外に出てくる影が見え、学は急いで身を引いた。声は続かないが、男が学に気づき、上に向かって叫んだようには聞こえなかった。だとすれば見つかったのは覚だが、やはり腰を打つか骨を折るかして、動けなくなっていたのだろうか。それにしても最悪の結果だ。わざわざこんな最悪に向けて発進することもなかった。どうすればよかったのだろう。強風のせいで見つかりにくいという案に、消極的にせよ賛成した自分がいるのは確かだし、一方的に覚を責められるものでもない。しかし、重ねて、それにしてもわざわざ、手伝いの婆さんや何かじゃなく、荒っぽそうな男が早速出てくることもないじゃないか?
「おい何とか言え! これやったのもお前か! どういうつもりだ!」
ゆっくり、ぎりぎりまで首を伸ばしてのぞきこむと、寝巻き姿に何か細い棒状のものを持った男、その視線の先にはボート群、そのうちの小さな一艘に、闇に紛れる猫の影。
どうするべきか、学は思考が止まるが、男の本能的なそれは止まることはなかった。一度屋内に消えたがすぐにそこから一本の光の筋が飛び、照らされた覚の両目がはっきりとそれを反射した。覚は取り乱す様子もなく、ただじっとしていた。
男はこれ以上すごんでも無駄だと判断したようで、釣り竿らしきものを揺らして今度は直接的な脅しにかかった。狭く入り組んだ場所で猫を追い詰めるのは至難の業だが、相手は揺れる船の上、そこへ強くしなる竿を逆に持って振りかぶるか薙ぐかすれば、たとえ当たらずとも川に落としてしまえる。猫を訴えることはできないが、逆に、猫をどうしようが大した罪にもならない。
覚が謝ってここを収め、学が始末をつけるとして、壊した物はいったいいくらだろうか。不法侵入、器物損壊、拘束、取り調べ、科料、いやその前に、身元確認、会社に連絡、男が一人砂を抱えて死んだ件――。
この男にカネを握らせて、すべてをなかったことにできないか。
覚は動かない。何かを目配せして知らせることも、助けを求めることも、学をおとりにして自分が逃げることもしない。
さて、どうする。
いや実際、握らせるようなカネやブツもないのだ。
男が、竿をぐるりと振り回すようにして、その持ち手が右から左、そして男の腕いっぱいまでかかげられ、それは屋根の上の学の手が届くほどまでやってきた。これに打たれたら覚は痛いだろう。その肉の損傷は無駄な痛みであり、風で折られる木々と同様、天秤のマイナスに載せられるべきものだ。学は目の前ですっと離れかける黒い棒に手を伸ばし、目をつぶって後ろ足を蹴ると、あとはただ衝撃に備えた。いろいろな勘案をやり直すべき、という思いは宙に浮いたまま学だけが重力に従い、膝から男の肩に突っ込むような格好で落ちて、男は手をつくのもままならないで顔から地面にベしゃんと倒れた。
学は自身も飛び降りて覚を助け起こすのと、住民か管理者みたいなのに見つかるリスクを天秤にかけ、結局後者を取った。ドミノ倒しに気を取られている間に覚の姿は消えており、ならば命に関わるような怪我もなかったのだろうと考える。最悪、こんな場面であっても猫だけならばどうにかこうにかやり過ごせるだろう。猫に賠償金を請求する輩はいない。
じっと身を緊張させながら、焦りとともに学は自分を急かし、いくつかの可能性を考えた。一つ、ここが夜間は無人の管理事務所とかなら何事もなく計画は進む。一つ、とはいえ近隣の住民が起き出しては厄介だが、少なくとも外に音は響いていない。一つ、万が一ここの居住者が異変に気づき、起き出したとしても、風で物が倒れたと思うだろうから、覚が見つからなければ振り出しに戻るだけ。一つ、更に万が一、覚が見つかったとしても、持ち前の演技力で何とか切り抜けるだろう――。
――のぞきこむ視界が、オレンジに光った。
