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片道切符2
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ごつごつとした岩場のような浅瀬に膝上まで浸かってボートを上げようとしたが、打った右肘と腕が痺れ、仕方なくロープを離してしまった。覚は「片道切符で」、なんて冷やかしながらもう届かないボートを見送ったが、学は、それと一緒に自分の中の何かも遠く離れてゆくような気になった。しかし、それが何なのかは分からなかった。
そのせいか、新天地のような、特に代わり映えもしないようなその緑地を歩く間も、ただ前をゆく覚のかろやかな足運びだけを見ていた。それは下にいけばずしりと重く、上にあがればスキップでも始めそうで、要するに浮かれている子どもなのだった。先ほどは腹に別々のものを抱えながらふたりして大笑いしたものの、学の方はまだ体半分、現実世界を引きずっている。いや、それは学の肩に重くのしかかっているのではなく、そうではなくて逆に、学が必死に、腕が抜けそうになりながら手放せないでいるだけかもしれなかった。
――そんなことを言われても、ただ白いキャンバスを前にして、描くものなど何もないのだ。
幼い頃から、どうして義務ばかりあるのだろう、この決まりにはどんな意味があるのだろうと標識まみれの道を歩いてきたが、己の手に残ったのはその義務や決まりからはみ出す悪者を軽蔑する心だけだった。そうして今、確固たる思想も意志も、きちんとした区切りさえもなくただ曖昧に、まさに流されるがまま盗んだボートで人の領地に分け入って、ではしっかりと己を見下すかといえば、それほどでもない、ただの夜中の散歩だった。
思い出したようにずきずきと痛む腕、濡れてべちゃべちゃと気持ちが悪い足元、風と寒さと静けさとでキンと締めつけられる耳周り。
そう、もう考えることすらあまりない中で、残っているのは今まで忘れていたようなこの身体感覚だけだった。それは覚に指の傷を舐められたときもふと思い出したのだったが、はは、まさかこのまま、満身創痍になるまで続くのだろうか。お前という存在はそのシケた思考に在らず、ただ一個の肉の塊なり、それを思い知れ、と。
ほんの少し歩調が緩み、覚との距離が開いた。泳げないと言って学の頭を踏んづけて岸へ上がり、係留を手伝おうともせず気の向くまま先を歩く自分勝手に、学は三分ほどを費やして攻撃とフォローのディベート合戦をやり、否定派と肯定派とバランス統合派で意見を取りまとめ、そしてその結果をぽいと捨てるとようやく本題に入った。
――右腕が痛い。
今出された答えはそれだけだった。腕が痛い。
それは先ほどのボートのロープに結びつき、ロープを離したときの苦々しい気持ちに結びつき、そして、あっと閃光が走り、死んだ男のことだ、と思った。
あの冷たい水の中に身体の全部が沈み、自ら抱えた砂の重みで溺死した男。
その事実、その小さな罪悪感、それが引き起こしているかもしれない、学の身許に対する重大な変化――。
そういうものを、少なくとも自分で引き受けておくために学は必死でロープをつかんでいたのだが、結局腕の痛みとともにそれを離した。否、激痛で離さざるを得なかったのではない。腕の痛みのせいにしているけれども、本当は、もう持っていたくないという思いと、責任感というか、ルールをまっとうするという自己満足がせめぎあって、最終的に前者が勝った――。それを後者が呆然と、納得したわけでもなく、後悔とともに見送った――先ほど自分の身に起きたのは、まさにそんな図なのだった。
覚は片道切符だと笑ったが、切符を持たないまま歩くなど、まさか、学には受け入れるどころか足が震えて、まぶたを開けることすら難しい捨て子以下の状態だった。それというのも既存のルール以外に自分の芯がないからで、それをやすやすと、生まれつき身体とともに持っているような覚にかなうはずもなく、だったら今は腕を押さえてただ歩くしかなかった。――強者に従うという既存のルール・・・などとまた理屈をこねそうになる頭を頭痛が押さえ込み、重くなるまぶたが覚の影をぼやけさせる。たぶん、これでいい。暗くなる視界の奥で、忘れていたような無意識がそう告げた。つまりこれは、何なのかといえば、「変化」なのだ。変化とは、自分が変わるということをあらゆる角度から受け止め、認めなければならないことだ。そのために必要なのは知識でも忍耐でも勇気でもなく、ただ天秤の変更だ。今までマイナスに傾いていたところをひっくり返し、それがプラスなのだと見てしまえば、生まれついた合理主義があとは損得勘定をやり直してくれる。
腕は、火がついたように燃えたり、感覚がなくなるほど冷えたりした。それを押さえる左腕だけがここにあり、腹と頭は先に行ってしまった。足だけが右足、左足、と体にリズムと衝撃を与え続けている。このままだと、誰がどこへ行くのか分かりはしない。これは夢か?
