冷血

あとみく

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光合成

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 もういい、と思いながらも、ネットワークの自分宛てメッセージを見るのが怖くて、トップ画面に表示される件数部分を手で隠し、素早く検索画面を立ち上げた。覚の手前、懸命に光合成の単語をメモし続けたが、実際には多少手が震えるほどで、すぐにでも端末を川へ投げ捨ててしまいたかった。
 自分がとんでもないことをしてしまったのではないかという未曾有の恐怖。実体がないことは分かっているのに、今こそが焦るべき時ではないのかと体が警報を鳴らしている。
 学は気休めに、かかとで地面を掘って横並びに三つ印をつけ、左側を今までの自分とその社会、真ん中を今現在の状態、右側を未知の真実、と置いた。三つ、それぞれにおいて焦るべき状況は異なり、目指すものも、枠組みそのものも、すべてが違う。真ん中を見つめて左側を心から遠ざけ、学はゆっくりと深呼吸をした。概念を図に置き替え、視覚的にそれを認識することで、ゲームの外側からルールを確認して状況を整理できる。学は左側のそれをいったん足でならして消し、更に左側につけ直した。過去が遠ざかり、呼吸が落ち着く。あの世界のルールはここには及んでいない。それでいい、すべては概念の幻で、ならば自分の手で書き換えてやればいい。
 そうやって、すべてを数字や量に置き換えて天秤に載せ、重い方を取るというのが学の処世術であり、行動原理でもあったが、それを作ったのは良かれ悪しかれ、学が育った社会だった。それは突き詰めれば「コスト」という概念に集約されるが、しかしあの時、死を選んだ男を前にその天秤が狂い、切れた指を舐められてどこかのバネが飛んだのだった。
 その、かつての秤は、資源と資産と労働と人間関係とを量って、社会と個人の最良をならしていくようなものであったが、これからの<枠外>で必要なのは、もっとはっきりとして、意見を挟む余地のない、いわゆる天然自然の理というまっすぐなもののはず、だと、学は思っていた。
 しかし、学が写し取った光合成の図解はまるでB/SとP/Lで、つまり、左の貸借対照表と右の損益計算書を図式化しているかのようだった。植物の葉緑体の中で行われていたのは、至極大雑把にいえば、まず光(電子)と水(H2O)から還元剤を作り、それで二酸化炭素(CO2)を還元して糖を合成する、という流れのようだった。それは学の社会の言葉で言えば、会社の資産で商品を作り、それを売って利益を上げる、となるが、その意味合いも、小学生が社会科で習うような大雑把さもほぼ等しいように思った。この説明ではその過程に起こる何もかもを省略しているわけだが、チコライド反応、ストロマ反応、ATP合成、光化学系、ATP、NADP+、カルビン・ベンソン回路・・・他、数限りない専門用語は、つまるところ最終的に経常利益を黒字にするために社員が行う何もかもであり、決算のごまかしが利かないことだけが決定的に異なる日々の営みといえた。
 ――否、異なるのはそれだけではない。
 それよりも、決定的なものがある。
 学たちが、その思考も生き方も存在丸ごと、何もかもを秤に載せて、まさに人的資源で社会全体を回してようやっと対の秤に「利益」が載って釣り合うというのに、・・・一枚の葉の中で、水と光と二酸化炭素が化学変換されて「利益」が出る?
 ちょっと、笑う息が喉の奥で詰まった。
 俺たちが頭を使い、体を使い、経験で叩いて鋳造していくこの「利益」のための社会、「利益」のための人生とは、いったい何なのだ? 特殊なA液とB液を試験管で混ぜ合わせる手間すらなく、野ざらしの屋外で日々合成されていく「利益」とは?
 ――ああ、それが、「資源」か。
 学が扱ってきた商品は資源を必要としない、錬金術のような「利益」ではあったが、基本的にそれは社会の余剰資産の上に成り立つ制度だ。そして、その資産がどこからくるのかといえば、ただ地球の資源を右から左へ変換する過程から生まれたものであり、それを元手として、またそれは商品そのものともなって、更なる利益をもたらしている。カネを介した売買という概念を外して考えれば、誰しもが、より魅力的な商品を自分で作って自分で持ち帰って楽しんでいるに過ぎない。しかし遍く、右から左へ、AをBに変換することで「利益」というものが出てくるのだとすれば、学たちの社会も、植物の光合成も、そしてたとえば太陽の核融合のような現象も、みな天然自然の理と言えるのではないだろうか。
 そして、太陽規模にまで膨らんだ学の思考は宇宙の暗闇にまで手を伸ばす。太陽は、地球上の生き物の資源を作るために無償の核融合施設を買って出たわけではあるまい。更に言えば、「地球上の生き物」などという枠はあまりに偏狭すぎて、宇宙の理からすれば一顧だにする必要もない塵以下の存在のはずだ。
 しかし、そうやってマクロとミクロを行き来してまたもめまいを起こしながら、こう思う。「利益」の意味とは、学の社会でいえばあまりに多様で複雑にもなるが、植物でいえば、光合成で生み出す利益は「糖」である。それは植物が茎を伸ばし、葉を生長させ、花を咲かせ実をつけるすべてのエネルギー源として活用されるカロリーのことなのだろうが、その仕組みは生化学として十分に複雑でもある。そして、太陽の核融合が生み出すエネルギーについて、こちらはまだ学の理解の及ぶところではないが、これは物理学の話となる。さて、言うなれば三者三様の世界観、「社会学」と「生化学」と「物理学」があるわけだが、なぜこうも、前者ふたつ、生き物というやつは「利益」「エネルギー」を必要とするのだろう。対して後者の生み出すそれは無限の宇宙にだだ漏れで、誰ひとり有効活用しておらず、ただひたすらに渦を作り、回転し、膨張を続けるばかりだ。
 要するに、この、天秤にかけようのない「在り方」の隔たりは、いったい何なのだろう。宇宙のスタンダードは地球上の生き物でなく物理学の方にあり、それは母体として生き物の世界をも貫いているわけだが、乖離、という言葉でも足らないこの違いはどうしたことだ。その上更に、学たちと、蟻と、植物との違いはどうだ。言葉の通じる覚との違いですら、どうだ。たとえば水や空気、大地と木々、風や星空、海や山という慣れ親しんだジオラマは学たちの普遍の哲学を形作っており、いわば心というハードに入っているOSのような基盤であるが、今や、学のそれはむき出しのコンピュータ言語の羅列となっていた。あるものは元素記号、あるものは生化学の化学変換、あるものは物質とエネルギーの物理方程式に置き換わり、部屋の中にはベッドもソファも、床も天井すらもなく、窓から見えるのはストロマ反応とチコライド反応だ。しかし、自然の真の姿とはそういうもので、学は社会の<枠外>を越えて、生き物の<枠外>へと足を踏み入れつつあった。ただただ、そのことを自覚し、意識し、思考できる自我というべき存在が、稀有であり奇跡であり、異様なのだと思った。
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