黒犬と山猫!

あとみく

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バレンタインの物理学合宿

第106話:一緒に寝てるのに、胸が苦しい

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 玄関で、僕は濡れたコートとズボンをハンガーにかけ、靴下も脱いで、そのまま風呂場に向かった。黒井がブーツの紐を解いているうちに、シャワーで湯を出して、足を温めた、というか、溶かした。手も足も真っ赤で、湯が温かいというより痛い。それでもだんだんと感覚が戻り、ちょっとしもやけのようなかゆみも出てくる。石鹸で洗って足同士をこすり合わせていると、同じくパンツ一丁の黒井がやって来た。
「あ、ずるいな。っていうか、風呂に入ればいいのに」
「・・・この湯、いつためた?」
 僕は小さな湯船に張ってある、湯気の出ていない水を見る。風呂場で水を眺めていると、錯覚もあって、何か体に悪い。
「さあ。先週?」
「・・・この風呂って追い炊き出来るの?」
「いや、そういうのは・・・」
「意味もなく水が張ってある横で、この寒いのにシャワーで済ませてたってわけ。俺、今から風呂掃除までしてる元気ないよ。ほら、お前も足、あっためる?いや、その前にタオル取って」
 黒井ははいはいと大人しく従って、僕は風呂場を出た。うん、このバスマットも、いつ洗ったのやら。それでもタオルでしっかりと足を拭くとだいぶ気分が落ち着いてきた。そうだ、歯も磨いたらたぶんもっと落ち着く。それでしばらく一人で考えたら、きっとさっき言われたいろんなことがちゃんと腹に収まるかもしれない。

 黒井がもう少し本を読むというので、僕は先にベッドで寝かせてもらうことにした。考えるにはちょうどよくて助かる。一緒に寝たのでは、どうもこうもなくなってしまいそうだったし。
 枕代わりのバスタオルを借り、上はYシャツのまま布団に入った。そんなのは普通許せないんだけど、上から下まで黒井の服になってしまっては、自分を保てそうになかった。黒井の匂いのする布団に入っておいて今更ではあるけど、ほんの少しだってそうしておかないと、誘惑に負けてしまいそうだ。黒井に会えないときはそれを求めてやまないくせに、少し自分が受け入れられそうになると慌てて離れるんだな。
 ・・・受け入れ、られる?
 さっき言われたことは全部一緒くたに<一時フォルダ>に突っ込んでしまったけど、今のままではきっと僕は、何だかそういう理解で勝手に舞い上がるだろう。後で馬鹿を見るのは自分なんだから、思い込みは禁物。だめだめ、都合よく勘違いした<可>をつけるくらいなら、問答無用で<否>をつけた方がマシだ。
 ・・・。
 えーと、確か、僕はまだドナウ河で、いや、ライン川で止まっていて、そう、あいつは二年ドイツにいたんだと言ってた。留学先までかっこいいんだね。いや、留学とも限らないのかな。ドイツに二年間住む理由なんて、見当もつかないね。・・・もしかして、ハーフとかクオーターだったりするの?そんなのもうかっこよすぎるんですけど。ドイツってハイゼンベルクの国だよ?あ、もしかしてそれもあるのかな、興味持ったのは。うん、まあそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 それで、ドイツにいたことを僕が知らなかったって、ああ、だからお前は俺に興味がないのかって・・・。それから、そう、俺はお前に興味があるとか。・・・本当に?逆じゃないのかな。でも、訊き方がわかんないってあいつは笑った。お前が何も言わない、とか。
 その後はえっと、そう、本を渡して、それで、・・・俺は寂しい、とか。そう、寂しかったとか言ってた。あいつが寂しいなんて、何で?
 ・・・。
 僕に興味があるって、いったいどういうこと?
 立たせて、なんてせりふと一緒に、心拍数も上がる。背中の向こうにあいつがいるのに、性懲りもなく。
 あ。でも、ふと思った。
 ああ、こうしてやっぱり分類して整理して検討している僕は、うん、僕だって、自分にしか興味がないんだ。
 お前が僕のことどう思ってるかって部分にしか興味がなくて、お前がどんな気持ちでそれを僕に言ってるのかとか、どういう心情なのかとか、考えもしない。こないだの雪の日の電話でだって、ただ語られることを黙って聞いて、受け取るだけ受け取って、その範囲で分かった気になって、その実、きっと何も理解なんかしていない。だって、今日タリーズであいつは、本と一緒に人生まで押しつけたなんて言ったけど、僕はそんなせりふを受け入れる器もないような気がした。意味を取ることに執心して、理屈が合えば謎解き終了で、でも黒井は、そんなんじゃない、生きている人間なんだ。
 僕が人間を、一人の人間を、理解して、受け入れる?
 そんなこと出来そうもない、と反射的に思った。黒井のためなら出せるものはいくらだって出すし、取られても、削られても構わない。でもそれは全部あいつにされること、受動的なことであって、積極的にこちらから求めたり、訊くだなんて、だめだ、おこがましくて、手が震える。そんなの身の程知らずだ。寂しいだって?寄りかかられたって、男の貧相な身体があるばかりで、せいぜいあんなものしか出てこないぞ。期待してくれるな、がっかりされるのが一番嫌なんだ。出来る振りして出来なくて、苦笑いされるのが嫌なんだ。切羽詰まらなきゃ、その壁、越える勇気はわいてこない。普段の生活じゃ、そんなの、無理。

