黒犬と山猫!

あとみく

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バレンタインの物理学合宿

第103話:ふたり合宿への招待

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 タリーズに移動して、コーヒーとサンドイッチで軽い夕飯。すごい、さっきまずい緑茶と玄米茶でカフェみたいと思ったら、本物に来てしまった。ちょっと薄暗い店内で、マグカップ片手に席に着く。さっきみたいに斜め向かいで、黒井がネクタイを少し緩めたので、思わずぞくっとした。
「そ、その、シャツ。皺になってるよ」
「しょうがないよ」
「え?」
「だって俺がやったんだからさ」
「・・・何が」
「アイロン」
「あ、そう」
 ああ、衝動的にあげた、あのアイロン。ちゃんと使ってるんだ。嬉しいのと恥ずかしいのとで、何も言えなくなる。しばらくは無言で食べた。いつものように、いつの間にか僕の分まで食べられている。別に、いいんだけどさ。
 あらかた食べ終えた頃、黒井がぽつりと言った。
「あの、俺・・・少し、本を読んでもいい?」
「そりゃ、いいよ。俺のこと気にしなくていいから」
「・・・うん」
 本を読み始めるときに人がいると気が散ると思うので、ちょっとトイレに立った。集中した頃合いで、こそっと戻ればいいだろう。っていうか、やっぱりちょっと邪魔だったかな。本気で勉強したいと言ってたんだし、いや、考えてみれば思いっきり邪魔?
 でも今更それを確認したって、まあ邪魔だよとは言われないだろうから、せめておとなしくしていよう。
 トイレの後、少し店内の売り物なんかを見て、ああ、コーヒーを本格的に挽くのも悪くないと思いつつ席に戻った。コーヒー自体が特別好きというわけじゃないけど、香りがいいんだ。
「ねえ」
「ん?」
「何か、紙ない?何でもいいんだけど」
「ノートちぎったやつとかでいい?」
「いい」
「ちょっと待って・・・」
 僕は立ったまま鞄を開く。何だか急いでるみたいだから勢いよく開けて、うわ、ゴディバの袋と、菅野からもらった小さな箱が顔をのぞかせて、あわてて閉じた。いや、別に見られちゃまずいわけじゃないけど、菅野のことも、藤井のこともちょっとだけ気まずかった。
「・・・」
 見えてた、よね。でも今更わざとらしくテーブルから降ろすのも微妙だし、「あ、見た?」とか訊いちゃうのもイヤだし、どうしよっかな。とりあえず反対側のファスナーを開けて、いや、ノートはこっちにはないんだよ。こっちは例の、ブラックホールの資料で・・・。
「その、何か適当な紙でいいからさ」
 コピー用紙を見て黒井が言う。
「あ、いや、これは」
「俺も持ってくればよかった、さっきのセミナーの資料でしょ?」
「いや、違うんだ」
「あ、そう」
 ノートを出すには、もう一度ゴディバとこんにちはしなきゃなんなくて、ああ、資料で一枚くらい白紙とか、なかったかな。
 コピー用紙の束をめくりながら焦ってたら、するっと一枚抜け落ちて、テーブルの上を滑っていった。あ、やばい。
 でも、すぐにひったくるのも不自然だし、特に何でもないよって感じで、ああ、裏向きに落ちれば良かったのに、僕が手を伸ばす前に黒井が手に取って、読み始めてしまった。
 だ、だめだってば!
 思わず手が出た。黒井が呆然として僕を見る。
「な、何でもない」
 僕はコピー用紙を乱暴にしまい、さっさとノートを出して一番後ろのページを破り、テーブルに置いた。リングノートだと、破るのが、楽でいい。
「お、お前」
「何でも、ないってば」
 せっかくあげた紙を見もせず、黒井は僕の顔を見続けている。もう嫌だ、こんなの、消えてしまいたい。ゴディバなんかより、一番見られたくないものを見られてしまった。しかもこそこそ隠したりして、何か、主人公のことが羨ましくてしょうがない脇役の友達みたい。いや、実際そうかもしれないけどさ。
 何で?こんなこと露呈したくて誘ったんじゃないよ。ただ、一緒にいたかっただけなんだ。お前が本を読んでる横にいられたらそれでよかったんだ。なのに、どうしてこうなっちゃうんだろう。本当に恥ずかしいやつ。
「ね、ねえ、お前・・・」
「・・・」
 黒井は鼻で笑って、「え?」と漏らした。そうだよね、「なに、俺について来ようとしてんの?」って感じだよね。お前ならあれだけできっと、相対性理論だのブラックホールだのって記述、分かっちゃっただろうし。もう、本当、時間を巻き戻したい。ここにこうして立っているのが嫌すぎる。
「それ、どうしたの?お前、自分で?」
 もう、ほっといてくれ!