今は何時だ、会社はどうなった。遅刻か? 連絡は? もう辞めたのだったか? いや、ああ、まだ正式に辞めていないのだ、だから引っかかり続けていたんだ。しかし、<正式>なんて幻だ。俺はもう<枠外>にいる。だからそれが分かる。今までの人生を総括すれば、それはただ何もしない時間だった! 誰のせいにも、自分のせいにもせずそれはきっぱりと切り捨て、今死んで、生まれ変わったように明日を生きよう。それでは、いったん、サヨウナラ。
「おい、マナブさん、あんた今死ぬのか?」
「――え?」
「死ぬんなら言ってくれよ。経のひとつも上げるから」
「は――」
「骨折して熱でも出た? ねえ、とりあえず暗くなったらあっちの建物をまわってみようよ。ここの鴨はのろくて、もうちょっとでいけそうだ」
「それは、いったい、何の話だ?」
「腹が減っただろ?」
「ああ、うん、そうかもしれない。・・・よし、ふたりで狩ろうか。学生時代の実習以来だが」
無理だろ、くくっ、と覚はさわやかに笑った。こわごわ腕を持ち上げてみるとずきんと痛み、「いてえ」と言ったら、何かが軽くなった気がした。
そのせいか、新天地のような、特に代わり映えもしないようなその緑地を歩く間も、ただ前をゆく覚のかろやかな足運びだけを見ていた。それは下にいけばずしりと重く、上にあがればスキップでも始めそうで、要するに浮かれている子どもなのだった。先ほどは腹に別々のものを抱えながらふたりして大笑いしたものの、学の方はまだ体半分、現実世界を引きずっている。いや、それは学の肩に重くのしかかっているのではなく、そうではなくて逆に、学が必死に、腕が抜けそうになりながら手放せないでいるだけかもしれなかった。
――そんなことを言われても、ただ白いキャンバスを前にして、描くものなど何もないのだ。
幼い頃から、どうして義務ばかりあるのだろう、この決まりにはどんな意味があるのだろうと標識まみれの道を歩いてきたが、己の手に残ったのはその義務や決まりからはみ出す悪者を軽蔑する心だけだった。そうして今、確固たる思想も意志も、きちんとした区切りさえもなくただ曖昧に、まさに流されるがまま盗んだボートで人の領地に分け入って、ではしっかりと己を見下すかといえば、それほどでもない、ただの夜中の散歩だった。
思い出したようにずきずきと痛む腕、濡れてべちゃべちゃと気持ちが悪い足元、風と寒さと静けさとでキンと締めつけられる耳周り。
そう、もう考えることすらあまりない中で、残っているのは今まで忘れていたようなこの身体感覚だけだった。それは覚に指の傷を舐められたときもふと思い出したのだったが、はは、まさかこのまま、満身創痍になるまで続くのだろうか。お前という存在はそのシケた思考に在らず、ただ一個の肉の塊なり、それを思い知れ、と。
ほんの少し歩調が緩み、覚との距離が開いた。泳げないと言って学の頭を踏んづけて岸へ上がり、係留を手伝おうともせず気の向くまま先を歩く自分勝手に、学は三分ほどを費やして攻撃とフォローのディベート合戦をやり、否定派と肯定派とバランス統合派で意見を取りまとめ、そしてその結果をぽいと捨てるとようやく本題に入った。
――右腕が痛い。
今出された答えはそれだけだった。腕が痛い。
それは先ほどのボートのロープに結びつき、ロープを離したときの苦々しい気持ちに結びつき、そして、あっと閃光が走り、死んだ男のことだ、と思った。
