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片道切符1
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偶然か狙ったものか、学は不器用に地面でぐるんと前に転がって多少は衝撃を逃し、打った肘を押さえながら気丈に立ち上がった。俺が見る限り、倒れた男のダメージは頭よりも振り上げていた右肩にありそうで、少々変な角度で肘を上げたまま固まってしまっていた。左手が自由だったならもう少しマシな倒れ方をしただろうが、俺を照らした懐中電灯が今はそいつの額を光らせていた。
立ち上がったはいいもののその場でまだうろうろしている学に「早く! 乗れよ!」と声をかけたが、聞こえているのかいないのか、学はこちらを見ることすらしなかった。しかしそのまま見ていると、学は倒れた機材をウンウン言いながらご丁寧に起こしたかと思えば、その脚をちょうどの隙間に差し込んで、男の頭の真上にしつらえたのだった。その様はまるで箱に入れられて首を切られる奇術のごとくで、俺は思わず噴き出してしまった。学にそんな遊び心があるとも思えないから、たぶん起き上がるのを少しでも遅らせるための障害物のつもりだろう。実際、手さえ利けばそこから頭を引き抜くのは造作もないことだが、肩が脱臼でもしていればその限りではない。俺なら力任せにその重そうな機材で頭を叩き潰して終わるところだが、学はそら、やっぱり間抜けにも他の倒れた機材を律儀に元の場所に戻して、あとは蒼白な顔でこちらへ走ってくる。
「早く!」
「覚、大丈夫か」
「いいから漕げよ!」
気分はすこぶる良かった。今はとにもかくにも、さっさと先に進みたい。他の馬鹿馬鹿しい邪魔が入っても興ざめだし、スピードも感じたかった。向かい風のおかげでその趣がなくはないが、やはり移動してこその乗り物だ。早くどこかへ行きたい。このまま気持ちを研ぎ澄まして、何かが見たい。
街灯の点在する水路を風に流されるように闇雲に抜けてしまうと、あとは、今までに見たことのない視点から見る光景だった。フジツボだか蠣殻だかが張り付いたような岸壁、知っている建物の、初めて見る角度と距離感。
風が来て、波が来て、圧倒的な水の量の恐怖が俺を包み、腹の底からじわじわ、ふつふつ、泡立つ何かから硫黄みたいなガスが弾けた。そして俺はそんな俺の自由を祝って、本当に久方ぶりに、ウヤオーーーーウ! と鳴いた。
「覚、覚、黙ってくれ、こっちじゃないんだ、反対側だ、こっちは外海に出る、俺はどっちに漕ぐべきだ!」
焦りまくった学がほとんどもらしそうな顔で訊くが、俺の叫びを遮らなかったのでよしとした。
「どっちにでも漕ぎなよ、もう、太平洋へ出たっていい」
「馬鹿を言うな、今のところを引き返すわけにはいかないし、でも、こっちから回り込めたのかどうか、地図で、ええと」
「何を言ってるんだよ。ほら、あれだ、あれが俺たちの道だ」
俺がすっと仰々しくその<コーソク>を指さしてみせると、学は無表情になって黙り、呆けた。それから頭を右にひねってかしげ、芝居みたいに眉根を寄せて、「いいや、だから逆だろう?」 ああ、見れば確かにここの川幅は百メートルどころではない。遠くに明かりは見えるが、向こう岸は見えなかった。学はすっかり漕ぐ手を止め、俺の手も所在無いまま下りた。そうしている間にもおんぼろボートは数メートル流されていき、二人とも、時折顔をひくつかせながら風に吹かれた。
風が吹き、川が流れ、ボートは進んだが、俺たちの時間は止まっていた。思考も感情もどこへもいかず、取っ掛かりさえなかった。そこにあるのはただ闇の中の大量の水で、もしそこに沈むとなったら怖かったが、その恐怖が臨界点を超えて溢れることはなかった。なぜかしら、そこは<元のところ>という感じがした。結局、どんなに目の前にいろいろなものが見えたって、俺たちは本当はこうして圧倒的な恐ろしいものに囲まれていて、それを見ないように気を紛らわしているだけだ。でも、やっぱり真実はこれであって、ほら、それは臨場感のあるスリルでも強大な敵を前にしたときのパニックでもなく、ああやっぱりかという諦めや既視感に近い。そう思ったら、しかしふいに、目の前に誰か自分と違う存在がいるのが目に入り、妙に安心した。学いわく俺はアンドロイドの自動人形なんだそうだが、そんなことはどうでもいい。なぜならどっちにしろ死ぬときは――否、今この時だって、本当はひとりだからだ。