「そんな、・・・ええ?だって」
 いつまでも突っ立っていても仕方ないから、腰を下ろした。憮然としてうつむいたまま。そうだよ、お前が羨ましくて、お前と同じもの見てみたくて、意気揚々と手を出したんだよ。こんなことするんじゃなかった。今となっては本当に恥ずかしくなってくる。
「てっきりお前はさ、死体とか、事件とか、そういうのしか、興味ないかって・・・」
「・・・」
「あ、もしかして、俺のために?」
「・・・」
「何か、コピーしてくれたの?」
「・・・ちがう、よ」
 親切で、興味あるだろうって持ってきたなら、ひったくったりしないよ。
「違うの?なら・・・もしかして、ねえ、こっち向いてよ」
 ちら、と黒井の方に目を向けた。こっちは居たたまれないのに、何でそんな、嬉しそうな顔。
「・・・なに」
「一緒に、やってくれんの?」
「・・・え?」
「お前も、やってくれんの?これ」
 黒井はテーブルの上の本を手で叩いた。見るけど、紫のカバーで、わかんないよ。察したのか、黒井は表紙を開いて、タイトルページを僕に差し出した。
 <標準模型の宇宙>。
 宇宙ってことしか、分かりませんけど。
「・・・何」
「え、お前、どこまで詳しいの?あれ、まさか理系?」
「全然。知るわけない」
「知らないのに、やってくれんの?」
「やってくれるって、何」
「だからこれ。物理。いいの?面倒くさいよ。難しいよ。頭ついてけないよ?」
「・・・え?」
「理系のやつらはさ、教科書あって、先生いて、みんなで出来るじゃん。俺なんか、そんなんわかんないから、一人で本読むだけじゃん。単なる独学、ってレベルでもない、趣味、以下で」
「・・・そんな、難しそうな本」
 読んでるじゃん、と本に目をやるが、聞いちゃいない。
「さっきの紙、見せてよ。線とかいっぱい引いてあった。俺が本渡したから、一人で、やってくれてたの?」
「だからその、やってくれてたって、何。別に、俺は俺で勝手に、面白そうだって・・・」
 僕はコピーの束を取り出すと、どさっと机に放り出した。もう、公開恥さらし。どうにでもなれば?
 黒井はそれを手に取って、「ブラックホール、エントロピー、シュバルツシルト半径、仮想粒子・・・」と単語を読み上げていく。一語聞くたび、もう杭で打たれて引っ込みたくなる。
「・・・ね、お前これ、なんか分かってんの?」
「わ、分かってないよ。分かってないですよ。悪かったねド素人が調子に乗ってかっこつけてさ!」
「ち、違うよ。そうじゃなくてさ。その」
「なに?いいよ、馬鹿にしたければすればいいよ。どうせちょっと読んで分かった気になってるだけだよ。理解なんかしてないし、それに」
「違うってば!だから、内容じゃなくて、なに、テーマ?」
「・・・は?」
 黒井はぱらぱらと紙をめくる。
「相対論・・・っていうか、ブラックホール?熱力学、じゃなくて」
「・・・だから?」
「テーマが、決まってるの?もう?」
「べ、別に、取っ掛かりっていうか」
「自分で、決めて?」
「そう、だよ。・・・もういいでしょ、恥ずかしい!」
「な、何が恥ずかしいって」
「いいよ、うるさいな。どうせお前が羨ましくて始めたことだよ。すいませんね真似っこで!」
「な、なに怒ってんだよ」
 黒井が吹き出すから、僕もつられて、おかしな苦笑い。
「だって何か、すごいって、・・・思ったんだよ。俺は俺で、見えるかも、って」
「・・・なにが?」
「宇宙、の」
「の?」
 ふう、と一息ついて。
「宇宙の、極上ミステリ」
 黒井は少し間を置いて、「・・・かっこいい」とつぶやいた。二人が見つめる先には、ブラックホール特異点の図解。僕は「お前が教えてくれたんだ」と、今度は素直に言うことが出来た。


・・・・・・・・・・・・・・


「何だ、じゃあ別に一緒にやってくれるわけじゃないんだ」