あの冷たい水の中に身体の全部が沈み、自ら抱えた砂の重みで溺死した男。
その事実、その小さな罪悪感、それが引き起こしているかもしれない、学の身許に対する重大な変化――。
そういうものを、少なくとも自分で引き受けておくために学は必死でロープをつかんでいたのだが、結局腕の痛みとともにそれを離した。否、激痛で離さざるを得なかったのではない。腕の痛みのせいにしているけれども、本当は、もう持っていたくないという思いと、責任感というか、ルールをまっとうするという自己満足がせめぎあって、最終的に前者が勝った――。それを後者が呆然と、納得したわけでもなく、後悔とともに見送った――先ほど自分の身に起きたのは、まさにそんな図なのだった。
覚は片道切符だと笑ったが、切符を持たないまま歩くなど、まさか、学には受け入れるどころか足が震えて、まぶたを開けることすら難しい捨て子以下の状態だった。それというのも既存のルール以外に自分の芯がないからで、それをやすやすと、生まれつき身体とともに持っているような覚にかなうはずもなく、だったら今は腕を押さえてただ歩くしかなかった。――強者に従うという既存のルール・・・などとまた理屈をこねそうになる頭を頭痛が押さえ込み、重くなるまぶたが覚の影をぼやけさせる。たぶん、これでいい。暗くなる視界の奥で、忘れていたような無意識がそう告げた。つまりこれは、何なのかといえば、「変化」なのだ。変化とは、自分が変わるということをあらゆる角度から受け止め、認めなければならないことだ。そのために必要なのは知識でも忍耐でも勇気でもなく、ただ天秤の変更だ。今までマイナスに傾いていたところをひっくり返し、それがプラスなのだと見てしまえば、生まれついた合理主義があとは損得勘定をやり直してくれる。
腕は、火がついたように燃えたり、感覚がなくなるほど冷えたりした。それを押さえる左腕だけがここにあり、腹と頭は先に行ってしまった。足だけが右足、左足、と体にリズムと衝撃を与え続けている。このままだと、誰がどこへ行くのか分かりはしない。これは夢か?
今は何時だ、会社はどうなった。遅刻か? 連絡は? もう辞めたのだったか? いや、ああ、まだ正式に辞めていないのだ、だから引っかかり続けていたんだ。しかし、<正式>なんて幻だ。俺はもう<枠外>にいる。だからそれが分かる。今までの人生を総括すれば、それはただ何もしない時間だった! 誰のせいにも、自分のせいにもせずそれはきっぱりと切り捨て、今死んで、生まれ変わったように明日を生きよう。それでは、いったん、サヨウナラ。
「おい、マナブさん、あんた今死ぬのか?」
「――え?」
「死ぬんなら言ってくれよ。経のひとつも上げるから」
「は――」
「骨折して熱でも出た? ねえ、とりあえず暗くなったらあっちの建物をまわってみようよ。ここの鴨はのろくて、もうちょっとでいけそうだ」
「それは、いったい、何の話だ?」
「腹が減っただろ?」
「ああ、うん、そうかもしれない。・・・よし、ふたりで狩ろうか。学生時代の実習以来だが」
無理だろ、くくっ、と覚はさわやかに笑った。こわごわ腕を持ち上げてみるとずきんと痛み、「いてえ」と言ったら、何かが軽くなった気がした。
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