静かに、学がオールを取り、水へ入れた。
熱したナイフをバターに入れるようなその挿し入れ方の、まるで芸術的なその対比の表現に、目の前が少しぐらぐらした。ああ、この世界の質感! 質感! 物体を、現実を、虚構をも超えて俺に迫り来るそれを、古代エジプトの先祖たちも感じていただろうか。だとすればいったい、俺の中の何がそれを受け取るのだろう。彼らから受け継いでいる鋳型でもあるのだろうか。
やがて俺の意識は学とオールと、ボートとその周辺まで広がり、少し顔を上げて空を見た。
行き過ぎたボートが戻り、視界をコーソクの裏側のざらついた影が遮る。俺たちは水の上にいて、文明とも呼べないようなボート――それでも自分ひとりで作るとなれば、その材質すら分からないような物体に乗り込んで、コーソクの影の道を進んでいる。太すぎて感覚的に気持ち悪さすらもよおす柱の間を抜け、いったいどうやってここにこの柱を立てることができたのか、想像さえつかないことに薄い身震いが出る。
「マナブさん、あんた、怪我は」
「――打ち身だろうと思う。たぶん、それ以上ではない。・・・きみの方は」
口を開いてみたものの、言葉は続かなかった。何度か顔をこすり、目を逸らして黙っていると、それを変な風にとったものか、学はゆっくりとこちらに手を伸ばし、俺の肩から背をひと撫ぜした。俺はきっとその目を見たが、それがまるで本当に、物を見るような乾き方だったので、思うより先に喉から甘えた声が漏れた。なあ、俺は誰かから可愛がられるよりも、まるで存在すらしないって風に放っておかれるほうが好きなんだって、知ってたか?
そうして笑いが漏れたら、学も何百年ぶりかという高笑いをした。大口を開けてのけぞりかえり、腹を抱えて、水面を叩いて。ここでは誰にも届くまい、さあ歌え、さあ騒げ。ああ、異界など目の前にあったのだ。門番を倒し、地図に載らぬ水の道を一里も漕げば、アンドロイドとケモノ一匹がそれ<枠外>だと大騒ぎ――アハハ!
立ち上がったはいいもののその場でまだうろうろしている学に「早く! 乗れよ!」と声をかけたが、聞こえているのかいないのか、学はこちらを見ることすらしなかった。しかしそのまま見ていると、学は倒れた機材をウンウン言いながらご丁寧に起こしたかと思えば、その脚をちょうどの隙間に差し込んで、男の頭の真上にしつらえたのだった。その様はまるで箱に入れられて首を切られる奇術のごとくで、俺は思わず噴き出してしまった。学にそんな遊び心があるとも思えないから、たぶん起き上がるのを少しでも遅らせるための障害物のつもりだろう。実際、手さえ利けばそこから頭を引き抜くのは造作もないことだが、肩が脱臼でもしていればその限りではない。俺なら力任せにその重そうな機材で頭を叩き潰して終わるところだが、学はそら、やっぱり間抜けにも他の倒れた機材を律儀に元の場所に戻して、あとは蒼白な顔でこちらへ走ってくる。
「早く!」
「覚、大丈夫か」
「いいから漕げよ!」
気分はすこぶる良かった。今はとにもかくにも、さっさと先に進みたい。他の馬鹿馬鹿しい邪魔が入っても興ざめだし、スピードも感じたかった。向かい風のおかげでその趣がなくはないが、やはり移動してこその乗り物だ。早くどこかへ行きたい。このまま気持ちを研ぎ澄まして、何かが見たい。
街灯の点在する水路を風に流されるように闇雲に抜けてしまうと、あとは、今までに見たことのない視点から見る光景だった。フジツボだか蠣殻だかが張り付いたような岸壁、知っている建物の、初めて見る角度と距離感。
風が来て、波が来て、圧倒的な水の量の恐怖が俺を包み、腹の底からじわじわ、ふつふつ、泡立つ何かから硫黄みたいなガスが弾けた。そして俺はそんな俺の自由を祝って、本当に久方ぶりに、ウヤオーーーーウ! と鳴いた。