「べ、別に、やるやらないっていうか、ついていけるわけないし・・・っていうかそもそも、その一緒にやるって何?お前の勉強、一緒にやるわけないでしょ」
「そうなの?」
「お前の本番、なんだから」
「いや、だってさ、つい飽きたりするじゃん。ちょっとやってもまたすぐ、どっから何したらいいかわかんなくなっちゃうし、そもそも、張り合いがないし」
「張り合い?」
「だって、何のための何してるのかって、もうないんだよ俺には。仕事でもない、趣味ってわけでもない、舞台もない、どうこうするあてのない知識ばっか増えたって、何やってんだって」
「自分が知りたいから、調べるんでしょ?まあ確かにどうこうするあてはないかもしれないけど、そんなの関係ないよ」
「そうなの?何でそう思えるの?」
「何でって・・・だってそれが勉強じゃん」
「・・・お前は、一人なんだね」
「え?」
「一人で、何でも」
「・・・まあ、そりゃ、一人でやるもんだよ。何でも」
「誰かとやりたくならない?」
「・・・ソロプレイヤーだもんで」
「邪魔?」
「・・・」
 誰かと、一緒に何かを調べる?
 グループ実習なんかは、入りたくても入れない雰囲気で苦痛。
 自分だけの追求なら、もとより他人など関係ない。
 集団に入ってもなお自分を保ったまま、しかも自然に楽しめるような、そういう器では、なかったんだ。だから僕は、自分の愉しみについては必死にそれを守ってきた。それを共有できると思って入ったミス研で、結局最後までそれが出来なかったから。
 だから、僕が黒井の領域にずかずかと無断で入るような真似してるのがバレたのも、許せなかった。自分が一番されたくないことを、してるってわけだ。
 そう思ったら、衝動的に謝った。
「悪かった。邪魔・・・っていうか、邪魔だろ?こんな、人の世界に土足で入るような真似、俺だったら許せない」
「・・・え」
「ごめん」
「あ、謝ることなんか。俺は、誰か一緒にやってくれた方が、助かる、し」
「・・・」
「それに」
「・・・それに?」
「そう言うなら、先にそんなことしたの、俺の方だ」
「え?」
「あの本を、お前に、渡した・・・」
「そ、そんなの」
「俺の趣味と一緒にさ、俺の人生まで、押しつけた。何も言わずに、本当にただ押しつけた」
 黒井は少し自嘲気味に笑った。机に腕をついて、用もなく、マグカップを持ち上げたり、下ろしたり。
「・・・べ、別に」
「たぶんね、俺、ずっとそうしたかったんだけど。・・・怖かったから。だから、あの勝負だってそもそも、勝ったらいうこときくってやつさ、今思えば、俺がこうしたくて提案したわけ。口実、作りたくて」
「・・・そう、だった、の」
 だんだんと前かがみになって、マグカップを抱きかかえるように肘をつく黒井の髪を、何となく見ていた。そっか、そもそも勝負以前の問題だったのか。土俵から、仕組まれてた。
「ああ・・・しかも、ね」
 黒井は顔も上げずつぶやく。
「え?」
「俺ひとつ、ズルしたんだ。話したっけ。まあ、そういうつもりじゃなかったんだけどね。お前の推理の邪魔をしようとか、そんなつもりなかったんだけど」
「え・・・?」
「あの紙切れのこと。<模倣犯>の。あれさ、番号振ってあって、<6>だったんだ」
「・・・うん」
 何だ、<本番>の、七択のこと?見事にしてやられた、模倣犯。
「俺、あれを引いてすぐに、<1>は何だって、それが気になった。だいたい人ってさ、最初にそれを書くじゃん。一番のお気に入りとか、好きなのをさ。だからそれ、何とかわかんないかなって。そしたらお前がくれた紙に、ほら、次のページだったから、筆圧で、うっすら見えた」
「・・・ああ」
 <1>?何だったかな。あの時はとにかく、キレてる犯人像ってことを考えてて・・・。