 一睡もしないまま、でも黒井が電気を消してベッドに入ってくる気配はない。徹夜で読む気かな。振り向いて様子を伺いたいけど、結局身じろぎも出来ず、体勢を変えたくても変えられないでただ息をした。
 何でもいいから、どうでもいい会話をしてほしいって欲求と、もう本当のこと全部言ってしまいたくなる衝動と、そして、なおも<可>を求めてさまよう現状維持と。
「んんー・・・」
 黒井が突然うめいた。少し動く気配。ベッドに、寄りかかる振動。一息つくのか、それとも、今日は終わるのかな。
 部屋を出ていって、トイレと歯磨きの五分間ののち、暖房と電気が消えて、隣に入ってきた。僕はたぶん不自然なくらいじっとしていて、まるで巨大な盗聴機にでもなった気分。
 その後も黒井はああとかううとかため息をついて、たぶん両手を頭の下で組んで天井を見上げている。何となく、目を開けてるんじゃないかなと思った。
 物理のことを考えているんだろうな。
 そう思ったら、急に緊張が解けて楽になった。僕のことなんかじゃなくて、そう、物理のことを考えていてくれれば、雪を見てるその横顔みたいに、僕は隣で、一緒にいてもいいかななんて思える。僕はそういう時間が好きだ。
 ああ、と思った。
 僕は、恣意的に介入するのが嫌なんだ。手つかずの森みたいな静謐なそれを、ただ眺めていたい。遠くから眺めて、そしてその森に分け入ったとしても、絶対にその自然の系を乱すようなことはしたくない。ポイ捨てだとか、植樹したりとか、他の生態系を持ち込むなんて、もってのほかだ。鑑識作業中だって、DNAサンプルのプレートの真上でくしゃみとか、あり得ない。そう、そんなのってあり得ないんだ。興味がないとかじゃなくて、ただ、汚染してしまわない範囲内で、一緒にいたいんだよ。僕はお前のそのままが好きなんだ。僕のことなんか考えないで。一緒にいさせてくれたらそれで・・・。
 ・・・。
 どうして、一緒にいるのに、ひとつ布団に一緒にいるってのに、こんなに苦しいんだよ!
 望み通り、本当にまるまる理想以上で、黒井は僕と一緒に今こうしているじゃないか。それなのに、どうしてこんなに胸が痛いの?これって、嬉しくて胸がいっぱいだから、じゃない。その痛みじゃない。
 そうじゃないよ、やっぱり、だめだね。
 ずるい。
 理屈じゃないんだよ。これって卑怯だ。せめて僕は、今考えたことを説明すべきだ。お前に何も訊かないのはお前に興味がないからじゃないんだって、伝えなくちゃ。上から目線みたいで嫌だし、それに、興味って何の興味だよって言われたら困るけど、でも、やっぱりこのままなんて、だめだ。誠実じゃない。
 藤井は返事が要らないんだって、言葉を尽くして説明してくれた。黒井だって、言葉を尽くして僕に言ってくれたんじゃないか。その言葉は、態度は、返事が要らないなんて言ってない。それはちゃんと伝わってる。伝わってるのに無視するなんて、お前のことが好きな僕がする行為じゃない。そんな僕には、出しゃばりで自重できない僕に出すより大きな<否>がつくよ。 
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