「覚、覚、黙ってくれ、こっちじゃないんだ、反対側だ、こっちは外海に出る、俺はどっちに漕ぐべきだ!」
焦りまくった学がほとんどもらしそうな顔で訊くが、俺の叫びを遮らなかったのでよしとした。
「どっちにでも漕ぎなよ、もう、太平洋へ出たっていい」
「馬鹿を言うな、今のところを引き返すわけにはいかないし、でも、こっちから回り込めたのかどうか、地図で、ええと」
「何を言ってるんだよ。ほら、あれだ、あれが俺たちの道だ」
俺がすっと仰々しくその<コーソク>を指さしてみせると、学は無表情になって黙り、呆けた。それから頭を右にひねってかしげ、芝居みたいに眉根を寄せて、「いいや、だから逆だろう?」 ああ、見れば確かにここの川幅は百メートルどころではない。遠くに明かりは見えるが、向こう岸は見えなかった。学はすっかり漕ぐ手を止め、俺の手も所在無いまま下りた。そうしている間にもおんぼろボートは数メートル流されていき、二人とも、時折顔をひくつかせながら風に吹かれた。
風が吹き、川が流れ、ボートは進んだが、俺たちの時間は止まっていた。思考も感情もどこへもいかず、取っ掛かりさえなかった。そこにあるのはただ闇の中の大量の水で、もしそこに沈むとなったら怖かったが、その恐怖が臨界点を超えて溢れることはなかった。なぜかしら、そこは<元のところ>という感じがした。結局、どんなに目の前にいろいろなものが見えたって、俺たちは本当はこうして圧倒的な恐ろしいものに囲まれていて、それを見ないように気を紛らわしているだけだ。でも、やっぱり真実はこれであって、ほら、それは臨場感のあるスリルでも強大な敵を前にしたときのパニックでもなく、ああやっぱりかという諦めや既視感に近い。そう思ったら、しかしふいに、目の前に誰か自分と違う存在がいるのが目に入り、妙に安心した。学いわく俺はアンドロイドの自動人形なんだそうだが、そんなことはどうでもいい。なぜならどっちにしろ死ぬときは――否、今この時だって、本当はひとりだからだ。
静かに、学がオールを取り、水へ入れた。
熱したナイフをバターに入れるようなその挿し入れ方の、まるで芸術的なその対比の表現に、目の前が少しぐらぐらした。ああ、この世界の質感! 質感! 物体を、現実を、虚構をも超えて俺に迫り来るそれを、古代エジプトの先祖たちも感じていただろうか。だとすればいったい、俺の中の何がそれを受け取るのだろう。彼らから受け継いでいる鋳型でもあるのだろうか。
やがて俺の意識は学とオールと、ボートとその周辺まで広がり、少し顔を上げて空を見た。
行き過ぎたボートが戻り、視界をコーソクの裏側のざらついた影が遮る。俺たちは水の上にいて、文明とも呼べないようなボート――それでも自分ひとりで作るとなれば、その材質すら分からないような物体に乗り込んで、コーソクの影の道を進んでいる。太すぎて感覚的に気持ち悪さすらもよおす柱の間を抜け、いったいどうやってここにこの柱を立てることができたのか、想像さえつかないことに薄い身震いが出る。
「マナブさん、あんた、怪我は」
「――打ち身だろうと思う。たぶん、それ以上ではない。・・・きみの方は」
口を開いてみたものの、言葉は続かなかった。何度か顔をこすり、目を逸らして黙っていると、それを変な風にとったものか、学はゆっくりとこちらに手を伸ばし、俺の肩から背をひと撫ぜした。俺はきっとその目を見たが、それがまるで本当に、物を見るような乾き方だったので、思うより先に喉から甘えた声が漏れた。なあ、俺は誰かから可愛がられるよりも、まるで存在すらしないって風に放っておかれるほうが好きなんだって、知ってたか?
そうして笑いが漏れたら、学も何百年ぶりかという高笑いをした。大口を開けてのけぞりかえり、腹を抱えて、水面を叩いて。ここでは誰にも届くまい、さあ歌え、さあ騒げ。ああ、異界など目の前にあったのだ。門番を倒し、地図に載らぬ水の道を一里も漕げば、アンドロイドとケモノ一匹がそれ<枠外>だと大騒ぎ――アハハ!
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