「<ハンニバル>って、名前くらいは知ってたからさ、怖い映画のやつだって。それでそのまま駅前の本屋に走って、上巻だけあったからすぐ買って読んだんだ。今思えば、それでお前が最後にその答えを書いたってのはやっぱり、俺がルールを外れてズルしたからかもしれないね」
「・・・」
 そうだったのか。それなら、きっとそうだ。だって僕は黒井があのファミレスを出て真っ先に何を買ったか、借りたか、で推理してたんだ。じゃあ、当たってたんじゃないか。王座で眠る、狼。翌日の「おはよう、山根くん」。ああ、<本番>は、ルール以前の駆け引きだったんだな。僕はいつも理屈ばかり追いかけて、でも本来は何だって、人間同士の駆け引きなんだ。テストの問題用紙の誤植に律儀に付き合って減点されてる僕は、それも教師という一人の人間が作ってるってことを忘れてる。<本番>だって、そもそも何で黒井が人質ごっこをやりたいと言い出したのか、結局、考えもしなかった・・・。
 黒井が顔を上げ、ゆっくり体を起こした。僕の方を見る。僕はそっと目を逸らす。
「だから、土足で上がりこんでんの、俺の方だよ。自分のもの押し付けて、お前のものはこっそり読んで」
「・・・」
「こっちこそ、謝るよ。一緒にやってくれるなんて、傲慢」
「違うよ」
「え?」
 思わず声が出た。違う。本当は一緒にやりたい。やれたら幸せだ。でも、まだ無理。こんな駆け出しで、自分に自信も持てない状態で、お前の隣になんて並べない。
「違うんだよ。とにかく俺は、自分がやりたくてやってるだけだから、気にしないでほしいんだ。その、時空が伸び縮みするだとか、ブラックホールに落ちる情報だとか、どんだけすごいアリバイ工作なんだって、それで調べてるのであって・・・。だから、俺は俺で勝手にやって、勝手に、その、お前が、何かしてほしいなら、それも・・・」
 黒井は、「アリバイ?」と変な顔でつぶやいて、「・・・やっぱりやってくれるの」と言った。
「・・・そう、だよ。・・・いや、だからそんな、何とか模型とか無理だよ!始めて一週間の人間に何を求めてるんだ」
「何だ、じゃあ最初から、やるって言えばいいのに」
「人の話聞け」
「そっか。いいのか。手伝ってくれるとか、助けてくれるんじゃなくて、お前が自分の意思でやって、・・・なおかつ手伝ってくれる」
「そ、そういうこと」
「あ、言っとくけどね、俺は自分から死体まみれのDVDとか見始めないからね」
「・・・いいよ見なくて」
「アリバイがどうとか、言わないからね」
「・・・いいよ、それは俺がする」
「あと、それから」
「まだあるわけ」
 すると、店員が話しかけにくそうに近づいてきて、「お客様、そろそろ閉店の時間になりますので・・・」と告げた。反射的に腕時計を見ると、もう20時50分。ちょっと気まずく「あ、はい」と会釈して、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。
「・・・で、何?」
「え?」
「それから、何」
「ああ、それから、ね」
 黒井は立ち上がって、標準なんとかの本と僕の渡した切れっぱしをしまい、コートを着ながら、「ろくに読めなかったから」と言った。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったね」
「ううん、いいんだ。だって、これから」
「これから?」
「・・・合宿。物理の、勉強合宿」
「・・・え?」
「合宿しよう。それがいい!」
「はあ?」
 僕がマグカップと皿を片付けようとすると、店員が「お客様そのままで結構です」とそれを制した。所在無くなったその手を仕方なく下ろし、僕は「え、今から?」と訊いた。黒井はさも当然という顔で、最初から皿なんか見ることもなく、さっさとタリーズを出て行った。
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