理解するのに一瞬の間を要したが、ああ、電気が点いたのだ。ならば選択肢はどれだ。今すぐ取るべき行動は何だ。覚がすでに逃げていればそれでよし。住民が出てこなければそれでよし。どちらにしろ、今下手に動いて学が慣れない屋根から落ちたりしたら目も当てられない。猫ならできる言い訳も学には不可能だ――。
息をひそめて、明かりが消えるのを待つ。この時ばかりは学も強風をありがたく思い、止むなと願った。風は学の息遣いも、出っ張りをつかむ爪の軋みも、においさえ掻き消してくれる。まさか屋根の上に誰かいるとは思うまいし、火事でも起きない限り、どこか別のところから目ざとく見られて通報されることもないだろう。じっと耐えるだけなど、要求されるタスクが少ないから一晩中だってできる。あの酔っ払いたちのように世間をうまく渡り、いろいろなことを同時並行でやりこなすことはできなかったが、もうあそこへは戻らないのだから、自分の道を行くしかない。
「――おい!」
学は不思議と、さほどどきりともせず乾いた気持ちで眼球をさまよわせた。空耳ではない。確かに中年男の怒声がした。
「何やってんだ! 何やってんだって訊いてんだよ!」
外に出てくる影が見え、学は急いで身を引いた。声は続かないが、男が学に気づき、上に向かって叫んだようには聞こえなかった。だとすれば見つかったのは覚だが、やはり腰を打つか骨を折るかして、動けなくなっていたのだろうか。それにしても最悪の結果だ。わざわざこんな最悪に向けて発進することもなかった。どうすればよかったのだろう。強風のせいで見つかりにくいという案に、消極的にせよ賛成した自分がいるのは確かだし、一方的に覚を責められるものでもない。しかし、重ねて、それにしてもわざわざ、手伝いの婆さんや何かじゃなく、荒っぽそうな男が早速出てくることもないじゃないか?
「おい何とか言え! これやったのもお前か! どういうつもりだ!」
ゆっくり、ぎりぎりまで首を伸ばしてのぞきこむと、寝巻き姿に何か細い棒状のものを持った男、その視線の先にはボート群、そのうちの小さな一艘に、闇に紛れる猫の影。
どうするべきか、学は思考が止まるが、男の本能的なそれは止まることはなかった。一度屋内に消えたがすぐにそこから一本の光の筋が飛び、照らされた覚の両目がはっきりとそれを反射した。覚は取り乱す様子もなく、ただじっとしていた。
男はこれ以上すごんでも無駄だと判断したようで、釣り竿らしきものを揺らして今度は直接的な脅しにかかった。狭く入り組んだ場所で猫を追い詰めるのは至難の業だが、相手は揺れる船の上、そこへ強くしなる竿を逆に持って振りかぶるか薙ぐかすれば、たとえ当たらずとも川に落としてしまえる。猫を訴えることはできないが、逆に、猫をどうしようが大した罪にもならない。
覚が謝ってここを収め、学が始末をつけるとして、壊した物はいったいいくらだろうか。不法侵入、器物損壊、拘束、取り調べ、科料、いやその前に、身元確認、会社に連絡、男が一人砂を抱えて死んだ件――。
この男にカネを握らせて、すべてをなかったことにできないか。
覚は動かない。何かを目配せして知らせることも、助けを求めることも、学をおとりにして自分が逃げることもしない。
さて、どうする。
いや実際、握らせるようなカネやブツもないのだ。
男が、竿をぐるりと振り回すようにして、その持ち手が右から左、そして男の腕いっぱいまでかかげられ、それは屋根の上の学の手が届くほどまでやってきた。これに打たれたら覚は痛いだろう。その肉の損傷は無駄な痛みであり、風で折られる木々と同様、天秤のマイナスに載せられるべきものだ。学は目の前ですっと離れかける黒い棒に手を伸ばし、目をつぶって後ろ足を蹴ると、あとはただ衝撃に備えた。いろいろな勘案をやり直すべき、という思いは宙に浮いたまま学だけが重力に従い、膝から男の肩に突っ込むような格好で落ちて、男は手をつくのもままならないで顔から地面にベしゃんと倒れた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる